4 聞きたいこと
しばらく作業をしていると、光希が立ち上がった。
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「ちょっとトイレ」
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「いってらっしゃい」
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軽く手を振って見送る。
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扉が閉まる。
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美術室には他の部員もいる。
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けれど。
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なぜか急に落ち着かなくなった。
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月奈はスケッチブックへ視線を落とす。
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描かなきゃ。
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そう思うのに集中できない。
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視界の端に朔夜がいる。
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それだけで意識してしまう。
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その時。
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「神谷」
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名前を呼ばれる。
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心臓が跳ねた。
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「……はい」
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顔を上げると、朔夜がこちらを見ていた。
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「まだ無理してないか」
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静かな声。
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月奈は思わず目を瞬く。
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「大丈夫です」
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少しだけ早口になる。
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「そうか」
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朔夜はそれ以上追及しない。
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けれど視線だけは優しかった。
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それが余計に困る。
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一昨日のことなんて何もなかったみたいな顔をしているのに。
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優しい。
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昔からそうだった。
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いや。
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昔から――なのだろうか。
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暁人の記憶がよぎる。
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御簾越しに聞いた声。
月明かりの下で見た横顔。
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胸が少し苦しくなる。
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「……東雲先輩」
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気づけば呼んでいた。
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「ん?」
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朔夜が顔を上げる。
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聞きたいことはたくさんある。
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いつから思い出していたのか。
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どうして黙っていたのか。
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あの言葉は。
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前世の続きだったのか。
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それとも――
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「……」
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言葉が出てこない。
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朔夜は急かさずに待っている。
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その沈黙が、余計に月奈を困らせた。
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「なんでもないです」
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結局、そう言うしかなかった。
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一瞬だけ。
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朔夜は少しだけ目を伏せた。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
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「そうか」
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それだけだった。
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月奈は再びスケッチブックへ視線を落とす。
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けれど、もう絵なんて描けなかった。
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部活が終わる頃には、外はすっかり夕暮れだった。
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「じゃあまた明日」
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光希が鞄を肩にかける。
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「うん。またねー」
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月奈が手を振ると、光希はにやりと笑った。
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「月奈も無理しないようにね」
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「もう元気だって」
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「はいはい」
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意味ありげな顔を残して、光希は美術室を出ていった。
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月奈は小さく息を吐く。
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今日一日、なんだか落ち着かなかった。
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東雲先輩と同じ空間にいるだけで緊張してしまう。
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自分でも困るくらいに。
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鞄を持って立ち上がる。
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帰ろう。
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そう思った時だった。
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「神谷」
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呼ばれて振り返る。
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朔夜だった。
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「はい」
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また少しだけ声が硬くなる。
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朔夜はそんな月奈を見て、一瞬だけ何か言いたそうな顔をした。
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けれど結局、静かな声で言う。
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「一緒に帰ろう」
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月奈の心臓が跳ねた。
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昔なら何でもない言葉だった。
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家が近いから。
朝陽も含めて、一緒に帰ることだってあったから。
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なのに。
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今は全然違う。
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「……はい」
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小さく頷く。
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それだけで胸が落ち着かなくなった。
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二人で美術室を出る。
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廊下を歩いて。
階段を下りて。
昇降口を抜ける。
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どれもいつも通りだった。
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けれど月奈だけが、いつも通りじゃない。
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外へ出ると、少しひんやりした風が吹いた。
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夕焼けに染まった道を、二人で歩く。
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しばらく会話はなかった。
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気まずいわけじゃない。
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でも静かだった。
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月奈は何度も口を開きかける。
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聞きたいことはたくさんある。
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いつから思い出していたのか。
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どうして黙っていたのか。
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そして。
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『ずっと好きだった』
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あの言葉は。
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月奈はぎゅっと鞄の持ち手を握った。
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聞かなきゃ。
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そう思うのに勇気が出ない。
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けれど。
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このまま何も聞けない方が嫌だった。
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月奈は意を決して顔を上げる。
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「東雲先輩」
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「ん?」
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朔夜がこちらを見た。
急かすことも。
誤魔化すこともなく。
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その目を見た瞬間、少しだけ勇気が湧く。
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「聞きたいことがあるんですけど」
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朔夜は驚かなかった。
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まるで。
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いつか聞かれると分かっていたみたいに。
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「うん」
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静かな返事が返ってくる。
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月奈は小さく息を吸った。




