第6回 園児8名、大人2名
身に覚えのない間違い電話や、心当たりのない留守番電話。私たちはそれを単なる「送り主の不注意」として処理してしまいがちです。しかし、もしその電波が、すでにこの世から消え去った場所から繋がっていたとしたら……。深夜の静寂の中、じわじわとパーソナルスペースが侵食されていく恐怖をお楽しみください。
※以前短編で投稿した「留守電」のリメイクになります。
深夜の図書館を支配する静寂は、まるで世界の終わりを告げるかのように深い。
高い書架が作り出す幾条もの影の中に、ぽつりと浮かび上がる小さな机。
その上に置かれた真鍮のトレイには、一台の古い携帯電話が転がっていた。
液晶画面はひび割れ、バックライトも点らないその端末を、漆黒のレースを纏った黒髪の少女が白い指先で無機質に弄んでいる。
ボタンを押すたびに、カチ、カチ、と乾いたプラスチックの音が、冷え切った空気の中に吸い込まれていく。
少女の陶器のようになめらかな肌は月光に照らされ、その瞳には一切の感情が宿っていない。
ただ、玩具を眺める子供のような、残酷なまでの無邪気さだけがそこにあった。
「人間は、文字や音声という記号を媒介にして、電波の向こうの現実を疑わずに繋がっていると思い込んでいる。声が届けばそこに誰かがいると、確かな現在がそこにあるのだと」
少女の口唇から、薄氷のように冷淡な声が零れ落ちる。
「けれど、便利になりすぎた糸は、時に手繰るべきではない場所――すでに途絶えた過去の怨嗟や、満たされぬ未練へと繋がってしまう。電波という目に見えない波紋は、暗闇の底で鳴り響く呼び出し音となり、取り残された死者たちを呼び寄せる。……おや、その数字が静かに増えていることにも気づかずに、彼らは招き入れてしまうのです」
少女は無機質な笑みを浮かべ、机の端にある古い本を引き寄せた。
擦り切れた表紙には、くすんだ金文字で、こう題されている。
『園児8名、大人2名』
■
大学の講義室は、朝の気怠い空気と、学生たちの締まりのない雑談で満ちていた。窓から差し込む退屈な陽光の中で、友人はいつもと変わらない様子で、スマートフォンをいじりながら話し始めた。
「昨日さ、寝る前に携帯見たら、変な留守電メッセージが入ってたんだよ」
友人は可笑しそうに鼻を鳴らし、画面を俺に見せてきた。通知欄には確かに、一件の録音データが残っている。
『○○保育園です。20日の件ですが園児8名、大人2名で行きますのでよろしくお願いします』
「完全に間違い電話だよな、これ。どこかの社会見学の予約か何かだろ。最近は固定電話じゃなくて、携帯を連絡先にする施設も多いって言うし、先生もそそっかしいよな」
俺も「よくあることだ」と笑い、間もなくやってきた教授の講義に意識を切り替えた。
固定電話を置かない世帯が増えた現代において、番号の打ち間違いなど珍しくもない。
日常のほんの些細なボタンの掛け違い。その時は、誰もがそう信じて疑わなかった。
しかし、数日後。
講義の合間に、友人は少しだけ眉をひそめて、また同じメッセージが入っていたことを口にした。
同じ番号、同じ声、同じ内容。
「よっぽど番号が似てるんだろうな」と、その時もまだ、俺たちは笑い話の範疇で処理していた。
変化が起きたのは、その日の夜のことだ。
実家のリビングで、夕食の席の軽い世間話として、俺はその間違い電話の件を家族に話した。
何気なく「○○保育園ってところからさ」と言葉にした瞬間、向かいで箸を動かしていた母の手が、ぴたりと止まった。
「……そのメッセージ、本当に○○保育園って言ってたの?」
母の顔から、みるみる血の気が引いていくのがわかった。
「え? ああ、そうだけど。近所のどこかの園だろ?」
「違うわよ。確かにその名前の保育園はあったけれど……もう、無くなっちゃったのよ。数年前の冬、すぐそこを通る大通りで飲酒運転の大型トラックが散歩中の園児たちの列に突っ込んで……引率の先生二名と、園児八名が亡くなる大惨事があったの。それ以来、園は閉鎖されたはずよ」
背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
そう言えば当時、テレビのニュースで、連日のように報道されていた、あの凄惨な事故。数年前の記憶の断片が、最悪の形で目の前の現実に結びついていく。
夕食後、激しい胸騒ぎを抑えきれず、俺はすぐに友人に電話をかけた。
受話器の向こうの友人は、俺の焦りようを他所に、やはり鼻で笑っていた。
「おいおい、たちの悪いオカルトかよ。そりゃ偶然名前が被っただけか、悪質な悪戯に決まってるだろ」
その日の日付は、十九日。メッセージが指定する「二十日」の、まさに前夜だった。
「仮に明日、その幽霊御一行様が俺の部屋にやってきたなら、もてなしてやるよ。じゃあな、また明日大学で」
友人はそう言って、軽薄に電話を切った。
翌日、友人は大学に来なかった。
その翌日も、講義室の彼の席は空席のままだった。
心配になって何度も電話をかけたが、呼び出し音が虚しく響くだけで出る気配は一切ない。
意を決して、彼が一人暮らしをしているアパートの部屋を訪ねてみたが、ドアをいくら叩いても、中からは静寂が返ってくるだけだった。
ポストには数日分の新聞と、先日参列したばかりの葬儀会社から届いた、奇妙な皺だらけの遺影に関する噂話が書かれた業界チラシが、乱雑に突き刺さっていた。
結局、友人はそのまま、忽然と姿を消してしまった。
警察の捜査も入ったが、事件性の有無すら判然とせず彼の行方は杳として知れない。
■■
あれから、数年の歳月が流れた。
俺は大学を卒業して社会人になり激務の合間を縫うようにして結婚し、小さな分譲マンションで新しい生活を始めていた。
あの奇妙な失踪事件のことも日々の忙しさに追われ、記憶の隅へと追いやられつつあった。
ある日の夜、仕事を終えて帰宅するとリビングで妻がひどく不快そうな顔をして、固定電話の親機を睨みつけていた。
「ねえ、さっき留守電に変なメッセージが入ってたんだけど……何だか、すごく気味が悪くて」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がった。
胃の奥からせり上がってくるような嫌な予感を必死に抑えながら、俺は受話器を上げ留守番電話の再生ボタンを押した。
静かなノイズの向こうから、かつて友人の携帯から流れたものと、全く同じ、酷く平板な女の声が響く。
『○○保育園です。20日の件ですが――』
俺は息を止めた。
『――園児8名、大人3名で行きますのでよろしくお願いします』
増えていた。
あの時、二名だったはずの大人の数が、確実に一名増えていた。
受話器を持つ俺の指先は、いつの間にか、凍りついたように冷たくなっていた。
■■■
パタン、と静謐な音を立てて、古い本が閉じられた。
深夜の書架の影で、黒髪の少女は満足そうに口元を歪め、その本を愛おしそうに胸に抱いた。
そして、吸い込まれるように、光の届かない暗い棚の奥へと滑り込ませていく。
少女はゆっくりと振り返り、冷徹な瞳をこちらへと向けた。
その視線には生者の体温を拒絶するような、絶対的な断絶がある。
「おや、皆さんの留守番電話……。そこに入っているメッセージは、本当にただの『掛け間違い』ですか? もしかしたら、人数を数え間違えた彼らが、あなたの席を用意して待っているのかもしれませんね。……ふふ」
少女は振り返ることもせず、吸い込まれるように深い闇の奥へと歩き去っていった。
(第6回・了)




