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第5回 貪る歯ブラシ

 その空間にいるのは、本当にあなた一人ですか?


 第5回は、本作初となる「ヒトコワ」のエピソードとなります。

 

 深い静寂に包まれた書架の陰で、冷たい金属の擦れる音が小さく響いた。

 少女は小さな銀のトレイの上に載せられた、古びた一本の歯ブラシを、無表情に見つめている。

 生活の生々しい断片が、この厳格な静寂の中に場違いに置かれている。

 それはまるで、誰かの命の一部を切り取って捧げられた供物のようでもあった。

 暗がりに沈む黒いフリルが、彼女が息をするたびに微かに揺れる。

 向けられた瞳には、光を受け付けるだけの機能しか残されていないかのように、一切の生気が通っていない。


「……他人のプライベートな領域に足を踏み入れることほど、歪んだ悦びを満たすものはありません。鍵をかけ、壁に囲まれた『家』というシェルター。自分はそこに守られていると、誰もが盲信しています。……ですが、本当にその空間にいるのは、あなた一人だけでしょうか? あなたの生活の隙間に、すでに誰かの毒が紛れ込んでいるのかもしれませんよ」


 少女は自分の声の重さを確かめるように、抑揚のない声でぽつりと呟いた。

 白く細い指先が、卓上に置かれた古い本の頁を繰る。

 色褪せた紙の上には、『貪るブラシ』と題された文字が、まるで染みのように不気味に浮かび上がっていた。


 朝、洗面所の鏡に向かって歯を磨いていた拓海は、ふと手を止めた。

 口いっぱいに広がったミントの泡を吐き出し、口を書きすすいでから、目の前の歯ブラシ立てへと視線を落とす。


「あれ……?」


 妙な違和感が胸を突いた。

 そこには、紫色のラインが入った見慣れない歯ブラシが一本、平然と立てかけられていた。

 おかしい。昨日までは絶対に無かったはずだ。そもそも、拓海が使っているのは青色のラインが入ったもので、この家に自分以外の歯ブラシが存在する理由がなかった。


 拓海の脳裏に、先日までこの部屋で同棲をしていた元カノ、ユミの顔が浮かぶ。

 マッチングアプリで知り合い、お互いに燃え上がるような恋に落ち、あっという間に同棲まで始めた相手だった。

 しかし、蓋を開けてみれば彼女には他にも男が何人もおり、結局は泥沼の果てに破局した。


――ユミが、何か私物を忘れていったのだろうか。


 いや、そんなはずはなかった。あの女は出ていく際、当てつけのように自分の私物を完璧に、根こそぎ持って行ったのだ。

 玄関の合鍵だって、目の前で確かに返してもらった。

 まさか、知らないうちに予備の合鍵でも作られていたのだろうか。


「気持ち悪いな……」


 首筋に嫌な汗が滲むのを感じながら、拓海はその紫色の歯ブラシを掴み取り、洗面台の下のごみ箱の奥へと投げ捨てた。

 ただの自分の勘違いか、あるいはユミが本当に置き忘れていたゴミが、何かの拍子に出てきただけだ。

 そう自分に言い聞かせるようにして、拓海はネクタイを締め、足早に仕事へと向かった。

■■

その日の夜。

 残業を終えて帰宅した拓海は、簡単な食事を済ませ、しばらくテレビの画面をぼんやりと眺めて過ごした。深夜を回り、そろそろ寝ようかとパイプ椅子から腰を上げ、寝室へ向かう前にいつものように洗面台へと向かう。


「あれ……?」


 洗面所のライトを点けた瞬間、拓海の身体は凍りついた。

 デジャヴ、という言葉では片付けられない光栄がそこにあった。朝、確かに自分の手でゴミ箱へ放り捨てたはずの、あの紫色のラインが入った歯ブラシが、何事もなかったかのように青い歯ブラシの隣に並んで立っている。


「おいおい、嘘だろ。朝、捨てたじゃん……」


 心臓が嫌な鳴り方をし始める。拓海は這うような手つきで洗面台の下のごみ箱を引き出し、中を確認した。だが、朝一番に投げ入れたはずの紫色のプラスチックの姿は、どこにもない。

