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第4回 拡散する悪夢

 その悪意は、瞬く間に世界を埋め尽くす。


 今回の舞台は、放課後の静まり返った中学校。

 生徒たちの間で流行る「令和の花子さん」の噂を冷笑する、現実主義な女性教師が主人公です。

深い静寂に包まれた書架の陰で、一枚の液晶画面が青白い光を放っていた。

 少女は古い携帯電話の端末を手に持ったまま、感情の失せた目でその冷たい光を見つめている。

 彼女が指先を小さく動かすたび、液晶の放つ光が黒いレースの縁を青く縁取り、かすかに衣服の擦れる音が闇に溶けていった。

 画面の向こうでは、数え切れないほどの文字と悪意が、文字通り狂気的な速度で上へと流れ去っていく。


「……言葉の刃というのは、かつては口から耳へと届くものでした。けれど現代では、それは目に見えない電波に乗って、一瞬で世界を埋め尽くします。自分は安全な画面の裏側にいると思い込み、姿を隠して悪意を拡散する。……ですが、忘れてはいけません。ネットワークという巨大な蜘蛛の巣に一度でも触れてしまえば、その糸を辿って、暗闇の怪異もまた、あなたの元へ一瞬でやってくるということを」


 少女の呟きは、誰に聞かせるでもなく暗がりの空間へ吸い込まれていく。

 彼女は小さく息を吐くと、手元にあった奇妙な装丁の本をゆっくりと開いた。

 金属的な冷たさを帯びた頁の上には、黒いインクが乾いた痕のように、『拡散する悪夢』という文字が不吉に刻まれていた。



 放課後の気配が完全に引き払われた職員室で、美咲はただ一人、デスクのパイプ椅子に深く身体を預けていた。

 手元にあるスマートフォンの画面をスクロールする指先は、ひどく投げやりだ。青白い光に照らされた彼女の横顔には、日中の授業や生徒対応で磨り減った鋭い苛立ちがそのまま張り付いている。


