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めぐり逢う月と暁  作者: 我亦恋
前世編
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17/32

10 入内前夜

入内の日は、少しずつ近づいていた。


 屋敷の者たちは忙しそうだった。


 新しい衣。


 調度品。


 挨拶に訪れる人々。


 誰もが祝福していた。


「おめでとうございます」


「姫様なら、きっと立派な妃になられます」


 そんな言葉を聞くたびに、月乃は微笑んだ。


 姫として。


 右大臣家の娘として。


 そうするべきだと分かっていたから。


◇


けれど。


 夜になると、笑えなくなる。


 琴の前に座っても、以前のようには弾けない。


 指の傷は少しずつ治っていた。


 それなのに、胸の奥の痛みだけが消えない。


 ぽろん。


 一音だけ鳴らして、手を止める。


 気づけば。


 また御簾の向こうを見ていた。


 誰もいない。


 風だけが、静かに庭を渡っていく。


◇


 ある日、月乃は兄上の部屋を訪れた。


 用事があったわけではない。


 ただ、なんとなく顔が見たくなったのだ。


「どうした」


 朝頼が書状から顔を上げる。


「邪魔だった?」


「いや」


 朝頼は少し笑った。


「珍しいな」


 月乃は曖昧に笑う。


 部屋を見回した。


 いつもと変わらない部屋。


 書状の山。


 机。


 棚。


 何度も見慣れた景色だった。


 けれど、入内してしまえば、こうして気軽に訪れることもできなくなる。


 兄上にくだらない話をすることも。


 父上に叱られることも。


 当たり前だった日々が、終わる。


 そう思うと、目に焼き付けておきたくなった。


「月乃?」


 兄上の声に、はっとする。


「少し話したくなっただけ」


 そう言うと、朝頼は何も聞かなかった。


「そうか」


 短い返事。


 それが妙に優しかった。


「兄上は寂しくないの?」


 ふと尋ねる。


 朝頼は少しだけ目を細めた。


「寂しくないと言えば嘘になるな」


 意外な答えだった。


 月乃は思わず笑う。


「そうなんだ」


「当たり前だ」


 朝頼は苦笑した。


「お前は私の妹だからな」


 その言葉に、月乃は少しだけ泣きそうになった。


 兄上は昔から変わらない。


 忙しくなっても。


 厳しい顔をするようになっても。


 ちゃんと兄上のままだ。


「月乃」


「なに?」


「向こうへ行っても、お前らしくいろ」


 月乃は目を瞬く。


 姫らしく、とも。


 右大臣家の娘として、とも。


 兄上は言わなかった。


「それが一番難しいだろうがな」


 そう言って笑う。


 月乃もつられて笑った。


 兄上とこうして話す時間も。


 この屋敷で過ごす日々も。


 もう長くはない。


 だからこそ、この時間が終わらなければいいのにと、思ってしまった。


◇


 入内を明日に控えた夜。


 右大臣家は、遅くまで慌ただしかった。


 女房たちは最後の確認に追われ、廊下には人の気配が絶えない。


 けれど、月乃の周りだけが、妙に静かだった。


「姫様、お休みになられませんと」


 蛍がやわらかく声をかける。


 月乃は小さく頷いた。


「……うん」


 でも、動けない。


 明日になれば、この屋敷を出る。


 もう今までみたいには戻れない。


 蛍は少しだけ月乃を見つめる。


 そして、ためらうように口を開いた。


「姫様」


「なに?」


「……後悔は、なさいませんか」


 月乃の指が止まる。


 その問いの意味を、考えなくても分かってしまった。


「蛍……」


「私は何も見ておりません」


 蛍は静かに微笑む。


「でも」


 一度、言葉を切る。


「会いたいお方がおられるのでしたら」


「今しか、ございません」


 月乃の胸が、大きく揺れる。


 行ってはいけない。


 そんなことは分かっている。


 でも。


 会いたかった。


 どうしても。


 月乃はゆっくり立ち上がる。


 その姿を見て、蛍は何も言わなかった。


 ただ静かに、道を開けるように下がる。


◇


 夜の庭は静かだった。


 風が木々を揺らし、月明かりが白く庭を照らしている。


 月乃は胸を押さえながら歩く。


 足が震える。


 怖いのか。


 それとも。


 期待しているのか、自分でも分からなかった。


 そして。


 月明かりの落ちる庭先に、人影が見えた。


 月乃の呼吸が止まる。


(……暁人)


 見間違えるはずがなかった。


 静かに立つその姿は、ずっと会いたかった人だった。


 なぜそこにいるのか。


 偶然なのか。


 それとも――。


 そんなことを考えるより先に、月乃の足は、一歩前へ進んでいた。

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