第九話 逆流
栃木陣屋の戦闘により、先発隊と応援隊のほとんどが討ち取られた。
虎口を脱した平馬は、鍋山村に戻ると一目散に宿に駆け込み、布団を頭からかぶって身を縮めた。
(清四郎が……俺を足止めした?)
(いや――神谷様なのか)
そこに太鼓を叩くような複数の足音が近づく。
「渡辺はいるか!」
怒号が響いた。襖が強引に開けられる。そこに立つのは大谷だった。血の付いた服と身体の所々に刀傷。大谷もまた、辛くも栃木陣屋での戦闘から逃れていた。
布団を引き剥がした大谷は、小さく蹲る平馬を見下ろしながら語気強く言い放った。
「この場で叩き斬ってやりたいところだが、竹内様がお呼びだ!」
大谷の合図で連れ立ってきた男たちが平馬の脇を担ぎ上げ、そのまま竹内の宿所へと連行していった。
両脇を抱えられながら、平馬は思考を巡らした。
(どうする? どうする? 殺される――確実に!)
母や柚羽の顔さえ浮かばない。同じ言葉だけが平馬の脳裏を駆け巡る。
そして――。気付いた時には、竹内の目の前、複数の男たちに取り囲まれた輪の中に座っていた。
「黙っていては分からない!」
ここでも怒号が響く。うつろな目をした平馬は、一切の問いかけに答えなかった。
突如、平馬が予期せぬ行動に出た。額を地面に何度も、何度も叩きつけた。異様な音がその場に響き渡る。
――やがて訪れる静寂。
ゆっくりと身を起こす平馬。額から流れる血が顔を伝う。狂気じみた行動と風貌ではあったが、その目は凛としていた。平馬を囲む男たちにわずかに戦慄が走った。
「そのようなことで許されると思っているのか?」
大谷が口を開いた。しかし、その声にさっきまでの威勢は失われていた。
「……お人払いを……」
静かで穏やかな口調の平馬の言葉を聞いた竹内は首を縦に振り、周囲の男たちを下がらせた。その場には竹内、会沢、大谷、そして貞之進が残った。
「某は会津の放った間者です」
突然の平馬の告白だった。
「やはりそうか!」
大谷が声を張って刀の柄を握った。その一方で竹内は思った。
(……面白い男だ)
すると貞之進が口を開いた。
「おやめなさい。渡辺殿は、会津に伝わる大東流柔術の使い手。このような状況での戦い方も熟知している。それに自ら間者であることを明らかにしたということは、決して我らに害をなそうとするものではないでしょう」
貞之進は平馬の変化を感じ取っていた。一方で平馬は明らかな違和感を抱いた。
(どうしてそれを……?)
続いて竹内が尋ねた。
「潜入の目的は?」
「浪士隊が会津に向かうのか否かを知るため」
竹内はさらに質した。
「それだけか? なぜ白状した?」
「別の目的があるようですが、某は知らされておりません。そして……この隊の中に某以外の会津の間者が潜入しております。実際、すべての情報はその者から漏れていたようです。私はもはや用無し……」
平馬と竹内の問答が続いた。
「間者として潜り込んだ者が、自らの命惜しさに立場を翻すことはよくあること。お主の言を信じろというのは無理があろう?」
「……誓文に『幕府は朝廷の命を聞かず、職務を怠ける』とありました。そして、会津は領民を顧みることなく、そんな幕府に盲従し、不要になった者は使い捨てる。その者の想いなど関係なく。もはや会津に忠誠を尽くすことの無意味さを知りました。時代の流れに逆らったところで、ただ死ぬだけ。……もはや、古き世に戻る気はありません」
平馬は率直な思いを述べた。これを聞いた竹内の口元が緩む。
「……我らとて、薩摩の使い捨てであるぞ?」
「仮にそうだとしても、自らの意志や想いに殉じたいと思います」
決して目を逸らすことなく毅然と話す平馬の言葉の中に、竹内は真を感じた。
「間者であったお主であれば、幕府が派遣した討伐軍が天明に入ったことは知っておろう」
数日前、平馬も清四郎から1,000人からなる幕府の討伐軍が日光例幣使街道・天明宿に入ったことを知らされていた。
「この地は守るに不向き。このままでは西郷殿から託された目的を成すことはできぬ。それゆえ、我らは動く」
首を縦に振る平馬。
「ただお主を連れていくことはできぬ。たとえ間者が潜んでいるかもしれないとしても、お主は間違いなく間者であった。お主の存在が無用な軋轢を生むことになっては困る」
「当然です。某は別行動をとります」
一同がわずかに首を傾げた。視線が平馬に集中する。
「某を保護する目的で会津も兵を出します。それゆえ、某はこれに合流するために動きます」
「お前、この期に及んで我らを謀るか! 今さっき、お前は『会津にとって用無しの身』と申したはず。見捨てられた者を助けるために兵を動かすことはなかろう! 舌の根の乾かぬ内に、結局は我が身可愛さか!」
平馬に対して尋常ならざる想いを抱く大谷が激昂するも、竹内はこれを冷静に制し、平馬に続けるように促した。
「連絡役の者が申すには、会津にも幕府から出兵の命が出ているとのこと。もはやこの者の言すら信じることはできませぬが、仮に真であったとしたら、会津兵のここへの進攻は防がねばなりません。それに……」
平馬は逡巡した。考えたくない事を自らの口から言うことになる。
「おそらく会津兵の目的は、某の口を封じることでしょう。某が会津兵の前に姿を示せば、会津はここまで南下してくることはないはずです。某が会津兵をひきつけます」
「確かに一理あるが……」
竹内が貞之進に視線を移した。目が合った二人は、わずかに頷き合った。
「某が共にまいろう」
貞之進が口を開いた。
「渡辺殿の言葉が正しいか確認する。仮に確認できたとしても、その時は某の命もなかろう。某が戻らなかったときは、正しかったと考えてください」
「……わかった。そうすることで皆の疑念も減ろう。その答えが出る頃に我らが生きているか分からぬが」
言い終えた竹内は大谷に視線を移した。大谷は憮然とした表情のまま、わずかに首を縦に振った。一連のやり取りを見ていた平馬の口元がわずかにほころぶ。そして、すぐさま竹内に向かって言った。
「年端も行かぬ若者たちをお預けください」
「預けたところで会津と合流した際に捕縛されよう?」
尋ねる竹内に平馬は答えた。
「あの者たちは、戦のために集まった者ではありません。新しい世を担うべき彼らを死なせるわけにはいきません」
「どうするつもりだ?」
「ここでは申せません。どこで誰に聞かれているか分かりません。すべて某にお任せください」
目をつむって腕組みをしながら考える竹内。しばらくしてゆっくりと口を開いた。
「よかろう。戦力にならない百姓だ。好きにするがいい」
頭を下げる平馬に竹内は続けた。
「これまでお主や戸田殿は事あるごとに誓文を口にしてきた。あんなもの、体裁を整えるだけの方便にすぎないというに。しかし、事ここに至っては、誓いに殉じることも悪くはなかろう」
平馬の顔に浮かぶ晴れやかな笑み。これにつられるように微笑んだ竹内が続けた。
「我らはこれから……」
「それ以上は!」
竹内が言い終える前に平馬が割って入った。
「ここで別れる以上、皆様の行動を知る必要はございません。どこで誰が聞いているともしれませんので」
平馬は同じ言葉を繰り返した。あたかも、そこにいる“誰か”に聞かせるように――。
「……承知した。生きていれば新しき世でまた会おう」
平馬と貞之進は、頭を下げてその場を離れた。