 自分が捨てたと思い込んでいただけで、実は洗面台の上に置き去りにしていたのだろうか。

 拓海は自分の記憶を疑いながら、今度こそ確実にその歯ブラシを掴み、ゴミ箱の底へと押し込んだ。そして翌朝、収集日だったそのゴミを袋ごとまとめ、アパートの集積所へと完全に出し切った。これで、あの紫色の不快な物体はこの部屋から消え失せたはずだった。


 しかし、さらにその夜。


「いやいや、おかしいだろ……何なんだよ、これ……」


 帰宅した拓海が恐る恐る覗いた洗面所には、またしても、あの紫色の歯ブラシが平然と鎮座していた。

 ゴミとして集積所に捨てたはずのものが、なぜここに立ち戻っているのか。怪奇現象か、それとも誰かの悪質な嫌がらせか。

 混乱と恐怖で頭がどうにかなりそうになりながら、拓海は磁石に吸い寄せられるように手を伸ばし、その歯ブラシに触れた。


 指先に、じっとりとした湿り気が伝わる。

 毛先が、新しく濡れていた。


「何がどうなってるんだよ……!」


 拓海はそれを床へ投げ捨てた。

 留守中に、誰かが確実にこの部屋へ入ってきている。そして、自分がいない間にこの洗面台を使い、歯を磨いているのだ。

 ユミが合鍵をさらに複製し、それが自分の知らない第三者の手に渡っているのではないか。

 その確信は、拓海の背筋に終わりのない寒気を植え付けた。


 考え抜いた末、拓海は防犯やガジェットに詳しそうな学生時代の友人に連絡を取り、藁にもすがる思いで事情を相談した。

 友人は最近この街では不審な事件が増えていることを理由に、すぐにでも対策をすべきだとスマートフォンと連動して動体検知ができる安価な隠しカメラをいくつか手配してくれた。

