10 入内前夜
入内の日は、少しずつ近づいていた。
屋敷の者たちは忙しそうだった。
新しい衣。
調度品。
挨拶に訪れる人々。
誰もが祝福していた。
「おめでとうございます」
「姫様なら、きっと立派な妃になられます」
そんな言葉を聞くたびに、月乃は微笑んだ。
姫として。
右大臣家の娘として。
そうするべきだと分かっていたから。
◇
けれど。
夜になると、笑えなくなる。
琴の前に座っても、以前のようには弾けない。
指の傷は少しずつ治っていた。
それなのに、胸の奥の痛みだけが消えない。
ぽろん。
一音だけ鳴らして、手を止める。
気づけば。
また御簾の向こうを見ていた。
誰もいない。
風だけが、静かに庭を渡っていく。
◇
ある日、月乃は兄上の部屋を訪れた。
用事があったわけではない。
ただ、なんとなく顔が見たくなったのだ。
「どうした」
朝頼が書状から顔を上げる。
「邪魔だった?」
「いや」
朝頼は少し笑った。
「珍しいな」
月乃は曖昧に笑う。
部屋を見回した。
いつもと変わらない部屋。
書状の山。
机。
棚。
何度も見慣れた景色だった。
けれど、入内してしまえば、こうして気軽に訪れることもできなくなる。
兄上にくだらない話をすることも。
父上に叱られることも。
当たり前だった日々が、終わる。
そう思うと、目に焼き付けておきたくなった。
「月乃?」
兄上の声に、はっとする。
「少し話したくなっただけ」
そう言うと、朝頼は何も聞かなかった。
「そうか」
短い返事。
それが妙に優しかった。
「兄上は寂しくないの?」
ふと尋ねる。
朝頼は少しだけ目を細めた。
「寂しくないと言えば嘘になるな」
意外な答えだった。
月乃は思わず笑う。
「そうなんだ」
「当たり前だ」
朝頼は苦笑した。
「お前は私の妹だからな」
その言葉に、月乃は少しだけ泣きそうになった。
兄上は昔から変わらない。
忙しくなっても。
厳しい顔をするようになっても。
ちゃんと兄上のままだ。
「月乃」
「なに?」
「向こうへ行っても、お前らしくいろ」
月乃は目を瞬く。
姫らしく、とも。
右大臣家の娘として、とも。
兄上は言わなかった。
「それが一番難しいだろうがな」
そう言って笑う。
月乃もつられて笑った。
兄上とこうして話す時間も。
この屋敷で過ごす日々も。
もう長くはない。
だからこそ、この時間が終わらなければいいのにと、思ってしまった。
◇
入内を明日に控えた夜。
右大臣家は、遅くまで慌ただしかった。
女房たちは最後の確認に追われ、廊下には人の気配が絶えない。
けれど、月乃の周りだけが、妙に静かだった。
「姫様、お休みになられませんと」
蛍がやわらかく声をかける。
月乃は小さく頷いた。
「……うん」
でも、動けない。
明日になれば、この屋敷を出る。
もう今までみたいには戻れない。
蛍は少しだけ月乃を見つめる。
そして、ためらうように口を開いた。
「姫様」
「なに?」
「……後悔は、なさいませんか」
月乃の指が止まる。
その問いの意味を、考えなくても分かってしまった。
「蛍……」
「私は何も見ておりません」
蛍は静かに微笑む。
「でも」
一度、言葉を切る。
「会いたいお方がおられるのでしたら」
「今しか、ございません」
月乃の胸が、大きく揺れる。
行ってはいけない。
そんなことは分かっている。
でも。
会いたかった。
どうしても。
月乃はゆっくり立ち上がる。
その姿を見て、蛍は何も言わなかった。
ただ静かに、道を開けるように下がる。
◇
夜の庭は静かだった。
風が木々を揺らし、月明かりが白く庭を照らしている。
月乃は胸を押さえながら歩く。
足が震える。
怖いのか。
それとも。
期待しているのか、自分でも分からなかった。
そして。
月明かりの落ちる庭先に、人影が見えた。
月乃の呼吸が止まる。
(……暁人)
見間違えるはずがなかった。
静かに立つその姿は、ずっと会いたかった人だった。
なぜそこにいるのか。
偶然なのか。
それとも――。
そんなことを考えるより先に、月乃の足は、一歩前へ進んでいた。




