6 月奈がいたから
しばらく歩いたあと。
月奈は隣を見上げた。
夕陽が黒縁眼鏡のレンズに映って、その奥の目までは見えない。
「東雲先輩」
「ん?」
「じゃあ、どうしてあの日話してくれたんですか?」
朔夜は少しだけ考える。
「月奈が俺を見て、暁人って呼んだから」
月奈は目を見開いた。
雨の中。
『……暁人?』
確かに、そう言った。
「その時に思った」
朔夜は前を向いたまま続ける。
「もうだいぶ気づいてるんだろうなって」
「……」
「だから隠しても意味がないと思った」
月奈は黙り込む。
あの日の自分は混乱していた。
けれど。
朔夜には見えていたのかもしれない。
「それだけ?」
思わず聞いてしまう。
朔夜は少しだけ考えた。
「……あとは」
月奈は息を止める。
「隠し続けるのも違うと思った」
静かな声だった。
「そうですか」
月奈は小さく頷く。
それ以上は聞かなかった。
聞けなかったのかもしれない。
しばらく歩いてから、今度は朔夜が口を開く。
「月奈は」
「え?」
「どこまで思い出した?」
月奈は足を止めそうになる。
その質問が来るとは思っていなかった。
「どこまで……」
小さく繰り返す。
思い出したことはたくさんある。
庭を駆け回った幼い頃。
朝頼や蛍と過ごした日々。
右大臣家での暮らし。
琴を練習したこと。
暁人に褒められて嬉しかったこと。
そして。
暁人。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「多分、最後まで」
月奈はゆっくり答えた。
「最後まで?」
「はい」
朔夜を見る。
「入内の日まで」
朔夜の表情は変わらない。
けれど、その目だけが、静かに月奈を見ていた。
「約束したことも」
月奈の声は、少しだけ小さくなる。
『来世で……また会いましょう』
『次こそは、貴女を、迎えに参ります』
あの夜の月明かり。
あの時の声。
今でも鮮明に思い出せる。
「全部、思い出しました」
そう言うと、朔夜は何も言わなかった。
ただ静かに前を向く。
その横顔を見て、月奈はふと思う。
この人も。
忘れていなかったのだ。
あの日のことを。
あの約束を。
ずっと。
ずっと一人で覚えていた。
「……東雲先輩」
気づけば呼んでいた。
朔夜が視線を向ける。
夕陽は、もうだいぶ低くなっていた。
「苦しくなかったんですか」
月奈はぽつりと言う。
「ずっと一人で覚えてて」
「……」
「私、最近までよく分かってなかったのに」
眼鏡の奥で、朔夜は少しだけ目を細めた。
それは、笑ったようにも見えた。
「苦しくなかったって言ったら嘘になる」
月奈の胸が小さく痛む。
やっぱり。
そうだったのだ。
「でも」
朔夜は続ける。
「月奈がいたから」
月奈は息を止めた。
「え……?」
朔夜は少し困ったように笑う。
「だから大丈夫だった」
その言葉の意味を、月奈はすぐには理解できなかった。
けれど、胸の奥が少しだけ熱くなる。
◇
夕暮れの道を、二人は並んで歩き続けた。
しばらく、二人とも口を開かなかった。
不思議と気まずくはない。
月奈は、さっきの言葉を思い返していた。
『月奈がいたから』
『だから大丈夫だった』
その言葉が、頭から離れない。
どういう意味だったんだろう。
考えても分からない。
分からないのに、落ち着かなかった。
「……」
月奈はそっと前を向いた。
住宅街を歩く。
見慣れた道。
いつもの帰り道。
なのに、今日はどこか違って見えた。
考え事をしていたせいだろうか。
時間の感覚が、妙に曖昧だった。
「着いた」
不意に朔夜が言う。
「え?」
月奈は顔を上げた。
目の前にあったのは、自宅の門だった。
「……えっ?」
思わず声が出る。
「もう?」
朔夜が少しだけ笑った。
「もう、だな」
月奈は呆然と門を見る。
本当に覚えていない。
帰り道の半分くらい、ずっと考え込んでいた気がする。
その原因が誰なのかは、考えないことにした。
「……」
沈黙が落ちる。
家に入ればいい。
それだけなのに、なぜか足が動かない。
「じゃあ」
ようやく月奈が口を開く。
朔夜は小さく頷いた。
それだけで終わるはずだった。
けれど。
「月奈」
呼び止められる。
心臓が跳ねた。
「はい」
振り返る。
夕陽を背にした朔夜が立っていた。
眼鏡のふちが、淡く光っている。
「無理するなよ」
月奈は目を瞬く。
「熱ならもう下がりました」
「そういうことじゃない」
静かな声だった。
けれど、その言葉の意味が分からないほど、月奈は鈍くなかった。
前世のこと。
思い出した記憶。
一昨日の夜から起きたこと全部。
きっと朔夜は、それを言っている。
「……」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「大丈夫です」
そう答えると、朔夜は眼鏡を押し上げながら、少しだけ困ったように笑った。
「うん」
その表情に、安心する。
「じゃあ」
今度こそ、月奈は笑った。
「また明日」
朔夜も小さく頷く。
「また明日」
月奈は家の門をくぐる。
玄関へ向かいながら、振り返りたくなった。
けれど、振り返るのはやめた。
代わりに胸元をそっと押さえる。
落ち着かない。
理由なんて分からない。
ただ。
明日も会えることが、少しだけ嬉しかった。




