第1回 還る場所
いつも作品を読んでいただき、ありがとうございます。
本日より、新シリーズの連載をスタートいたします。
この新シリーズの記念すべき第1話は、2022年に公開したショートホラー『帰ってくる…』を大幅にリメイクした作品となります。
4年の時を経て、物語の骨組みはそのままに、より生々しく不気味な恐怖描写を肉付けしました。さらに、シリーズ全体のストーリーテラー(狂言回し)として「古い図書館を徘徊する、無感情なゴスロリ風の少女」を迎え、世界観を一新しております。
かつて原作を読んでくださった方も、今回初めて読んでくださる方も、新しく生まれ変わった恐怖の形を楽しんでいただければ幸いです。
それでは、終わらない悪夢の頁をお開きください。
薄暗く、埃の舞う古い図書館。
その高い書架の間を一人の少女が足音もなく歩いている。
漆黒のレースとフリルをあしらったゴシック・ロリィタ服を身に纏い、手にした小さな傘をパタパタと無聊そうに弄んでいた。
ふと、少女の白い手が、ある一冊の本の前で止まる。
それは周囲の書物とは明らかに異なり、ひどく湿り気を帯びていた。
「……ようこそ、迷い子の皆さん」
少女は感情の失せた、抑揚のない声で呟く。
棚から引き抜かれた本の表紙からは、かすかに生臭い潮の匂いが漂っていた。
「愛という言葉は、とても都合が良いものです。生きていようと死んでいようと、相手を自分の手元に縛り付ける免罪符になるのですから。……おや、この本のページ、少し濡れていますね。どうやら、海から這い上がってきた『愛』が、ここまで戻ってきたようです」
少女は虚ろな瞳のまま、ゆっくりと本を開いた。
その瞬間、めくられたページからドクドクと黒い海水が溢れ出し、見る間に視界を真っ暗に染め上げていく――。
■
「なぁ、聞いてくれ」
俺は社員食堂の隅の席で、同僚の徳田に向かって声を潜めた。
「去年、妻が亡くなっただろ」
「あ、ああ、そうだったな。大変だったろ」
俺は去年、妻の透子を亡くした。
大恋愛の末、親の激しい反対を押し切って結婚した。
子どもには恵まれなかったが、二人きりで本当に幸せな生活だったと思う。
「それでなんだがな……あいつが、戻ってくるんだよ」
「お前……大丈夫か? 疲れてるんだよ」
親友の心配そうな目も無理はない。だが、事実なのだ。
「あいつを墓に納骨した、次の日の朝だ。……墓にあるはずの骨壺が、リビングのテーブルの上にぽつんと置いてあったんだよ」
「いや、戻ってきたって……。あれだろ、別れるのが辛くて、お前が無意識に持って帰ってきちゃったとかさ」
「俺もそう思った。だから今度は、念のために弟に付き添ってもらって、しっかりと墓に納めたんだよ……だけど、次の朝にはやっぱり部屋に戻ってた」
「……」
徳田の顔から、さっきまでの軽薄な笑みが消えた。
彼は腕を組み、しばらく考え込んでから言った。
「よし、じゃあ百歩譲って、戻ってくるのが本当だと仮定しよう。……あれじゃないか? 奥さんに何か強い心残りがあるんだよ。生前、死んだら『こうしてくれ』なんて言ってたことはないか?」
「あいつの遺言……」
何か無かっただろうか。あいつが愛おしそうに語っていた、生前の言葉。
「そう言えば、結婚したばかりの頃に言っていたな。『海が好きだから、もし私が死んだらきれいな海に還してね』って」
「それだよ! きっとそれだ。狭くて暗い墓に閉じ込められたから、奥さんは嫌がって戻ってきたんだよ」
「そうか……! そうと決まれば、早速海に散骨してみるよ」
霧が晴れたような気分だった。
これでもう、あいつを窮屈な思いにさせなくて済む。
その週末、俺はあいつの生まれ故郷の海へ向かった。
波打ち際で骨壺を開け、真っ白な遺骨をすべて風に、そして青い海へと還した。
サラサラと水面に溶けていくあいつを見て、ようやく肩の荷が下りた気がした。
――だが、本当の恐怖は翌朝だった。
朝、目が覚めると、部屋の中に奇妙な匂いが充満していた。
生臭い、潮の匂いだ。
怪訝に思いながらリビングへ向かった俺は、息を呑んだ。
昨日、海の底へ沈んだはずの、あの空っぽの骨壺がテーブルの上にあった。
それだけではない。
骨壺の周りには、ベッタリと濡れた砂がこびりつき、中からはチャプチャプと水音がする。
覗き込むと、並々と満ちた海水の中に、昨日撒いたはずの「濡れた遺骨」が、一欠片の狂いもなく全て収まっていたのだ。
まるで、あいつが自ら海底を這いずり、骨を拾い集めて戻ってきたかのように。
■■
それからしばらくして。
「それで……奥さんの散骨、うまくいったのか?」
社員食堂で、徳田がおそるおそる尋ねてきた。俺は静かに頷く。
「ああ、海にしっかりと撒いてきてやったよ。あいつの生まれ故郷の、大好きな海にな」
「そうか、それじゃあ、もう……」
「だけどな……」
俺は足元に置いていたビジネスバッグから、ゆっくりと骨壺を取り出しテーブルの真ん中に置いた。
まだ少し湿り気を帯びたそれを。
「また戻ってきたんだ。……で、やっと気づいたよ。あいつ、死ぬ直前にも言ってたんだ。『この先もずっと、あなたとだけは離れたくない』って。全く、どこまで可愛い奴なんだろうな」
愛おしそうに骨壺を撫でる俺を、徳田は引き攣った顔で見つめていた。
何か人間ではない恐ろしいものを見るような目で。
彼はガタガタと椅子を鳴らして立ち上がると、「よ、良かったな……」とだけ絞り出し逃げるように去っていった。
『死が二人を分かつまで』と世間は言うが、俺たちにはそんな言葉は関係ない。死すらも、俺たちを分かつことはできないのだ。
「それじゃあ、俺は仕事に戻るよ。鞄の中で大人しく待っててくれよ、透子」
愛しい妻の骨壺を優しくバッグに収め、俺は満足気に微笑んだ。
■■■
舞台は薄暗い図書館へと戻る。
ゴスロリ服の少女は、手元で開いたままの本を、感情のない目で見つめていた。
「死が二人を分かつまで、と言いますが。彼女にとっては、死など単なるスタートラインに過ぎなかったのでしょう」
少女はパタンと静かに音を立てて本を閉じ、元の書架へと差し戻す。
その指先は、冷たく白く、やはり人形のようだった。
「……ふふ。たとえ身が朽ち果て、砂に塗れようとも、約束は守らなくてはなりませんものね。……ところで、あなたの後ろにあるそのカバン。本当に………空っぽですか?」
少女は一礼もせず、次の物語を求めて、また静かに闇の奥へと歩き去っていった。
(第1回・了)




