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第2回 最後の感謝

新シリーズを開幕したばかりですが、さっそく第2話をお届けします。お付き合いいただきありがとうございます。


今回の物語の舞台は、とある介護施設。

理不尽な年寄りに囲まれ、ストレスを爆発させる一人の若い介護士が主人公です。彼はある日、老人たちの「ある弱み」に気づき、最悪な方法でストレスを発散し始めるのですが……。


本作は一話完結のオムニバスですが、前回の第1話『還る場所』と、どこか「不気味な繋がり」を持たせてあります。同じ街の、同じ時間軸のどこかで起きている歪な出来事として、細部の描写にも少しだけ目を凝らしていただけると、より深く楽しめるかもしれません。


それでは、黒フリルの少女がめくる2冊目のノート――『最後の感謝』をどうぞ。

 静まり返った図書館の片隅。

 古びた革張りの安楽椅子に深く腰掛け、少女は無表情に小さなハサミを動かしていた。

 冷徹な金属音が響くたび、彼女の足元にはバラバラに切り刻まれた人間の手のような形の紙がハラハラと散らばっていく。


「……人間関係のストレス、というのは、本当に厄介なものです。特に自分が強者だと勘違いしている人間は、哀れなほどに盲目になります。自分が与えている痛みに夢中で足元で静かに研がれているやいばに、気づくことさえできないのですから」


 少女は抑抑のない声で独りごちると、手元にあった古いノートをゆっくりと開いた。

 そこには、まるで血が滲んだかのような赤黒い文字で、介護日誌を思わせる記録がびっしりと書き込まれている。


「今日の物語は……『最後の感謝』」



 大学を出たが就職に失敗した俺は、知り合いのおばさんに紹介されて坂の上にある老人ホームで働くこととなった。

 まあ体力には自信があったし、年寄りの世話くらい楽勝だろと高を括っていたのだが……。


「あーくそっ! やってらんねぇよ!!」


 空になった缶チューハイを床に叩きつけ、俺は荒い息を吐いた。

 介護士の仕事は、想像を絶するほどハードだった。

 何せ相手はボケたじいさんばあさんだ。

 すぐに物事を忘れるくせに、プライドだけは高くて理不尽なことで怒鳴り散らしてきやがる。


 いじるなと言っているのにおむつをいじり、盛大に失禁して服を着替えさせる羽目になるなんて日常茶飯事だ。

 風呂に入れと言えば「寒いから嫌だ」だの「殺す気か」だの、わけのわからない妄言を抜かしやがる。


「もう、飲み過ぎよ……」


「うるせぇよアヤ! さっさと新しい缶持ってこい!!」


 同棲している大学の後輩で同じ施設に引き入れた恋人のアヤに怒鳴り散らし、手元にあった空き缶を投げつける。

 本当に気が利かない、すっとろい女だ。

 缶をまともにぶつけられ、アヤは涙目で怯えながら、慌てて冷蔵庫へと走る。

 ――まぁ、このビクビクと俺の顔色を窺う怯えた表情は、男としての自尊心が満たされて結構そそるものがあるんだがな。


「それにしても、職場も家もストレスがたまるぜ……」

 

