12 入内の日
「私は……」
月乃の声が震える。
「入内なんて、したくない……」
その瞬間、暁人の表情が揺れた。
言ってはいけない言葉だった。
けれど、もう止められない。
「あなたの傍にいたい。ずっと……」
暁人がゆっくり目を閉じる。
その顔は、先ほどよりもずっと苦しそうだった。
同じ願いを抱いているのに。
それでも、それは許されない。
「……逃げられません」
低い声。
「右大臣家も、姫様も。もう、止まれないのです」
月乃は唇を噛む。
分かっている。
分かっているから、苦しい。
「……ずっと一緒にいようって」
ぽつりと零れる。
「昔、約束したのに」
暁人の目が揺れる。
それは、忘れていない目だった。
忘れられるはずがなかった。
「……覚えております」
静かな声。
「あの日の言葉は、一度も」
言いかけて、暁人は言葉を飲み込む。
守れなかったことを、誰よりも分かっていたから。
月乃は涙をこらえながら笑う。
「守れなかったね」
沈黙。
やがて、暁人が小さく息を吐いた。
そして静かに言う。
「……私は」
言葉が少し震える。
「あの時、思っておりました。姫様は、いずれ宮中へ入られる方だと。だからせめて」
暁人は目を伏せる。
「お傍にいられる“その時だけ”で良いと」
月乃の胸が痛む。
それは諦めであり、優しさであり、最初から決まっていた別れだった。
暁人はゆっくり月乃を見る。
その目は、どこまでも優しくて。
どこまでも残酷だった。
「……もし」
掠れる声。
「来世というものがあるなら」
月乃の涙が零れる。
暁人は続けた。
「次こそは」
言葉を一度切る。
それでも、逃げなかった。
「貴女を、迎えに参ります」
月乃は泣きながら頷く。
今世ではもう終わる。
だからせめて。
その先に、救いを置くしかなかった。
「……ええ。来世で……また会いましょう」
夜は静かだった。
その約束だけが、二人の最後の居場所だった。
◇
入内の日の朝は、驚くほどよく晴れていた。
空は高く、雲ひとつない。
昨夜のことなど、まるで夢だったかのような青空だった。
屋敷の中は朝早くから慌ただしい。
女房たちが行き交い、庭には見送りの者たちが集まっていた。
誰もが祝いの顔をしている。
今日という日が、右大臣家にとって誇らしい日だからだ。
月乃は支度を終え、静かに庭へ出た。
幾重にも重ねられた衣は重く、歩くたびに裾が揺れる。
幼い頃から見慣れた庭が、今日は少し違って見えた。
もう、気軽に戻ってこられる場所ではなくなる。
「月乃」
呼ばれて振り向く。
父上だった。
その隣には兄上もいる。
「支度は整ったか」
「はい」
月乃が答えると、父上は満足そうに頷いた。
「そうか」
それだけだった。
父上らしい言葉だった。
けれど。
その目の奥に、娘を送り出す父親の寂しさが見えた気がした。
少しだけ沈黙が落ちる。
その空気を和らげるように、朝頼が小さく息を吐いた。
「こうしていると、まだ実感が湧かないな」
「兄上も?」
「ああ」
朝頼は苦笑した。
「明日もお前がふらりと私の部屋へ来そうな気がする」
月乃は兄上を見る。
兄上は昔から変わらない。
いつも少し呆れた顔で、それでも見守ってくれていた。
「兄上」
「何だ」
「今まで、ありがとう」
一瞬だけ、朝頼の表情が止まる。
それから、困ったように笑った。
「そんなことを言うな。まるで二度と会えぬようではないか」
月乃も笑う。
「そうね」
そう言いながら。
なぜか、もう二度と戻れない気がしていた。
出立の刻が近づく。
女房が静かに声をかけた。
「お時間です」
月乃はゆっくり頷く。
そして最後にもう一度だけ、屋敷を見渡した。
庭。
渡殿。
琴を弾いた御簾の向こう。
月明かりの落ちる庭。
幼い頃から過ごした場所。
姿はない。
探してはいけない。
そう分かっているのに。
どうしても、視線が向いてしまった。
月乃は小さく息を吐く。
昨夜、言いたいことは全部伝えた。
だから、もう振り返らない。
そう決めたはずだった。
けれど、胸の奥では、今もあの声が響いている。
「次こそは、貴女を、迎えに参ります」
月乃はそっと目を閉じる。
そして、微笑んだ。
「……待っています」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
やがて輿が動き出す。
晴れ渡った空の下。
月乃は、生まれ育った屋敷を後にした。
その先に待つ運命を、まだ誰も知らないまま。




