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めぐり逢う月と暁  作者: 我亦恋
前世編
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16/32

9 傷ついた指先

琴に触れなくなって、数日が過ぎた。


 もちろん、まったく弾かなかったわけではない。


 稽古の時間になれば座る。


 けれど。


 以前のような音は出なかった。


 指を動かしても、心がついてこない。


 ぽろん。


 どこか空っぽな音が落ちる。


「……違う」


 何度弾いても違った。


◇


 そんなある日、月乃は父上に呼ばれた。


 部屋へ入ると、父上が静かに座っている。


「月乃」


「はい」


 父上はしばらく月乃を見ていた。


 その視線に、少しだけ緊張する。


「最近、琴の音が聞こえないな」


 どきりとした。


 思わず視線を落とす。


「……申し訳ありません」


 小さな声になる。


 父上は怒らなかった。


 ただ、静かに言う。


「体調でも悪いのか」


「いえ」


 嘘ではない。


 熱があるわけではない。


 苦しいのは胸の方だ。


 けれど、そんなこと、言えるはずもない。


「入内の日は、少しずつ近づいている」


 父上の声が続く。


「お前の琴は都でも評判になった」


「……はい」


「だからこそ、怠るな」


 静かな声だった。


 叱責ではない。


 期待だった。


 右大臣家の姫として。


 未来の妃として。


 向けられる期待。


 月乃は唇を噛む。


「はい」


 そう答えるしかなかった。


◇


 部屋へ戻ると、蛍が待っていた。


「父上様に何か言われましたか」


 月乃は苦笑する。


「琴を怠るなって」


 蛍は静かに頷いた。


「ごもっともなお言葉ですね」


「分かってるの」


 月乃は小さく呟く。


「分かってるんだけど……」


 その先は言葉にならなかった。


 蛍も続きを尋ねない。


 ただ、そっと琴へ視線を向ける。


「姫様の琴は、皆さま楽しみにしておられます」


「皆さま、ね」


 月乃は苦笑する。


 その中に。


 いてほしい人は、いないのに。


◇


 その日の夕暮れ、月乃は琴の前に座った。


 父上に言われたからではない。


 弾かなければと思ったからだ。


 ぽろん。


 静かな音が落ちる。


 もう一度。


 ぽろん。


 以前よりずっと上手くなったはずなのに、音がどこにも届かない。


 気づけば、御簾の向こうを見ていた。


 誰もいない。


 風だけが庭を渡っていく。


 月乃は小さく笑った。


 誰かを探していたことに、自分で気づいてしまった。


 それでも、月乃は琴の前に座り続けた。


 ぽろん。


 音が揺れる。


「……違う」


 もう一度。


 ぽろん。


 また違う。


 以前なら、自然に指が動いた。


 けれど今は、気づけば暁人のことを考えてしまう。


 忘れようとするほど、離れない。


◇


「姫様、少しお休みになられては」


 蛍が心配そうに言った。


「大丈夫」


 月乃は首を振る。


「もう少しだけ」


 ぽろん。


 弦を強く弾きすぎた。


「っ……」


 鋭い痛みが走る。


 思わず手を引くと、人差し指の先に赤い血が滲んでいた。


「姫様!」


 蛍が慌てて駆け寄る。


「平気よ。このくらい」


 そう言って笑う。


 けれど。


 平気ではなかった。


 傷は思ったより深く、数日経っても痛みは残る。


 それでも月乃は、琴へ向かった。


 弾かなければならない。


 そうしていなければ、心が落ち着かなかった。


 けれど。


 ぽろん。


 痛みで指が止まる。


 ぽろん。


 また止まる。


 焦るほど、音は乱れていく。


◇


 夕暮れだった。


 月乃は琴の前で、動けずにいた。


 指先はじくじくと痛む。


 何度挑戦しても、同じだった。


 やがて、月乃はそっと手を下ろした。


「……弾けない」


 小さな声だった。


 琴はそこにある。


 けれど、もう以前のようには音を紡げない。


 蛍は何も言わない。


 ただ、傷ついた指先と、俯く月乃を、静かに見つめていた。

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