7 決まった未来
内裏へ上がる日が来た。
まだ朝だというのに、屋敷の中はどこか慌ただしい。
月乃は鏡の前に座りながら、小さく息を吐いた。
「やっぱり緊張する……」
「大丈夫ですよ」
蛍が髪を整えながら笑う。
「宴の時も同じことをおっしゃっていました」
「だって、内裏だよ?」
思わず振り返る。
「失敗したらどうしよう」
「姫様」
蛍は少し呆れたように目を細めた。
「その言葉も宴の時に聞きました」
「う……」
反論できない。
蛍はくすりと笑った。
「大丈夫ですよ」
その声に、少しだけ肩の力が抜ける。
◇
出発の前。
月乃は廊下で朝頼と顔を合わせた。
「随分緊張している顔だな」
「兄上まで」
月乃はむっとする。
「そんな顔をしなくても大丈夫だ」
朝頼は笑った。
「お前の琴は誰が聞いても見事だ」
「……そうかな」
「そうだ」
迷いのない返事だった。
少しだけ安心する。
すると朝頼は、ふと視線を横へ向けた。
その先にいたのは暁人だった。
「暁人」
「はい」
「月乃が途中で逃げ出さないよう見張っておけ」
「兄上!」
思わず抗議すると、朝頼が声を立てて笑う。
珍しいことだった。
「冗談だ」
そう言いながら、少しだけ安心したような顔をしている。
月乃は不思議に思ったが、それ以上は聞かなかった。
◇
内裏は広かった。
想像していた以上に。
高い柱。
磨かれた床。
行き交う人々。
どこを見ても、別世界のようだった。
月乃は少しだけ息を呑む。
「姫様」
低い声が聞こえた。
振り返ると、暁人がいた。
「大丈夫です」
短い言葉。
それだけなのに、不思議と心が落ち着いた。
「……うん」
月乃は小さく頷き、前を向いた。
琴の音は、静かに広がっていった。
広い空間へ。
高い天井へ。
まるで空へ溶けていくように。
月乃はただ夢中で弾いた。
誰かのためではなく。
けれど。
ふと視線を上げた瞬間、人垣の向こうに、見慣れた姿が見えた気がした。
暁人。
その姿を見つけた瞬間、自然と指の力が抜ける。
音が、柔らかく流れた。
◇
演奏が終わる。
しばらくの静寂。
そして、宴の時よりも大きな称賛の声が上がった。
「見事だ」
「噂に違わぬ腕前だな」
「これほどの音色とは」
月乃は頭を下げる。
何が起きているのか、まだよく分からない。
ただ、周囲の人々の目が、以前とは違っていた。
その帰りだった。
女房たちの声が耳に入る。
「東宮様も大変お喜びだったとか」
「あのお歳であの琴ですもの」
「右大臣家の姫君ですし……」
ひそひそとした声。
月乃が近づくと、慌てて口を閉じる。
最近よく見る反応だった。
「……また」
思わず呟く。
みんな何かを知っている。
でも、自分だけが知らない。
屋敷へ戻る途中、月乃はそっと暁人を見上げた。
「ねえ」
「はい」
「何かあった?」
暁人の足がわずかに止まる。
ほんの一瞬。
けれど、月乃は見逃さなかった。
「……何も」
いつも通りの返事。
なのに、その声はひどく平らだった。
胸の奥に、小さな不安が落ちる。
まだ名前のない不安だった。
◇
それから数日、屋敷はいつになく慌ただしかった。
父上も忙しい。
兄上も忙しい。
月乃だけが、何も知らされていない気がした。
その日、父上に呼ばれた月乃は、廊下を歩いていた。
ふと足を止める。
部屋の中から声が聞こえたからだ。
聞くつもりはなかった。
けれど、自分の名前が聞こえた。
「東宮様からのお話です」
兄上の声だった。
「断ることはできません」
月乃の胸が、どくりと鳴る。
「分かっておる」
父上の低い声。
「月乃には私から伝えよう」
その意味が分からない。
分からないはずなのに、足がすくんだ。
◇
しばらくして、月乃は部屋へ通された。
父上の向かいには、兄上もいる。
いつもと違う空気だった。
「座りなさい」
月乃は言われるまま座る。
嫌な予感がした。
「月乃」
「はい」
父上は少しだけ間を置いた。
「東宮様より、お前に入内のお話があった」
一瞬、言葉の意味が分からない。
「……入内?」
思わず聞き返す。
「そうだ」
父上は静かに頷いた。
「正式に決まった」
頭の中が真っ白になる。
決まった。
その言葉だけが、何度も響く。
まだ何も言っていない。
頷いてもいない。
それなのに、もう決まったのだと分かった。
「月乃」
父上の声が聞こえる。
「お前は右大臣家の姫だ」
静かな声だった。
「これは家にとって大切なお役目でもある」
月乃は黙って聞いていた。
返事ができない。
兄上も何も言わない。
ただ静かに座っている。
それが余計に現実だった。
「まだ時間はある」
父上が言う。
「入内までに必要なことを学びなさい」
「……はい」
ようやく声が出た。
それだけだった。
◇
部屋を出る。
廊下を歩く。
どこをどう歩いたのか、自分でもよく分からなかった。
気づけば、庭が見える場所に立っていた。
風が吹く。
なのに、胸の奥だけが重い。
(どうして)
おかしい。
姫として育てられてきた。
いつかそういう日が来ることも、知っていた。
なのに。
どうして、こんなに苦しいのだろう。
ふと、一人の顔が浮かぶ。
暁人。
父上でもない。
兄上でもない。
蛍でもない。
一番に思い浮かんだのは、あの人だった。
暁人なら、何と言うだろう。
そんなことを考えている自分に気づいて、月乃は小さく首を振る。
それでも、その顔は消えてくれなかった。
まるで。
何か大切なものを、失いかけているように。