 拓海は届いた小型カメラを玄関の隅、そして洗面台の鏡の死角へと慎重に仕掛けた。


 そしてその夜。


「やっぱり、あるよな……」


 帰宅した拓海の目に飛び込んできたのは、もはや見慣れてしまった紫色のラインだった。

 拓海はコートも脱がず、震える手でスマートフォンのアプリを起動した。

 今日一日の留守中、この部屋で何が起きていたのか、その真実を暴くために録画映像の再生ボタンをタップした。


 拓海が再生した画面の中で、無人の洗面所がモノクロの映像として映し出されていた。

 早送りで流れるタイムコード。拓海が仕事へと出かけてから、数時間が経過した頃だった。

 画面の隅の検知センサーが赤く反応し、映像が等倍の速度へと戻る。


 薄暗い洗面所の入り口から、ぬうっと、何かが這い出るようにして現れた。


「……え?」


 拓海の口から、乾いた声が漏れた。

 画面に映っていたのは、ユミではなかった。

 腰のあたりまで不自然に長く伸びた、まとまりのない黒髪。それを雑に垂らした見知らぬ女が、音もなく洗面台の前へと歩み寄ってきたのだ。


 女は慣れた手つきで、どこからかあの紫色の歯ブラシを取り出すと、鏡に向かって熱心に歯を磨き始めた。

 シャカシャカと、映像のノイズに混じって微かな摩擦音が聞こえてくる。

 磨き終えた女は、それを丁寧に歯ブラシ立ての元の位置へと差し戻した。

 それだけで終わりではなかった。女は次に、拓海が使っている青色の歯ブラシへと手を伸ばした。

 そして、その毛先を自分の細い指先で、何度も、何度も、愛おしそうにじっとりと撫で回し、そのままゆっくりと画面の外へと消えていった。


「何だよこいつ……ストーカーか!? くそっ、気持ち悪ぃ……!」


 強烈な嫌悪感が拓海の全身を駆け巡る。やっぱりユミのやつ、腹いせに自分のアパートの鍵をこんな頭のおかしい女に渡しやがったんだ。

 これは完全に凶悪な不法侵入だ。今すぐこの動画を警察に持ち込んで、被害届を出してやる。

 拓海は怒りに任せて画面を操作し、今度は玄関に設置したカメラの映像ログへと切り替えた。

 女が部屋に入ってきた瞬間と、出て行った瞬間の後ろ姿が映っているはずだった。


 しかし。


「あれ……? な、何でだ?」


 拓海の指先がぴたりと止まった。

 女が洗面所に現れた前後の時間帯、玄関のドアには何の変化も起きていなかった。

 何度も巻き戻し、目を皿のようにして確認する。拓海が朝に仕事へ出て行ってから、夜に帰ってくるまでの間、玄関の重い鉄扉は一回たりとも開いていない。

 鍵も、内側のサムターンも、内側からかけられたチェーンも、一切動いた形跡がなかった。

 ベランダの窓のセンサーも静まり返ったままだ。


 背筋を、氷水を流し込まれたような冷や汗が伝わっていく。

 外から入ってきた形跡が、どこにもない。

 それなら、あの長い黒髪の女は、一体どこから洗面所に現れて、どこへ帰っていったというのか。


「ちょっと待てよ。それじゃあ、あの女は……」


 ――外から入ってきてないんじゃない。

 ――最初から、この部屋の中から出てきて、この部屋の中に消えたんだ。


 自分のすぐ足元にある深い奈落に気づいてしまったかのように、拓海の血の気が一気に引き、スマートフォンの画面を持つ手がガタガタと震えだした。


 ガタッ。


 静まり返ったワンルームの部屋の奥、暗がりに沈むクローゼット、あるいはベッドの下の方から、何かが硬い床にぶつかるような微かな音がはっきりと響いた。

 

 音がした方へ、拓海は錆びついた人形のように、ゆっくりと首を巡らせた。

 暗闇が溜まる部屋の奥。開け放たれたクローゼットの隙間から、ぬうっと、あの長い黒髪が這い出てくるのが見えた。


 カメラの映像に写っていた、あの女だった。

 女は四つん這いの姿勢のまま、拓海のベッドの脇から音もなく這い上がり、その手に例の紫色の歯ブラシを握りしめている。

 拓海は悲鳴を上げることさえできず、ただ喉を鳴らして硬直することしかできなかった。

 女は拓海の怯えきった視線を真っ向から受け止めると、首を不自然に傾げ、掠れた声で小さく囁いた。


「バレちゃった。えへへ……」


 女の薄い唇が、吊り上がるようにして大きく裂けた。

 覗いた口内を見た瞬間、拓海は本当の絶望を知った。

 女の歯は、まるで煤を塗りたくったかのように、隙間なく真っ黒に染まりきっていたのだ。白いはずの歯が、腐り落ちたように黒い。

 彼女は拓海がいない間だけではない、拓海が眠っているそのすぐ側で、彼の生活を、彼の歯ブラシを使いながら、ずっと物陰から貪り続けていたのだ。

 拓海が使っていた青い歯ブラシがなぜいつも濡れていたのか、その本当の意味を理解したとき、部屋の明かりがすべて掻き消えるような錯覚に襲われた。


■■■

 文字で埋め尽くされた黒い頁を、冷たい指先が愛おしそうに撫でる。

 少女は音もなく本を閉じると、滑らせるようにしてそれを元の書架の隙間へと差し戻した。


「他人の生活に、自分の色を混ぜていく。それは最も静かで、最も侵略的な愛の形なのかもしれません。彼女の歯がなぜあそこまで黒く染まっていたのか……それは、彼が寝静まった後に、何を磨いていたかを想像すれば容易いことですね。……おや、皆さんの洗面所にある歯ブラシ、毛先はちゃんと乾いていますか? 誰も使っていないはずのそれが、もしもじっとりと濡れていたなら……その時は、ご自身のベッドの下を、覗いてみてくださいね」


 少女は振り返ることもせず、吸い込まれるように深い闇の奥へと歩き去っていった。





(第5回・了)

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