第3回 夜を見る目
静まり返った図書館の片隅で、冷徹な金属音が小さく響いた。
少女が手にした虫眼鏡を、無聊そうに弄んでいる音だった。
暗がりに沈む黒いフリルが、彼女が息をするたびに微かに揺れる。
向けられたレンズの向こう側、見開かれた彼女の瞳には光を受け付けるだけの機能しか残されていないかのように一切の生気が通っていなかった。
「……人は誰しも、覗き見たいという欲求を持っています。自分は安全な特等席にいると思い込み、暗闇から他人の生活を貪る。……ですが、忘れてはいけません。あなたが暗闇を覗いている時、暗闇からもまた、あなたが見えているということを。……いえ、見られているだけなら、まだマシなのかもしれませんね」
少女は自分の声の重さを確かめるように、抑揚のない声でぽつりと呟いた。
白く細い指先が、卓上に置かれた古い本の頁を繰る。
色褪せた紙の上には、『夜を見る目』と題された文字が、まるで染みのように不気味に浮かび上がっていた。
■
深夜二時。大学生の健斗は、自室であるマンションの四階から、高倍率の双眼鏡を覗き込むのを楽しみにしていた。
誰に教えるでもない、暗闇に紛れて街の灯りを切り取るという悪趣味な観察。
それが彼のささやかな日課だった。
何気なくレンズの焦点を遠くへと合わせると、夜の闇を裂くように、いくつもの赤色灯が激しく明滅しているのが見えた。
パトカーや救急車が押し寄せている様子が、ぼんやりと不気味に周囲の空を赤く染め上げている。
「また何か事件か……。物騒な街だな、全く」
健斗は下世話な好奇心を満たすように鼻で笑うと、双眼鏡のレンズをゆっくりと手前へ引き戻した。
次に視線を向けたのは、目の前に聳え立つ一際巨大な影――最近建ったばかりの、まだ入居が始まっていない真新しいタワーマンションだった。
まだ誰も住んでいないはずの、ガランとした暗い窓が規則正しく並ぶ壁面。
健斗はなんとなく、自分と同じ「四階」のひとつの部屋にレンズの焦点を合わせた。
冷たい月明かりが差し込む、誰もいない部屋。
しかし、その窓際に、ぽつんと影が立っていた。
「……ん? 不法侵入者か?」
見間違いかと思い、健斗は双眼鏡のピントを限界まで絞り、倍率を上げた。
レンズの向こう側、部屋の奥を背にして佇む、一人の男の後ろ姿が鮮明に浮かび上がる。
通報してやるべきか。そう思いながら観察を続けていた健斗の胸に、じわじわと奇妙な違和感が這い上がってきた。
男が着ている、妙に派手な灰色のスウェットの柄。
少し左側に跳ねた、寝癖のついた泥茶色の髪型。
それだけではない。男の後ろの暗がりに見える部屋の間取り、壁に貼られた映画のポスターの位置。
細部に至るまで、そのすべてが、今まさに自分がいるこの部屋と完全に一致していたのだ。
「な……んだ、これ……?」
恐怖で心臓が凄まじい速さで跳ね狂い、双眼鏡を握る両手がガタガタと震えだす。冷たい汗が額から目へと流れ落ちた。
健斗の動揺を察知したかのように、レンズの向こうの「自分」が、まるで錆びついた人形のような不自然な動きで、ゆっくりとこちらへ振り返り始めた。
肩が回り、首が回る。月明かりの下に晒されたのは、紛れもない健斗自身の顔だった。
しかし、その口元は耳元まで裂けんばかりに歪み、正気とは思えない狂気的な満面の笑みを浮かべている。
そして「そいつ」は、手に持っていた高倍率の双眼鏡をゆっくりと掲げ、こちらに向けてカチリとレンズの焦点を合わせた。
双眼鏡のレンズ越しに、自分と、自分自身の目が、完全に合ってしまった。
「うあああああっ!」
健斗は悲鳴を上げ、双眼鏡を床のカーペットへ激しく放り出した。
狂ったように窓を引っ掴んで閉め、鍵を乱暴に回す。
さらに遮光カーテンをこれ以上ないほど固く閉め切り、外からの視線を遮断した。
心臓の音が耳の奥でうるさいほど鳴り響いている。健斗は玄関へと走り、ドアロックを押し込み、ドアチェーンが確実に閉まっているのを何度も何度も手荒に引っ張って確認した。
部屋の電気をすべて消し去り、完全な暗闇の中でベッドへと潜り込む。頭から毛布を被り、胎児のように丸くなって息を潜めた。
あれは幻覚だ。ただの見間違いだ。疲れているんだ。
自分にそう何度も言い聞かせ、震える手でスマートフォンを操作し、警察に通報しようとした――その時だった。
静まり返った暗闇の部屋。ベッドから少し離れた床の方から、微かな、しかし聞き覚えのある機械音が届いた。
――カチ……、カチ……。
それは、健斗がさっきパニックになって床へ投げ捨てたはずの、双眼鏡のレンズが切り替わる音だった。
カチ……、カチ……。音が、確実にベッドへと近づいてくる。
恐怖のあまり呼吸の仕方さえ忘れた健斗の耳元に、今度はすぐ背後の暗闇から、あの引き裂けた笑みを浮かべた「自分」が放つ、低く冷たい声がべっとりと張り付いた。
「――みーつけた」
■■
文字で埋め尽くされた黒い頁を、冷たい指先が愛おしそうに撫でる。
少女は音もなく本を閉じると、滑らせるようにしてそれを元の書架の隙間へと差し戻した。
「安全な場所など、この世界のどこにもありません。彼がお金を貯めて買った高級な双眼鏡は、今、別の誰かの『覗き窓』として使われているようですよ。……おや、皆さんは大丈夫ですか? 暗い部屋の中、あなたの後ろで、カチリとレンズが回る音が聞こえませんでしたか?」
少女は振り返ることもせず、吸い込まれるように深い闇の奥へと歩き去っていった。
(第3回・了)




