8 気づいてしまった恋
入内が決まってから数日。
月乃の日常は変わった。
作法。
装束。
和歌。
覚えることが増えた。
周囲は皆、忙しそうだった。
「姫様はこちらへ」
「次はこちらを」
次から次へと言葉が飛ぶ。
けれど月乃は、どこか上の空だった。
◇
琴の前に座る。
ぽろん。
音が鳴る。
けれど、いつものようには響かなかった。
指が止まる。
「……だめ」
小さく呟く。
蛍が心配そうに顔を上げた。
「姫様」
「なんだか変」
自分でもうまく説明できない。
胸の奥が落ち着かない。
何かを忘れているような。
何かを失うような。
そんな気持ちだった。
◇
その日の帰り道。
渡り廊下の向こうに、見慣れた姿を見つける。
暁人だった。
胸が跳ねる。
理由は分からない。
でも、気づけば足が動いていた。
「暁人!」
呼ぶ。
暁人が振り返った。
一瞬だけ、目が合う。
そして、ほんのわずかに表情が揺れた。
けれど、次の瞬間には消えていた。
「月乃様」
いつも通りの声。
いつも通りのはずなのに、どこかよそよそしい。
「聞いた?」
月乃は言った。
「何をでしょう」
「入内」
その言葉に、暁人の瞳がわずかに揺れる。
けれど本当に一瞬だった。
すぐに静かな表情へ戻る。
「はい」
短い返事。
月乃は少しだけ待った。
何か言ってくれる気がしたから。
でも。
返ってきたのは。
「おめでとうございます」
その一言だった。
◇
月乃は固まる。
おめでとう。
そう言われると思っていた。
当たり前の言葉だ。
姫としてなら。
家の者としてなら。
きっと正しい言葉なのだろう。
なのに、胸が痛かった。
どうして、こんなに苦しいのだろう。
「……そう」
やっと、それだけ言う。
暁人は静かに頭を下げた。
「東宮様のお側に上がられるのです」
淡々とした声。
「きっと素晴らしい人生になられるでしょう」
優しい声だった。
けれど、その言葉は、別れを告げられているように聞こえた。
月乃の指先が小さく震える。
違う。
聞きたかったのは、そんなことじゃない。
でも、何を聞きたかったのかは分からない。
分からないのに、涙が出そうになる。
「……暁人は」
思わず声がこぼれる。
暁人が顔を上げた。
「暁人は、それでいいの?」
言った瞬間、自分でも驚いた。
何を聞いているのだろう。
暁人も少しだけ目を見開く。
けれど、返事はすぐだった。
「それが姫様の進まれる道です」
静かな声。
優しい声。
そして、残酷な声だった。
月乃は俯く。
どうして、こんなに悲しいのだろう。
その答えに気づいてしまったのは、暁人と別れた後だった。
部屋へ戻り。
一人になり。
何度も思い出す。
優しい声。
琴を聴いてくれたこと。
いつも隣にいてくれたこと。
助けてくれたこと。
笑ってくれたこと。
その全部が、愛おしかった。
気づいた瞬間、月乃は顔を覆った。
「……あ」
震える声が漏れる。
ようやく分かってしまった。
自分が何を失おうとしているのか。
自分が誰を想っていたのか。
そして。
もう遅いのだということを。
◇
それから。
月乃は、朝も昼も夜も、暁人のことばかり考えていた。
目を覚ましても。
昼を過ごしていても。
眠ろうとしても。
宴で助けてくれた夜。
そして、あの日の「おめでとうございます」。
優しく微笑みながら。
まるで何も思っていないように言った声。
思い出すたび、胸が痛んだ。
「……好き」
誰もいない部屋で呟く。
言葉にした瞬間、もう引き返せなくなった。
◇
その日の琴の稽古。
ぽろん。
音が外れる。
「……違う」
もう一度。
けれど、音が繋がらない。
指は覚えている。
それなのに。
月乃は唇を噛んだ。
以前なら、琴を弾けば落ち着いた。
音に触れている時間が好きだった。
でも今は、琴に向かうたび思い出してしまう。
――好きな音ですから。
あの日の声を。
――きっと素晴らしい人生になられるでしょう。
あの日の声を。
ぽろん。
不揃いな音が落ちる。
月乃は手を止めた。
そして、静かに琴から離れる。
「……会いたい」
思わず零れた言葉に、自分で驚く。
会ってどうするのかも分からない。
何を話したいのかも分からない。
それでも、会いたかった。
けれど、その願いを口にすることはなかった。
姫として。
右大臣家の娘として。
そんなことを望んではいけない気がしたから。
月乃は琴に背を向ける。
「……弾きたくない」
初めてだった。
自分から琴を遠ざけたのは。
蛍は何も言わない。
ただ、少し悲しそうな目で月乃を見ていた。