 職場の人間関係も最悪だった。

 俺と同期のやつは資格を持っているとかで、最初から俺より給料が高い。そんなのただの差別だろ。

 この溜まりに溜まったストレス、どこかで発散しねぇと頭がおかしくなりそうだった。


 そうして俺は、ある最高のストレス解消方法を見つけた。

 年寄りってのはボケてるから、突発的な出来事はすぐに忘れる。

 だから、言うことを聞かない奴は、服に隠れてバレない位置を軽く小突いたりして従わせるんだ。

 誰に世話をしてもらっているのか、どっちが上の立場なのか、力関係を体に叩き込んでやるのさ。


 相手さえ間違えず、アザが残らない程度にやりすぎなければストレスの発散相手には事欠かない。

 そんな俺が目をつけたのは、シゲとかいうばあさんだった。

 強情で、職員にもすぐ嫌味を言うもんだから、他のスタッフからも煙たがられている。

 俺がどれだけ裏で「わからせて」やろうとしてもいつも生意気に睨み返してくるものだから、俺もつい拳に力が入ってしまっていた。


■■


 ある日の夜勤帯のことだ。

 見回りの途中でシゲの部屋の前を通りかかると、中から話し声が聞こえた。

 ドアの隙間からのぞくと、そこにいたのはアヤだった。

 アヤは仕事が終わった後だというのに、なぜかシゲのベッドサイドにしゃがみ込み何かを熱心に話し込んでいる。


「……うん、うん。そうかい。それは痛かったねぇ、可哀想に。大丈夫、大丈夫だよ。もうすぐ、全部終わるからねぇ……」


 シゲが、いつもの険しい顔とは打って変わった慈愛に満ちた表情で、アヤの涙を拭っていた。

 アヤは小さく頷き、何か小さな「白い紙包み」をシゲの包み込むような手のひらに握らせていた。


「おい、アヤ! 何してんだお前!」


 俺がガラッと扉を開けると、二人はビクッと肩を揺らした。

 アヤは「あ、す、すみません! シゲさんが眠れないって言うから、少しお話を……」と、顔を真っ青にして部屋を飛び出していった。

 チッ、何なんだあいつらは。気味が悪い。


■■■


 その翌日のことだ。

 シゲの部屋に行って介助をしようとしたら、案の定いつも通り顔を背けて嫌がりやがる。

 昨夜のイライラもあった。誰も見ていない。

 いつものように一発お見舞いしてやろうと、俺が拳を振り上げたその時だった。


 シゲはガバッと目を大きく見開くと、急にベッドの上で深々と俺に向かって頭を下げだしたのだ。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


「……え?」


「あんたとは、今まで色々あったけど……本当にごめんなさいね。今まで、本当に、ありがとう……」


 あまりの豹変ぶりに、俺は完全に毒気を抜かれてしまった。

 振り上げた拳の行き場を失う。

 その後、彼女は驚くほど大人しくなり、全く反抗せず俺の言うことを聞いた。

 俺が部屋を出て行くときも、ドアの向こうから「本当に今までありがとうねぇ」と妙に晴れやかな声で礼を言っていた。


 何だよ、最初からそうやって素直にしてたらかわいいじゃねぇか。

 素直になったばあさんを見ていると、不思議と少し愛着も湧いてくる。

 もしかして、自分の死期が近いのを本能的に悟って、これまでの態度を反省し心を入れ替えたんだろうか。

 だったら、これからはもう少しだけ、優しく介助してやるのも悪くないな。


 俺は上機嫌でその日の仕事を終え、アヤの待つアパートへと帰宅した。


■■■■


 次の日。

 その介護施設は、朝から異様な慌ただしさに包まれていた。

 休憩室では、夜勤明けの職員たちが青い顔でヒソヒソと噂話をしていた。


「おい、聞いたか? 坂の下の工場に勤めてる男の話……」

「ああ、毎日カバンの中に奥さんの骨壺入れて出勤してたっていう……あの有名な変な人だろ? あれ、やっぱり本当だったらしいな。昨日、ついに会社でカバンの中身をぶちまけて大騒ぎになったんだって」

「うわぁ、関わりたくないね……。あ、それよりテレビ、ニュース変えて。うちの入居者が見たら刺激が強すぎる」


 そんな喧騒を余所に、入居者であるシゲばあさんは、食堂の椅子に深く腰掛け穏やかな顔でテレビのニュースを眺めていた。

 画面のテロップには、物騒な文字が躍っている。


『――本日未明、市内のアパートで介護士の男性(23)が、交際相手の女性に刃物で刺され死亡しました。女性は調べに対し「日常的な暴力に耐えかねてやった。もう限界だった。後悔はしていない」と供述しており……』


「あっ……ちょっとシゲさん!それ止めましょう!」


 近くにいた女性職員が悲鳴を上げ、慌ててリモコンを操作してテレビの画面を切り替えた。

 お年寄りのために、のどかな歌のDVDが再生される。


 変わり果てた画面を見つめながら、シゲばあさんは小さく満足そうに微笑んだ。


「ふふ、もう少し観たかったんだけどねぇ、あのニュース。……そう言えば。あの子、ちゃんと最後のご飯は食べてくれたかしらねぇ?」


■■■■■



 文字で埋め尽くされた頁を、白い指先がそっと撫でる。

 少女は開いていた古いノートを静かに閉じると、足元に散らばった紙屑を一瞥いちべつした。


「『ありがとう』という言葉には、時に、恐ろしい呪いが込められています。あのお婆さんが告げた感謝は、彼を地獄へ送り届けてくれたことへの、最大の手向けだったのでしょう。……あの子、最後のご飯は食べてくれたかしら、ですか。きっと、お腹いっぱいに『苦しみ』を詰め込んで逝ったはずですよ」


 ハサミを椅子の脇のテーブルへ置くと、少女はまた別の本を探すように静かに薄暗い闇の奥へと歩き去っていった。


(第2回・了)

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