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めぐり逢う月と暁  作者: 我亦恋
前世編
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16/32

9 傷ついた指先

琴に触れなくなって、数日が過ぎた。



 もちろん、まったく弾かなかったわけではない。



 稽古の時間になれば座る。



 けれど。



 以前のような音は出なかった。



 指を動かしても、心がついてこない。



 ぽろん。



 どこか空っぽな音が落ちる。



「……違う」



 何度弾いても違った。





 そんなある日だった。



 月乃は父上に呼ばれた。



 部屋へ入ると、父上が静かに座っている。



『月乃』



『はい』



 父上はしばらく月乃を見ていた。



 その視線に、少しだけ緊張する。



『最近、琴の音が聞こえないな』



 どきりとした。



 思わず視線を落とす。



『……申し訳ありません』



 小さな声になる。



 父上は怒らなかった。



 ただ静かに言う。



『体調でも悪いのか』



『いえ』



 嘘ではない。



 熱があるわけではない。



 苦しいのは胸の方だ。



 けれど、そんなこと言えるはずもない。





『入内まで、そう時間は残されておらぬ』



 父上の声が続く。



『お前の琴は都でも評判になった』



『……はい』



『だからこそ、怠るな』



 静かな声だった。



 叱責ではない。



 期待だった。



 右大臣家の姫として。


 未来の妃として。



 向けられる期待。



 月乃は唇を噛む。



『はい』



 そう答えるしかなかった。





 部屋を出る。



 廊下を歩く。



 足取りは重かった。



「どうして……」



 誰にも聞こえない声がこぼれる。



 弾かなければならない。



 分かっている。



 けれど。



 琴に触れるたび思い出してしまう。



 暁人のことを。



 好きな音だと言ってくれたことを。



 優しく笑ったことを。



 そして。



 きっと素晴らしい人生になられるでしょう。



 あの言葉を。





 部屋へ戻ると、蛍が待っていた。



『父上様に何か言われましたか』



 月乃は苦笑する。



「琴を怠るなって」



蛍は静かに頷く。



『ごもっともなお言葉ですね』



「分かってるの」



 月乃は小さく呟く。



「分かってるんだけど……」



 その先は言葉にならなかった。



 蛍も続きを尋ねない。



 ただ、そっと琴へ視線を向ける。



『姫様の琴は、皆さま楽しみにしておられます』



「皆さま、ね」



 月乃は苦笑する。



 その中に。



 いてほしい人は、いないのに。





 その日の夕暮れ。



 月乃は琴の前に座った。



 父上に言われたからではない。



 弾かなければと思ったからだ。



 ぽろん。



 静かな音が落ちる。



 もう一度。



 ぽろん。



 以前よりずっと上手くなったはずなのに。



 なぜか音だけが遠い。



 気づけば。



 御簾の向こうを見ていた。



 誰もいない。



 風だけが庭を渡っていく。



 月乃は小さく笑う。



 誰かを探していたことに、自分で気づいてしまった。





 ぽろん。



 寂しげな音がひとつ落ちる。



 そのことが、思ったより苦しかった。





 それでも月乃は琴の前に座り続けた



 ぽろん。



 音が揺れる。



「……違う」



 もう一度。



 ぽろん。



 また違う。



 以前なら自然に指が動いた。



 けれど今は。


 気づけば暁人のことを考えてしまう。



 ――好きな音ですから。



 あの日の声。



 ――きっと素晴らしい人生になられるでしょう。



 あの日の声。



 忘れようとするほど、離れない。





「姫様、少しお休みになられては」



 蛍が心配そうに言った。



「大丈夫」



 月乃は首を振る。



「もう少しだけ」



 ぽろん。



 弦を強く弾きすぎた。



「っ……」



 鋭い痛みが走る。



 思わず手を引くと、人差し指の先に赤い血が滲んでいた。



『姫様!』



 蛍が慌てて駆け寄る。



「平気よ。このくらい」



 そう言って笑う。



 けれど。


 平気ではなかった。





 傷は思ったより深かった。



 数日経っても痛みは残る。



 それでも月乃は琴へ向かった。



 弾かなければならない。



 そうしていなければ、心が落ち着かなかった。



 けれど。



 ぽろん。



 痛みで指が止まる。



 ぽろん。



 また止まる。



 思うように弾けない。



 焦るほど、音は乱れていく。





 夕暮れだった。



 月乃は琴の前で動けずにいた。



 指先はじくじくと痛む。



 何度挑戦しても同じだった。



 やがて。



 月乃はそっと手を下ろした。



「……弾けない」



 小さな声だった。



 琴はそこにある。



 けれど、もう以前のようには音を紡げない。





 蛍は何も言わない。



 ただ傷ついた指先と、俯く月乃を静かに見つめていた。

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