6 高まる評判
廊下は静かだった。
宴のざわめきは、もう遠い。
灯りだけが、ゆらゆらと二人の影を揺らしている。
◇
月乃は何度か口を開きかけて、やめた。
(……ありがとう)
本当は最初に言うつもりだった。
けれど。
うまく言葉にならない。
「暁人」
「はい」
すぐに返る声。
それだけで、少し安心する。
「……さっきの人、怖かった」
思わず本音が零れた。
暁人は少しだけ黙る。
「……申し訳ありません」
「だから、暁人が謝ることじゃないって」
月乃は首を振った。
もしあのままだったら。
そう考えるだけで、胸がざわつく。
「ですが、あの者を姫様に近づけてしまったのは事実です」
静かな声だった。
月乃は思わず顔を上げる。
「でも」
言葉を探す。
そして。
「来てくれた」
それが一番しっくりきた。
暁人は何も言わない。
けれど、その沈黙は、否定には思えなかった。
しばらく二人で歩く。
夜風が冷たい。
それなのに、さっきまでの怖さは、もうほとんど残っていなかった。
胸の奥に残っているのは。
(来てくれた)
ただ、その事実だけ。
何度も思い返してしまう。
どうしてなのかは、自分でもよく分からない。
月乃は小さく息を吐いた。
「……暁人」
「……はい」
今度は、返事が少し遅かった。
けれど、ちゃんと返ってくる。
「ありがとう」
ようやく言えた。
暁人は答えない。
ただ。
その横顔が、いつもより柔らかく見えた気がした。
気のせいだったのかもしれない。
それでも月乃は、遠くなった宴の音を背に、足取りが軽くなるのを感じていた。
◇
月乃はまだ知らなかった。
あの夜の琴が、思っていた以上に人々の心へ残っていたことを。
宴が終わってから、屋敷の空気が少し変わった。
最初に気づいたのは蛍だった。
「最近、お客様が増えましたね」
「そう?」
月乃は首を傾げる。
確かに、父上のもとを訪れる貴族は増えた気がする。
けれど、それが何を意味するのかまでは分からなかった。
◇
ある日のことだった。
琴の稽古を終えた月乃は、父上に呼ばれた。
珍しいことだった。
「月乃」
父上は穏やかな表情をしている。
「先日の宴での演奏、見事だった」
「ありがとうございます」
月乃は頭を下げた。
褒められるのは嬉しい。
けれど、それだけでは終わらなかった。
「内裏で琴を披露してほしいとの話が来ている」
「……え?」
思わず顔を上げる。
内裏。
帝がおわす場所。
自分とは遠い世界だと思っていた。
「都でも評判になっているそうだ」
父上の声は静かだった。
だが、その目は満足そうだった。
部屋へ戻っても、実感は湧かなかった。
「内裏……」
呟く。
蛍が少し笑った。
「姫様らしいですね」
「だって急すぎるもの」
月乃は膝を抱える。
ただ琴を弾いていただけだ。
好きだから。
聴いてほしい人がいたから。
それだけだったのに。
いつの間にか、自分の知らないところまで話が広がっている。
◇
その数日後。
廊下を歩いていると、女房たちの声が聞こえた。
「やはり東宮様の――」
「まだ決まった話では……」
ひそひそとした声。
月乃が近づくと、慌てて口を閉じる。
「何の話?」
「いえ、その……」
誰も答えない。
かえって気になる。
その日の夜。
月乃は蛍に尋ねた。
「最近、みんな変じゃない?」
蛍は困ったように笑う。
「変、ですか」
「何か隠してる」
蛍はしばらく黙った。
そして、静かに言う。
「姫様の評判が高まっているのです」
「評判?」
「宴での琴もございますし……」
そこで一度、言葉を切る。
「姫様は、とても良いご縁に恵まれるだろうと」
「ご縁?」
意味が分からず、首を傾げる。
蛍はそれ以上、説明しなかった。
けれど。
その表情だけが、少し寂しそうに見えた。




