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めぐり逢う月と暁  作者: 我亦恋
前世編
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15/32

8 気づいてしまった恋

入内が決まってから数日。


 月乃の日常は変わった。


 作法。


 装束。


 和歌。


 覚えることが増えた。


 周囲は皆、忙しそうだった。


「姫様はこちらへ」


「次はこちらを」


 次から次へと言葉が飛ぶ。


 けれど月乃は、どこか上の空だった。


◇


 琴の前に座る。


 ぽろん。


 音が鳴る。


 けれど、いつものようには響かなかった。


 指が止まる。


「……だめ」


 小さく呟く。


 蛍が心配そうに顔を上げた。


「姫様」


「なんだか変」


 自分でもうまく説明できない。


 胸の奥が落ち着かない。


 何かを忘れているような。


 何かを失うような。


 そんな気持ちだった。


◇


 その日の帰り道。


 渡り廊下の向こうに、見慣れた姿を見つける。


 暁人だった。


 胸が跳ねる。


 理由は分からない。


 でも、気づけば足が動いていた。


「暁人!」


 呼ぶ。


 暁人が振り返った。


 一瞬だけ、目が合う。


 そして、ほんのわずかに表情が揺れた。


 けれど、次の瞬間には消えていた。


「月乃様」


 いつも通りの声。


 いつも通りのはずなのに、どこかよそよそしい。


「聞いた?」


 月乃は言った。


「何をでしょう」


「入内」


 その言葉に、暁人の瞳がわずかに揺れる。


 けれど本当に一瞬だった。


 すぐに静かな表情へ戻る。


「はい」


 短い返事。


 月乃は少しだけ待った。


 何か言ってくれる気がしたから。


 でも。


 返ってきたのは。


「おめでとうございます」


 その一言だった。


◇


 月乃は固まる。


 おめでとう。


 そう言われると思っていた。


 当たり前の言葉だ。


 姫としてなら。


 家の者としてなら。


 きっと正しい言葉なのだろう。


 なのに、胸が痛かった。


 どうして、こんなに苦しいのだろう。


「……そう」


 やっと、それだけ言う。


 暁人は静かに頭を下げた。


「東宮様のお側に上がられるのです」


 淡々とした声。


「きっと素晴らしい人生になられるでしょう」


 優しい声だった。


 けれど、その言葉は、別れを告げられているように聞こえた。


 月乃の指先が小さく震える。


 違う。


 聞きたかったのは、そんなことじゃない。


 でも、何を聞きたかったのかは分からない。


 分からないのに、涙が出そうになる。


「……暁人は」


 思わず声がこぼれる。


 暁人が顔を上げた。


「暁人は、それでいいの?」


 言った瞬間、自分でも驚いた。


 何を聞いているのだろう。


 暁人も少しだけ目を見開く。


 けれど、返事はすぐだった。


「それが姫様の進まれる道です」


 静かな声。


 優しい声。


 そして、残酷な声だった。


 月乃は俯く。


 どうして、こんなに悲しいのだろう。


 その答えに気づいてしまったのは、暁人と別れた後だった。


 部屋へ戻り。


 一人になり。


 何度も思い出す。


 優しい声。


 琴を聴いてくれたこと。


 いつも隣にいてくれたこと。


 助けてくれたこと。


 笑ってくれたこと。


 その全部が、愛おしかった。


 気づいた瞬間、月乃は顔を覆った。


「……あ」


 震える声が漏れる。


 ようやく分かってしまった。


 自分が何を失おうとしているのか。


 自分が誰を想っていたのか。


 そして。


 もう遅いのだということを。


◇


 それから。


 月乃は、朝も昼も夜も、暁人のことばかり考えていた。


 目を覚ましても。


 昼を過ごしていても。


 眠ろうとしても。


 宴で助けてくれた夜。


 そして、あの日の「おめでとうございます」。


 優しく微笑みながら。


 まるで何も思っていないように言った声。


 思い出すたび、胸が痛んだ。


「……好き」


 誰もいない部屋で呟く。


 言葉にした瞬間、もう引き返せなくなった。


◇


 その日の琴の稽古。


 ぽろん。


 音が外れる。


「……違う」


 もう一度。


 けれど、音が繋がらない。


 指は覚えている。


 それなのに。


 月乃は唇を噛んだ。


 以前なら、琴を弾けば落ち着いた。


 音に触れている時間が好きだった。


 でも今は、琴に向かうたび思い出してしまう。


 ――好きな音ですから。


 あの日の声を。


 ――きっと素晴らしい人生になられるでしょう。


 あの日の声を。


 ぽろん。


 不揃いな音が落ちる。


 月乃は手を止めた。


 そして、静かに琴から離れる。


「……会いたい」


 思わず零れた言葉に、自分で驚く。


 会ってどうするのかも分からない。


 何を話したいのかも分からない。


 それでも、会いたかった。


 けれど、その願いを口にすることはなかった。


 姫として。


 右大臣家の娘として。


 そんなことを望んではいけない気がしたから。


 月乃は琴に背を向ける。


「……弾きたくない」


 初めてだった。


 自分から琴を遠ざけたのは。


 蛍は何も言わない。


 ただ、少し悲しそうな目で月乃を見ていた。

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