第二十九話 矜持と恥と魔術師と
前回までのあらすじ!
人斬り侍がおいしそうなダークエルフを食べ損なったぞ!
深き森の大樹が揺れた。地鳴りの大波が迫っている。
「ああぁぁ、もう……!」
ダークエルフとかいうやつを組み敷いたまま、おれは背後を振り返る。
視線の先には赤い懸衣のリリィと、そのさらに背後から迫り来る大量の獣臭。足もとには暗殺者がどうにかおれの拘束から逃れようと身をひねっている。
やることが多すぎて思考が追いつかない。いや、単なる栄養不足かもしれねえが。
「マスター? いつまでその女性に騎乗しているのですか?」
リリィが空色の瞳を細めて、拗ねたように口もとを尖らせていた。
「わたし以外の女性に騎乗するなんて、不潔です……」
おれは視線を下げる。
黒髪、褐色肌、尖った耳、細い首、短衣の合わせ目から今にもはみ出しそうな、リリィのものよりもさらに大きな胸。ダークエルフが逃れようとするたびに、揺れて形を変えている。
なるほど、女だ。これまでずいぶんと大胆な格好だ。
「……おまえさん、もしかして妬いてんのかィ?」
「まさか。ただ不思議とわたしの中で、マスターに対する殺意的衝動が急速に膨れあがってきただけですからっ」
江戸ではそれを妬いていると言うのだが、レアルガルド大陸では違うようだ。
地鳴りどころか、すでに先頭の魔物が暗い森を駆け抜けてきているのが見える。
おれはダークエルフとやらに向けて口を開けた。
「よお、ダークエルフ。おまえさん、運が良かったな」
「何――ッ!?」
おれは呼吸を整えながら呟く。
「おまえさんの放った矢がおれじゃあなくリリィに向いていたら、悪と見なしてここで頸を掻き斬ってやったところだ」
「黙れッ、裏切り者の薄汚い人間種めッ! 貴様らにそんなことを言う資格があるとでも思っているのかッ!」
おれはダークエルフの喉に突きつけていた菊一文字則宗を納刀し、女の胸ぐらを左手でつかんでむりやり引き起こす。
「汚い手であたしに……ひっ、やめ、貴様どこを触――っ!」
引き起こして腰のあたりをまさぐり、装着されていた矢筒を細い帯のような紐ごともぎ取ってリリィへと投げる。
「リリィ、持っててくれ」
「あ、はい。承知いたしました、マスター」
リリィが矢筒を胸で受け止めて、にっこり微笑んだ。
ブーツでつま先立ちになり、次の瞬間には踵をつける。嬉しそうな顔をして、そんな動作を何度も繰り返している。鼻唄でも聞こえてきそうだ。
背後から魔物の群れが迫っているというのに、もう機嫌が直ってやがる。さっきのおれの言葉が原因か。
まったく、なかなかどうして懐かれちまったもんだ。
「マスター、そのダークエルフをどうなさるおつもりですか?」
「連れてくしかねえだろ。ここに放っときゃ魔物に食われちまうからな」
ダークエルフが大口を開けた。
「ふざ――ンッ! ンンンンンッ!」
おれは懐の手ぬぐいをダークエルフの口ん中に詰め込み黙らせる。
リリィの背後に剣歯虎が迫った。
リリィは事も無げに頭部の黄金色の毛をわしづかみにして、身体をくるりと回転させながら巨大な剣歯虎を大層な勢いで投げ返した。
「えいっ」
迫る魔物の波から、肉の弾ける音と獣の悲鳴が混ざり合って響く。
「ああ。でしたらもう逃げる必要はありませんよ」
「あぁ? おい――っ!」
リリィが懸衣の裾を揺らし、おれに背中を向けた。闇を疾走する無数の魔物が、獰猛な咆吼とともにリリィへと飛びかかった。
多い――!
「リリィ!」
おれは舌打ちをしながら抜刀し、体内に残ったなけなしの栄養分を力へと変えてゆく。
斬撃疾ばしは間に合わない。あの技は集中力を限界まで高めるための時間が必要だ。それに、現状の体力では放てるかどうかもあやしい。
おれは左手に持っていたダークエルフを突き飛ばし、リリィの背後から跳躍する。
抜刀術――ッ!
だが、おれの全身がリリィの頭頂部上空を通過して魔物と交叉するその直前、リリィの全身から光の粒子が大量に散った。
「うふぇ!?」
赤の懸衣が消滅した直後、リリィの両腕が、全身が、ぎしりと軋んだ。白の肌が金属色に染まり、戻った粒子が鱗となって貼り付いてゆく。
「ああああぁぁぁぁ!? ちょっとぉぉぉぉ!?」
拙い。
そう思った瞬間には、おれは特大の衝撃波で派手に空高くへと吹っ飛ばされていた。
「ンがッ!?」
ルナイス山脈では、これで崖から落とされかけたっけか。
夢中で身体を後方回転させ、樹木の幹に両足をあて、どうにか大地に不時着したおれの眼前に広がった光景は。
銀竜シルバースノウリリィの巨大な背中だった。
――ガアアアアアァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーッ!!
咆吼、森を揺らす。
リリィが前脚で先頭の魔物どもを薙ぎ払った。
ぐちゃり、と聞き慣れぬ音が響き、大樹ごと薙ぎ払われた悪鬼や剣歯虎、牛頭人身らの肉片が周囲に飛散する。
直後に静まりかえる森。
おれは腰砕けで座り込んだまま、一目散に森の闇へと逃げ込んでゆく魔物どもの姿を視線で追っていた。
殺気も食欲もどこへやら、だ。だがそれは魔物どもだけに限ったことじゃあなかった。
おれの横では、手ぬぐいを口から引っこ抜いたダークエルフまでもが腰を抜かし、唖然とした青白い顔色でリリィを見上げていた。
「こ、こ、古竜――は……ひぃ、ひぃぃぃぃ!」
ダークエルフの女が腰を抜かしたまま、ずりずりと後ずさる。
リリィの念話がおれの頭蓋で反響した。
『あ、マスター。そのダークエルフを逃がさないでください。この森に魔術封じと迷いの魔術をかけていたのは、そのダークエルフです。マスターが急襲したことで集中力が乱れ、魔術が解けたのでしょう』
「ああ……そう……」
四つん這いとなって逃げようとしていたダークエルフの腰を、おれの手がつかむ。
「ぎゃあああっ! さ、触るなぁぁ!」
「おっと、逃がすかよ。くくく。あれだけのことをしでかして、ただで逃げられるとでも思ったのかィ?」
ダークエルフが頭を抱えて地面に伏せた。
おそらく知識はないのだろうが、見事な土下座だ。面倒くせえことに、完全に怯え切ってしまっている。
無理もねえ。リリィのあの姿をこの距離で目の当たりにしたんじゃあ、江戸の侍だって大抵は裸足で逃げ出すってもんだ。
「し、死にたくない、死にたくない、死にたくない……っ」
だが、他の誰でもねえ、このおれを狙ったんだ。このままじゃあ終われねえ。
終わらせるわけにゃいかねえのさ。それがけじめってもんだ。
おれは彼女の前に移動して両膝をつき、山間を流れるせせらぎのごとく流麗なる動作で額を大地に擦りつける。
負けじと土下座だ。
「なんか食えるもんを分けてください。今にも死にそうです」
「……は……あ?」
体内に残っていたなけなしの栄養を体力に変換し、抜刀術にすべてを注ごうとしたおれは、すでに立つこともままならない状態となっていた。
ドラ子の雑感
OH! ドゲーザ!




