第十一話 渦を生むもの
慶応3年12月12日未明――。
平馬は、貞之進と喜助ら若い百姓たちと、日光例幣使街道の金崎宿(現・栃木県栃木市)までやってきた。ふと平馬はその場にしゃがみこんだ。
「草鞋の紐がほどけました。先に行ってください」
貞之進が歩き出し、これに続く喜助たち。その時、平馬は喜助の袖を掴んだ。喜助の足が止まる。平馬に顔を向ける喜助。
「もう一つの紙を見ろ」
小声で指示すると、平馬は貞之進の後を追った。喜助がその場で平馬から託された『点』のついた紙を開くと、ほかの若者たちがこれをのぞき込む。そこには3両の金子と平仮名の一文があった。
――きづかれずに いますぐわきにそれて にげろ――。
喜助たちは顔を見合わせた。それぞれに緊張が走る。
「……平馬さんの言う通りにしよう」
喜助が声を殺して口にすると全員が無言で頷く。喜助たちは建物の路地へとそれた。
「日が昇る前にできるだけ遠くへ行こう」
喜助たちの姿は、路地の暗闇に消えた。
街道を進む貞之進がわずかに違和感を覚えて足を止めて振り向く。そこには平馬の姿しかなかった。
「あいつらはどうした?」
貞之進が尋ねるや否や、平馬は進行方向に向かって指を差した。宿場を出た少し先、思川に架かる橋の対岸のたもとに、行く手を塞ぐ黒い影があった。
(定石通り、川の対岸か……)
平馬は、何事もなかったように貞之進とともに歩みを進め、橋を渡った。次第に白む空の下、近づくと薄暗闇の中で旗印が現れる。
『會』の一字――。会津藩である。
会津兵と距離を置いて足を止める平馬と貞之進。
「清四郎から聞き及んでおります。某のためにご足労いただきまして、誠にありがとうございます」
平馬は、一団の中心にある馬上の影に向かって声を張った。少しの間を置いて言葉が返ってくる。
「ご苦労であった」
聞きなれた声の主は神谷である。神谷の姿が分かる距離まで近づく平馬と貞之進。馬上の神谷が、にわかに口元を緩めた。
「薩摩の戸田殿でありますかな?」
直前まで神谷の行動は想定内だった。しかし、想定外の神谷の言葉。芽生え始めていた平馬の心の余裕は、一気に消し飛んだ。
「いかにも。薩摩藩士・戸田貞之進であります。ようやくお会いできましたな」
二人の会話に狼狽する平馬。
「薩摩!?」
思わず口をついた平馬は、貞之進に向けて声を張った。
「あなたは、会津の間者では?」
貞之進の口元に浮かぶ影。ゆっくりと切り出した。
「俺は、薩摩の西郷どんの指示で浪士隊に加わった薩摩藩士。会津の内通者と接触しろとの命を受けている」
「では、浪士隊でのことはすべて芝居?」
浪士隊に加わったときの血判、事あるごとにその場に居合わせ、貞之進の言葉で場が治まる。平馬はすべてに合点がいった。
「しかし、あの技は!? 他藩の者が会津秘伝の大東流をあそこまで使いこなせるなんて! ほんの少し会津に立ち寄った程度で、あそこまでの動きはできません!」
「某の才が優れていた……それだけであろう」
事態を飲み込めずにいる平馬は沈黙した。そんな彼を尻目に、貞之進が神谷に向かって声を掛けた。
「お約束の物はお持ちいただけたかな?」
「もちろん」
馬上の神谷が左腕を差し出すと、会津兵の一人が漆の箱を取り出し、神谷に手渡した。神谷は箱を持ち上げると貞之進に尋ねた。
「そちらも、お忘れではありますまいな?」
貞之進は懐から書状を取り出すと、同様にこれを握る手を高々と挙げた。
二人のやり取りを茫然と眺める平馬。その目にあの男の姿が映った。
「……清四郎」
会津兵たちの中から現れる清四郎。清四郎は会津兵の手から漆箱を取り上げると、ゆっくりと貞之進の元に向かい、漆箱を手渡した。引き換えに清四郎に書状を手渡す貞之進。これを受け取った清四郎は、取って返して神谷に手渡した。神谷は書状に目を通すと、貞之進に向かって笑みを浮かべながら大きく頷いた。
「わざわざこのような手の込んだことをせずとも……」