 SNSのタイムラインには、うんざりするほど下世話なニュースが溢れていた。

 数日前に市内のアパートで起きたという、若い介護士の凄惨な刺殺事件。

 突如として騒がれた、新築タワーマンションからの大学生の飛び降り自殺。

 真偽の定かでない噂話や、被害者の素性を暴こうとする無数の書き込みが電波の海を濁らせている。


「どいつもこいつも、本当に暇ね……」


 吐き捨てた美咲の脳裏に、昼間の休み時間に女子生徒たちが教室の片隅で騒いでいた声が、不快なノイズとなって蘇る。


『ねえ、知ってる? 旧校舎のトイレに出るの、今の花子さんなんだって』

『知ってる。スマホ持ってて、鍵垢があるやつでしょ』

『そうそう、ノックして名前を呼ぶと、自分のスマホに通知が来るらしいよ……』


 令和の花子さん。

 今の子供たちは、怪談ひとつまともに楽しむ想像力すら持ち合わせていないらしい。

 オバケがスマートフォンを弄り、SNSを徘徊する。

 そんな現代のデジタル社会の歪みをそのまま反映したようなデマを、中学生たちは大真面目な顔で「拡散希望」などと言って怯え合っているのだ。


 美咲にとって、そんなものは合理的でないどころか、教育の場を乱すただの悪質な悪戯に過ぎなかった。

 くだらない。ネットのデマに踊らされる子供たちも、それを面白おかしく言い触らす周囲の大人も、すべてが底浅く、美咲の神経を逆撫でする。


 カチリ、と液晶の電源を落とす。

 静まり返った職員室に、引き出しの鍵を閉める金属音が冷たく響いた。時計の針はとうに午後八時を回っている。


 「早く帰りたいんだけど一応アレやっとかないとね……」


 美咲は重い腰を上げると、夜の校舎を見回るための懐中電灯を掴み取り、足早に部屋を後にした。


■■


 職員室を出た美咲は、パンプスを鳴らしながら無人の廊下を歩いていた。

 これは宿直の夜警などではない。ただの退勤前のルーティン――全自動で機械警備がかかる前に、すべての窓と扉が施錠されているかを確認する、最後の戸締まり点検だった。


 各階の鍵をチェックし、本校舎から少し離れた、普段はあまり使われない北側の渡り廊下を進む。

 その突き当たりにある女子トイレの前に差し掛かったとき、美咲の足が自然と止まった。

 昼間、生徒たちが顔を青くして囁き合っていた、まさにその場所だった。


 ふ、と鼻から冷たい息が漏れた。

 自分の合理性を自負するかのように、美咲は迷うことなくトイレの入り口へ足を踏み入れた。

 センサーが反応してパッと灯ったLEDの白い光が、一番奥にある個室の扉を味気なく照らし出す。


 美咲はパンプスを響かせてその扉の前まで歩み寄ると、小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、細い指先でコンコンと板をノックした。


「花子さん、遊びましょ」


 返事などあるはずがない。防音性の高いタイルの壁に、ただ無機質な静寂だけが張り付いている。


「本当にくだらない」


 張り詰めていた緊張感が一気に白け、美咲の心を満たしたのは生徒たちの浅はかさと、こんな無駄な確認作業を強いる日常への猛烈な苛立ちだった。

 美咲は腕を組み、閉ざされた扉に向けて、吐き捨てるように声を放った。


「時代遅れの古いオバケなんて、いるわけないじゃない。何が令和の花子さんよ。本当にいるならもうとっくにババアだし、ネットなんか弄ってないでとっとと出てきなさいよ」


 不遜な言葉を言い終えると同時に美咲は日頃のストレスをぶつけるように、その個室の扉をパンプスの先でガツンと激しく蹴りつけた。

 鈍い衝撃音が、狭いトイレの中に不快に鳴り響いた。


 静まり返ったトイレの中に、扉を蹴った鈍い余韻が消えていく。

 美咲が小さく息を整え、我に返って踵を返そうとした、その瞬間だった。


――ピコン。


 無機質な電子音が、狭い空間に一際大きく鳴り響いた。

 あまりに突然の音に肩を跳ね上げ、美咲は出しかけた足を止める。

 音の主は、自分の上着のポケットに放り込んであったスマートフォンだった。


 眉をひそめながら端末を取り出す。液晶画面に表示されていたのは、SNSアプリからのポップアップ通知だった。


『――【拡散希望】うちの学校のムカつく担任、夜のトイレでマジギレしてて草――』


「……は?」


 美咲の口から、困惑の混じった掠れた声が漏れた。

 悪質な悪戯を疑い、画面をタップして投稿のタイムラインを開く。電波の波をくぐり抜けて表示されたのは、一枚の画像だった。


 そこには、今まさに奥の個室の扉を蹴りつけている、美咲自身の後ろ姿が鮮明に写し出されていた。


 背筋が凍りつくような感覚が、足元から一気に駆け上がってくる。

 画像のアングルがおかしかった。美咲の後ろの通路から撮られたものではない。

 まるでトイレの天井の隅――現実にはあり得ない高い位置から、美咲の頭上を見下ろすように隠し撮りされたものだった。


「誰が……生徒がまだ残っているの……!?」


 美咲は慌てて周囲を鋭く見回した。

 しかし、個室の扉の下の隙間に人影はなく、入り口の方にも誰かが潜んでいる気配は一切ない。

 センサーライトの白い光の下、静まり返った空間には、美咲自身の荒い呼吸音だけが響いている。


 誰の姿も見えない。にもかかわらず、手元のスマートフォンはまるで心臓の鼓動と連動するように激しく震え、次の通知を冷酷に告げ始めた。


 ――ピコン、ピコン、ピコン。

 途切れることなく鳴り響く電子音が、狭いタイル張りの空間を完全に支配していく。

 画面の向こう側、タイムラインの下部で数字が恐ろしい速度で跳ね上がっていた。

 閲覧数、リポスト、そして美咲を標的にした無数の見知らぬアカウントからの言葉の群れ。


『うわ、マジじゃん。これうちの学校の2年の担任の山城だろ』

『夜のトイレで一人でキレてるとか怖すぎ笑』

『花子さんのことババア呼ばわりしてて草。完全にフラグじゃん』

『今もまだそこにいるの? リアルタイム?』


「なんなの、これ……誰が書いてるのよ……!」


 美咲は震える指先で画面を何度もスクロールしたが、悪意の奔流は止まらない。

 生徒の悪戯というレベルをとうに超えている。

 まるで、世界中の目に見えないギャラリーがいまこの瞬間の自分を上空から、あるいは壁の隙間から覗き見ているかのような、異常な全方位からの視線。


 冷たい汗が全身から噴き出し、視界が恐怖でぐにゃりと歪み始める。

 

