9 傷ついた指先
琴に触れなくなって、数日が過ぎた。
⸻
もちろん、まったく弾かなかったわけではない。
⸻
稽古の時間になれば座る。
⸻
けれど。
⸻
以前のような音は出なかった。
⸻
指を動かしても、心がついてこない。
⸻
ぽろん。
⸻
どこか空っぽな音が落ちる。
⸻
「……違う」
⸻
何度弾いても違った。
⸻
◇
⸻
そんなある日だった。
⸻
月乃は父上に呼ばれた。
⸻
部屋へ入ると、父上が静かに座っている。
⸻
『月乃』
⸻
『はい』
⸻
父上はしばらく月乃を見ていた。
⸻
その視線に、少しだけ緊張する。
⸻
『最近、琴の音が聞こえないな』
⸻
どきりとした。
⸻
思わず視線を落とす。
⸻
『……申し訳ありません』
⸻
小さな声になる。
⸻
父上は怒らなかった。
⸻
ただ静かに言う。
⸻
『体調でも悪いのか』
⸻
『いえ』
⸻
嘘ではない。
⸻
熱があるわけではない。
⸻
苦しいのは胸の方だ。
⸻
けれど、そんなこと言えるはずもない。
⸻
◇
⸻
『入内まで、そう時間は残されておらぬ』
⸻
父上の声が続く。
⸻
『お前の琴は都でも評判になった』
⸻
『……はい』
⸻
『だからこそ、怠るな』
⸻
静かな声だった。
⸻
叱責ではない。
⸻
期待だった。
⸻
右大臣家の姫として。
未来の妃として。
⸻
向けられる期待。
⸻
月乃は唇を噛む。
⸻
『はい』
⸻
そう答えるしかなかった。
⸻
◇
⸻
部屋を出る。
⸻
廊下を歩く。
⸻
足取りは重かった。
⸻
「どうして……」
⸻
誰にも聞こえない声がこぼれる。
⸻
弾かなければならない。
⸻
分かっている。
⸻
けれど。
⸻
琴に触れるたび思い出してしまう。
⸻
暁人のことを。
⸻
好きな音だと言ってくれたことを。
⸻
優しく笑ったことを。
⸻
そして。
⸻
きっと素晴らしい人生になられるでしょう。
⸻
あの言葉を。
⸻
◇
⸻
部屋へ戻ると、蛍が待っていた。
⸻
『父上様に何か言われましたか』
⸻
月乃は苦笑する。
⸻
「琴を怠るなって」
⸻
蛍は静かに頷く。
⸻
『ごもっともなお言葉ですね』
⸻
「分かってるの」
⸻
月乃は小さく呟く。
⸻
「分かってるんだけど……」
⸻
その先は言葉にならなかった。
⸻
蛍も続きを尋ねない。
⸻
ただ、そっと琴へ視線を向ける。
⸻
『姫様の琴は、皆さま楽しみにしておられます』
⸻
「皆さま、ね」
⸻
月乃は苦笑する。
⸻
その中に。
⸻
いてほしい人は、いないのに。
⸻
◇
⸻
その日の夕暮れ。
⸻
月乃は琴の前に座った。
⸻
父上に言われたからではない。
⸻
弾かなければと思ったからだ。
⸻
ぽろん。
⸻
静かな音が落ちる。
⸻
もう一度。
⸻
ぽろん。
⸻
以前よりずっと上手くなったはずなのに。
⸻
なぜか音だけが遠い。
⸻
気づけば。
⸻
御簾の向こうを見ていた。
⸻
誰もいない。
⸻
風だけが庭を渡っていく。
⸻
月乃は小さく笑う。
⸻
誰かを探していたことに、自分で気づいてしまった。
⸻
◇
⸻
ぽろん。
⸻
寂しげな音がひとつ落ちる。
⸻
そのことが、思ったより苦しかった。
⸻
◇
⸻
それでも月乃は琴の前に座り続けた
⸻
ぽろん。
⸻
音が揺れる。
⸻
「……違う」
⸻
もう一度。
⸻
ぽろん。
⸻
また違う。
⸻
以前なら自然に指が動いた。
⸻
けれど今は。
気づけば暁人のことを考えてしまう。
⸻
――好きな音ですから。
⸻
あの日の声。
⸻
――きっと素晴らしい人生になられるでしょう。
⸻
あの日の声。
⸻
忘れようとするほど、離れない。
⸻
◇
⸻
「姫様、少しお休みになられては」
⸻
蛍が心配そうに言った。
⸻
「大丈夫」
⸻
月乃は首を振る。
⸻
「もう少しだけ」
⸻
ぽろん。
⸻
弦を強く弾きすぎた。
⸻
「っ……」
⸻
鋭い痛みが走る。
⸻
思わず手を引くと、人差し指の先に赤い血が滲んでいた。
⸻
『姫様!』
⸻
蛍が慌てて駆け寄る。
⸻
「平気よ。このくらい」
⸻
そう言って笑う。
⸻
けれど。
平気ではなかった。
⸻
◇
⸻
傷は思ったより深かった。
⸻
数日経っても痛みは残る。
⸻
それでも月乃は琴へ向かった。
⸻
弾かなければならない。
⸻
そうしていなければ、心が落ち着かなかった。
⸻
けれど。
⸻
ぽろん。
⸻
痛みで指が止まる。
⸻
ぽろん。
⸻
また止まる。
⸻
思うように弾けない。
⸻
焦るほど、音は乱れていく。
⸻
◇
⸻
夕暮れだった。
⸻
月乃は琴の前で動けずにいた。
⸻
指先はじくじくと痛む。
⸻
何度挑戦しても同じだった。
⸻
やがて。
⸻
月乃はそっと手を下ろした。
⸻
「……弾けない」
⸻
小さな声だった。
⸻
琴はそこにある。
⸻
けれど、もう以前のようには音を紡げない。
⸻
◇
⸻
蛍は何も言わない。
⸻
ただ傷ついた指先と、俯く月乃を静かに見つめていた。