貞之進が口を開くと、神谷がこれに応えた。
「このような大事。書状のやり取りだけでは、頓挫するおそれがありますのでな。それに、盟約のためには互いの信用が必要。最後は直接顔を合わせる必要があるでしょう」
神谷が言い終えると、貞之進は箱の中から紙を取り出し、これを広げた。恐る恐る脇からのぞき込む平馬が叫んだ。
「これは!」
――会津藩の軍事情報が記された書状と領内、城下、城の絵図――。
全体に一通り目を通した貞之進は、再び畳んで箱にしまった。
「あなた方は何をしているのですか!」
平馬は語気を強め、神谷に対して厳しい視線を向けた。すると、清四郎が平馬に近づきながら口を開いた。
「これがお前を浪士隊に潜らせた『深い意図』ってやつだ」
「何だと!?」
平馬は、清四郎を一瞥すると、再び神谷に視線を向けた。
「この件は幕府が朝廷に大政を返上した時から仕組んでいたこと。先だって京で王政の復古が宣言され、徳川幕府は完全に消滅した。そんな徳川に盲目的に忠誠を示す会津……。いずれ薩摩との戦が始まる。旧態依然とした会津が勝てるわけなかろう。そのような会津に忠義を尽くして何の意味があるか!」
「王政の……復古?」
「現時点で会津では某のみが知る話。情報をいち早く得る者が未来を選べるということだ」
勝ち誇った神谷の態度が平馬の怒りを煽った。
「裏切り者の言うことか!」
平馬が刀の鞘に手を掛けると、清四郎が続いた。
「会津の軍事情報が分かっていて、さらに領内や城の地図があれば戦を有利に進められるだろう? そうすれば戦も早期に終わり、多くの者が救われるって寸法さ。その褒美があの書状。薩摩の西郷様に新しい政での地位を保証してもらう……というわけだ」
平馬が腰をわずかに落として鯉口を切ると、神谷は左手を上げた。これを合図として会津兵たちが前に出て、平馬に銃口を向けた。
「嘘か誠か、藩主直属の影の部隊が目を光らせているとの噂もある。その目をかいくぐって薩摩と接触するためには細心の注意が必要だった。お主はよくやった。褒美としてお主の母のこれからの生活は保証しよう」
今にも斬ってかかりそうな平馬。そんな平馬に向かって清四郎が口を開いた。
「で、俺への褒美が柚羽――ってことさ」
「……柚羽……だと?」
再び思考の渦が平馬を襲った。平馬をあざ笑うかのように清四郎が続けた。
「最後に教えてやる。柚羽は無事だ」
「何!?」
「からかってやったんだ。小さい頃からお前には剣も学問も歯が立たなかった。それに加えて、お前は柚羽まで手に入れた。俺も柚羽のことがずっと好きだったのに、軽輩のお前がだ! 俺はそんなお前が憎かった!」
清四郎の告白に、平馬に返す言葉はなかった。
「安心しろ。これからは俺が柚羽を幸せにする。……夫としてな」
「今何と言った!?」
驚愕する平馬に、清四郎は勝ち誇ったように悠然と口を開いた。
「お前が会津を出てしばらくした後に神谷様の命で柚羽と祝言をあげた。早めのご褒美ってやつだ。最初はひどく拒絶されたが、お前が命を落としたと告げたら、最後は渋々首を縦に振ったよ」
神谷に厳しい視線を向ける平馬。神谷が蔑むような口調で言った。
「お前のような輩に最愛の娘をくれてやると思っていたか?」
神谷の言葉を聞いて、口元に歪んだ笑みを浮かべる清四郎。平馬の肩に手を置くと、平馬の耳元で勝ち誇ったように言葉を発した。
「夫婦の営みも満喫しているぞ。柚羽にとっては『辱め』なのかもしれないがな」
平馬は、鯉口を切ったまま、下を向いて無言で清四郎の言葉を聞いた。しかし、柄を握る手は小刻みに震えていた。
「じゃあな!」
平馬に背を向けた瞬間、清四郎の背中に激痛が走った。そのまま前のめりに倒れ伏す清四郎。
「おま……」
最後まで言い終えることなく、清四郎は沈黙した。
(すべてではない……。でも、ほんのわずか、信じていたのに……)
歯を食いしばりながら、平馬はゆっくりと目を閉じた。