『早く逃げた方がいいよ』

『っていうか、もう遅いかも』

『花子さん、めちゃくちゃ怒ってるよ』

『ほら、主の後ろ』


 最後の書き込みが目に入った瞬間、美咲の喉から「ひっ」と短い悲鳴が漏れた。

 手の中のスマートフォンを放り投げそうになりながら、美咲は背後の恐怖に突き動かされるように狂ったように足をもつれさせて後ずさった。

 バタバタとパンプスを鳴らし、個室の扉から最も離れた場所――入り口付近の壁際に据え付けられた洗面台の鏡の方へと、ただひたすらに背中を打ち付けた。


 背中が冷たい鏡の縁に強くぶつかり、美咲はその場にへたり込みそうになった。

 呼吸はすっかり浅くなり、歯の根がガタガタと音を立てて震える。

 恐怖で涙の滲む視界のまま、美咲は恐る恐る、目の前にある大きな一枚鏡へと視線を向けた。


 そこには、青白い顔をして怯え切った、無様な自分の姿が映っていた。

 ――そして、その自分のすぐ後ろ。

 誰もいないはずの暗い空間の、ちょうど一番奥の個室の扉の前に、ぼんやりとした「赤い服を着た人影」が立っているのが見えた。


「いや……っ!」


 美咲は弾かれたように振り返った。

 しかし、そこにはただの無機質な白い壁と、静まり返った床が広がっているだけだ。

 誰もいない。やはり、ただの見間違いだ。

 そう自分に言い聞かせ、すがるような思いで再び鏡に目を戻した、その時だった。


 鏡の中に映る美咲の「影」が、現実の彼女とはまったく違う動きをした。

 引き攣った顔のまま、鏡の中の自分だけが、ニヤリと耳元まで口を大きく裂いて笑ったのだ。


 直後、滑らかなガラスの表面がまるで水面のようにぐにゃりと歪んだ。

 その歪みの中心から、現実の世界へと異様に白く長い無数の「手」が突き出てくる。


「ああ、あ、――」


 声にならない悲鳴が喉に張り付く。

 冷たく湿った無数の指先が容赦なく美咲の髪を掴み首筋に絡みつき、細い手首をギリギリと締め上げた。

 引き剥がそうと暴れるが、人間のものではない異常な怪力によって、彼女の身体は鏡の向こう側へと力任せに引きずり込まれていく。


 壁に激突した拍子に、床へと転がり落ちたスマートフォンの画面が、完全な暗闇の中で激しく明滅していた。

 そこに新しく自動投稿されたのは、一本の動画だった。

 

 『鏡の向こうから伸びる白い手に全身を掴まれ、顔を異形に歪ませながら、ガラスの奥へと消えていく女性教師』の姿。


 美咲の視界が完全に漆黒に染まる直前、画面の向こうではその動画に対して凄まじい勢いで「いいね」が押され、歯止めの効かない悪意の波に乗って、世界中へと瞬く間に拡散されていく様子が映し出されていた。


■■



 文字で埋め尽くされた黒い頁を、冷たい指先が愛おしそうに撫でる。

 少女は音もなく本を閉じると、滑らせるようにしてそれを元の書架の隙間へと差し戻した。


「安全な場所など、この世界のどこにもありません。デジタルの中に一度刻まれた悪意は、決して消えることはないのです。彼女は今も電子の海のどこかで、無数に複製され、拡散され続けていることでしょう。……おや、皆さんのスマートフォン、先ほどから静かですね。……もしかして、気づかないうちに、あなた自身の画像がどこかで『拡散』され始めてはいませんか?」


 少女は振り返ることもせず、吸い込まれるように深い闇の奥へと歩き去っていった。


(第4回・了)

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