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めぐり逢う月と暁  作者: 我亦恋
前世編
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14/32

7 決まった未来

内裏へ上がる日が来た。


 まだ朝だというのに、屋敷の中はどこか慌ただしい。


 月乃は鏡の前に座りながら、小さく息を吐いた。


「やっぱり緊張する……」


「大丈夫ですよ」


 蛍が髪を整えながら笑う。


「宴の時も同じことをおっしゃっていました」


「だって、内裏だよ?」


 思わず振り返る。


「失敗したらどうしよう」


「姫様」


 蛍は少し呆れたように目を細めた。


「その言葉も宴の時に聞きました」


「う……」


 反論できない。


 蛍はくすりと笑った。


「大丈夫ですよ」


 その声に、少しだけ肩の力が抜ける。


◇


 出発の前。


 月乃は廊下で朝頼と顔を合わせた。


「随分緊張している顔だな」


「兄上まで」


 月乃はむっとする。


「そんな顔をしなくても大丈夫だ」


 朝頼は笑った。


「お前の琴は誰が聞いても見事だ」


「……そうかな」


「そうだ」


 迷いのない返事だった。


 少しだけ安心する。


 すると朝頼は、ふと視線を横へ向けた。


 その先にいたのは暁人だった。


「暁人」


「はい」


「月乃が途中で逃げ出さないよう見張っておけ」


「兄上!」


 思わず抗議すると、朝頼が声を立てて笑う。


 珍しいことだった。


「冗談だ」


 そう言いながら、少しだけ安心したような顔をしている。


 月乃は不思議に思ったが、それ以上は聞かなかった。


◇


 内裏は広かった。


 想像していた以上に。


 高い柱。


 磨かれた床。


 行き交う人々。


 どこを見ても、別世界のようだった。


 月乃は少しだけ息を呑む。


「姫様」


 低い声が聞こえた。


 振り返ると、暁人がいた。


「大丈夫です」


 短い言葉。


 それだけなのに、不思議と心が落ち着いた。


「……うん」


 月乃は小さく頷き、前を向いた。


 琴の音は、静かに広がっていった。


 広い空間へ。


 高い天井へ。


 まるで空へ溶けていくように。


 月乃はただ夢中で弾いた。


 誰かのためではなく。


 けれど。


 ふと視線を上げた瞬間、人垣の向こうに、見慣れた姿が見えた気がした。


 暁人。


 その姿を見つけた瞬間、自然と指の力が抜ける。


 音が、柔らかく流れた。


◇


 演奏が終わる。


 しばらくの静寂。


 そして、宴の時よりも大きな称賛の声が上がった。


「見事だ」


「噂に違わぬ腕前だな」


「これほどの音色とは」


 月乃は頭を下げる。


 何が起きているのか、まだよく分からない。


 ただ、周囲の人々の目が、以前とは違っていた。


 その帰りだった。


 女房たちの声が耳に入る。


「東宮様も大変お喜びだったとか」


「あのお歳であの琴ですもの」


「右大臣家の姫君ですし……」


 ひそひそとした声。


 月乃が近づくと、慌てて口を閉じる。


 最近よく見る反応だった。


「……また」


 思わず呟く。


 みんな何かを知っている。


 でも、自分だけが知らない。


 屋敷へ戻る途中、月乃はそっと暁人を見上げた。


「ねえ」


「はい」


「何かあった?」


 暁人の足がわずかに止まる。


 ほんの一瞬。


 けれど、月乃は見逃さなかった。


「……何も」


 いつも通りの返事。


 なのに、その声はひどく平らだった。


 胸の奥に、小さな不安が落ちる。


 まだ名前のない不安だった。


◇


 それから数日、屋敷はいつになく慌ただしかった。


 父上も忙しい。


 兄上も忙しい。


 月乃だけが、何も知らされていない気がした。


 その日、父上に呼ばれた月乃は、廊下を歩いていた。


 ふと足を止める。


 部屋の中から声が聞こえたからだ。


 聞くつもりはなかった。


 けれど、自分の名前が聞こえた。


「東宮様からのお話です」


 兄上の声だった。


「断ることはできません」


 月乃の胸が、どくりと鳴る。


「分かっておる」


 父上の低い声。


「月乃には私から伝えよう」


 その意味が分からない。


 分からないはずなのに、足がすくんだ。


◇


 しばらくして、月乃は部屋へ通された。


 父上の向かいには、兄上もいる。


 いつもと違う空気だった。


「座りなさい」


 月乃は言われるまま座る。


 嫌な予感がした。


「月乃」


「はい」


 父上は少しだけ間を置いた。


「東宮様より、お前に入内のお話があった」


 一瞬、言葉の意味が分からない。


「……入内?」


 思わず聞き返す。


「そうだ」


 父上は静かに頷いた。


「正式に決まった」


 頭の中が真っ白になる。


 決まった。


 その言葉だけが、何度も響く。


 まだ何も言っていない。


 頷いてもいない。


 それなのに、もう決まったのだと分かった。


「月乃」


 父上の声が聞こえる。


「お前は右大臣家の姫だ」


 静かな声だった。


「これは家にとって大切なお役目でもある」


 月乃は黙って聞いていた。


 返事ができない。


 兄上も何も言わない。


 ただ静かに座っている。


 それが余計に現実だった。


「まだ時間はある」


 父上が言う。


「入内までに必要なことを学びなさい」


「……はい」


 ようやく声が出た。


 それだけだった。


◇


 部屋を出る。


 廊下を歩く。


 どこをどう歩いたのか、自分でもよく分からなかった。


 気づけば、庭が見える場所に立っていた。


 風が吹く。


 なのに、胸の奥だけが重い。


(どうして)


 おかしい。


 姫として育てられてきた。


 いつかそういう日が来ることも、知っていた。


 なのに。


 どうして、こんなに苦しいのだろう。


 ふと、一人の顔が浮かぶ。


 暁人。


 父上でもない。


 兄上でもない。


 蛍でもない。


 一番に思い浮かんだのは、あの人だった。


 暁人なら、何と言うだろう。


 そんなことを考えている自分に気づいて、月乃は小さく首を振る。


 それでも、その顔は消えてくれなかった。


 まるで。


 何か大切なものを、失いかけているように。

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