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めぐり逢う月と暁  作者: 我亦恋
前世編
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17/32

10 入内前夜

入内の日は、少しずつ近づいていた。



 屋敷の者たちは忙しそうだった。



 新しい衣。


 調度品。


 挨拶に訪れる人々。



 誰もが祝福していた。



「おめでとうございます」



「姫様なら、きっと立派な妃になられます」



 そんな言葉を聞くたびに、月乃は微笑んだ。



 姫として。


 右大臣家の娘として。



 そうするべきだと分かっていたから。





 けれど。



 夜になると、笑えなくなる。



 琴の前に座っても、以前のようには弾けない。



 指の傷は少しずつ治っていた。



 それなのに。



 胸の奥の痛みだけが消えない。



 ぽろん。



 一音だけ鳴らして、手を止める。



 気づけば。



 また御簾の向こうを見ていた。



 誰もいない。



 風だけが静かに庭を渡っていく。





 ある日。



 月乃は兄上の部屋を訪れた。



 用事があったわけではない。



 ただ、なんとなく顔が見たくなったのだ。



『どうした』



 朝臣が書状から顔を上げる。



「邪魔だった?」



『いや』



 兄上は少し笑った。



『珍しいな』



 月乃は曖昧に笑う。



 部屋を見回した。



 いつもと変わらない部屋。



 書状の山。


 机。


 棚。



 何度も見慣れた景色だった。



 けれど。



 入内してしまえば、こうして気軽に訪れることもできなくなる。



 そう思うと、なぜか目に焼き付けておきたくなった。



『月乃?』



 兄上の声に、はっとする。



「だって……」



 言いかけて口をつぐんだ。



 入内すれば。



 こうして兄上の部屋へふらりと来ることもできなくなる。



 兄上にくだらない話をすることも。


 父上に叱られることも。



 当たり前だった日々が終わる。



「少し話したくなっただけ」



 そう言うと、朝臣は何も聞かなかった。



『そうか』



 短い返事。



 それが妙に優しかった。





「兄上は寂しくないの?」



 ふと尋ねる。



 朝臣は少しだけ目を細めた。



『寂しくないと言えば嘘になるな』



 意外な答えだった。



 月乃は思わず笑う。



「そうなんだ」



『当たり前だ』



 朝臣は苦笑した。



『お前は私の妹だからな』



 その言葉に。



 月乃は少しだけ泣きそうになった。



 兄上は昔から変わらない。



 忙しくなっても。


 厳しい顔をするようになっても。



 ちゃんと兄上のままだ。





『月乃』



「なに?」



『向こうへ行っても、お前らしくいろ』



 月乃は目を瞬く。



 姫らしく、とも。


 右大臣家の娘として、とも。



 兄上は言わなかった。



『それが一番難しいだろうがな』



 そう言って笑う。



 月乃もつられて笑った。



 兄上とこうして話す時間も。



 この屋敷で過ごす日々も。



 もう長くはない。



 だからこそ。



 この時間が終わらなければいいのにと、思ってしまった。





入内を明日に控えた夜。



 右大臣家は、遅くまで慌ただしかった。



 女房たちは最後の確認に追われ、


 廊下には人の気配が絶えない。



 けれど。



 月乃の周りだけが、妙に静かだった。





『姫様、お休みになられませんと』



 蛍がやわらかく声をかける。



 月乃は小さく頷いた。



「……うん」



 でも、動けない。





 明日になれば。



 この屋敷を出る。



 もう今までみたいには戻れない。



 そう思うほど、胸の奥が静かに痛んだ。





 蛍は少しだけ月乃を見つめる。



 そして、ためらうように口を開いた。



『姫様』



「なに?」



『……後悔は、なさいませんか』





 月乃の指が止まる。



 その問いの意味を、考えなくても分かってしまった。





『蛍……』



『私は何も見ておりません』



 蛍は静かに微笑む。



『でも』



 一度言葉を切る。



『会いたいお方がおられるのでしたら』



『今しか、ございません』





 月乃の胸が大きく揺れる。



 行ってはいけない。



 そんなことは分かっている。



 でも。



 会いたかった。



 どうしても。





 月乃はゆっくり立ち上がる。



 その姿を見て、蛍は何も言わなかった。



 ただ静かに、道を開けるように下がる。





 夜の庭は静かだった。



 風が木々を揺らし、


 月明かりが白く庭を照らしている。



 月乃は胸を押さえながら歩く。



 足が震える。



 怖いのか。



 それとも。



 期待しているのか、自分でも分からなかった。



 そして。



 月明かりの落ちる庭先に、人影が見えた。



 月乃の呼吸が止まる。



(……暁人)



 見間違えるはずがなかった。



 静かに立つその姿は、ずっと会いたかった人だった。



 なぜそこにいるのか。



 偶然なのか。


 それとも――。



 そんなことを考えるより先に。



 月乃の足は、一歩前へ進んでいた。

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