068 修善寺温泉
宿に着き、荷物を部屋に置くと、真っ先に大浴場へと向かった。
修善寺温泉は、静岡県伊豆市にある、伊豆半島でも屈指の歴史を誇る温泉地だという。その起源は平安の昔、弘法大師・空海が桂川で病に苦しむ父親を洗う少年を見て、独鈷杵で岩を打ち、霊泉を湧き出させたという伝説に遡るらしい。
脱衣所で服を脱ぎ、浴場へ足を踏み入れる。湯気の向こうに、檜造りの大きな湯船が広がっていた。
かけ湯をして、そっと足先を湯に浸す。思っていたよりも刺激が少なく、やわらかい肌触りだ。ゆっくりと肩まで体を沈めると、無色透明で、無臭に近いお湯が全身をやさしく包み込んでいく。
泉質はアルカリ性単純温泉。さらりとした湯あたりで、肌にまとわりつくようなぬめりはなく、どこまでも澄んでいる。
「ふぅ……」
思わず、長い息が漏れた。
じんわりと、体の芯から熱が染み渡っていく。
窓の外には、色づき始めた木々と、小さな庭園が見える。湯船に体を預けたまま、しばらくぼんやりとその景色を眺めた。
疲労回復や筋肉痛、関節痛、冷え性に効能があるというだけあって、ダンジョン探索で溜まった疲れが、湯に溶けて流れ出していくような感覚だ。
すっかり長湯をしてしまい、のぼせる一歩手前で浴場を後にした。
部屋に戻り、浴衣姿で座布団に座る。備え付けのお茶を淹れ、ジオパークミュージアムで手に取ったガイドブックをぱらぱらとめくった。
「明日は、どこを回ろうかな」
◆◆◆◆◆
夕食までまだ少し時間があったので、浴衣姿のままホテル内を散策することにした。
廊下を歩いていくと、囲碁将棋ができるロビーや、足湯スペース、地元の作家の手による陶芸品を飾ったギャラリーなどがあり、なかなか見応えがある。
土産物コーナーでは、わさび漬けや温泉まんじゅう、伊豆の地酒がずらりと棚に並んでいる。
(レンタカーだし、ここでリサに何か買っていくか)
何かいいものは、ないかと物色する。
目に留まったのは、一本の日本酒だ。ラベルには『楽豊』の文字と、金色の装飾が施されている。近くのPOPには、萬大醸造の純米大吟醸と書かれていた。
「あの、このお酒はどんなお酒ですか?」
棚の整理をしていた売店の店員さんに声をかけると、にこやかな笑顔が返ってくる。
「はい、天城の湧き水を使った、地元でも評判のお酒なんですよ。フルーティーで、お酒が苦手な方でも飲みやすいと人気です」
「いいですね。それじゃあ、これをもらいます」
酒好きのリサのことだ、きっと喜ぶだろう。
続いて、隣の棚に並んでいたわさび漬けのパックにも目をやった。小瓶に詰められた鮮やかな緑色のわさび漬けから、つんとした香りが漂ってくるようだ。
「これも、酒のつまみに良さそうだな」
昼に食べたわさび蕎麦の味を思い出しながら、わさび漬けも一緒にかごへ入れる。
レジで会計を済ませ、紙袋を受け取る。
「喜んでくれるといいが」
少し気恥ずかしさを覚えながらも、満足げに紙袋を提げて、俺は部屋への廊下を戻っていった。
◆◆◆◆◆
部屋に戻ると夕食が運ばれている最中だった。
座卓いっぱいに並べられた料理を前に、思わず声が漏れる。
「おお……」
中央にどんと据えられたのは、金目鯛の煮付けだ。艶やかな赤い皮に、照りのある甘辛い煮汁がたっぷりと絡んでいる。箸を入れると、身がほろりとほどけ、湯気とともに醤油と生姜の香ばしい匂いがふわりと立ちのぼった。
一口頬張ると、脂の乗った身が舌の上でとろけるように崩れていく。甘辛い煮汁が、脂の旨味をぐっと引き立て、噛むほどに濃厚な味わいがあふれ出した。皮の部分はぷるぷるとした食感で、コラーゲン質の旨味が濃い。
続いて、伊豆の山の幸。わさびの茎の醤油漬けに、しいたけの炭火焼き、猪肉の味噌煮込みが小鉢に並んでいる。わさびの茎は、しゃきっとした歯ごたえと、つんとした爽やかな辛味が心地いい箸休めだ。炭火で炙られたしいたけは、香ばしい煙の香りをまとい、噛むとじゅわりと旨味の効いた汁があふれ出す。猪肉の味噌煮込みは、脂身がとろけるほど柔らかく、味噌の深いコクが肉の臭みを優しく包み込んでいた。
そして、締めに蕎麦が用意されていた。昼間食べたものとはまた違う、十割に近いしっかりとしたコシのある蕎麦だ。つゆにくぐらせてすすると、香ばしい蕎麦の風味が鼻に抜けていく。
こうなるとお酒が欲しくなる。仲居さんに勧められた、伊豆の地酒を注文する。
「こちらは、地元の蔵元が天城の湧き水で仕込んだお酒です」
徳利から注がれた酒は、透き通るような淡い色をしていた。鼻を近づけると、ふくよかな吟醸香がふわりと立ち上る。一口含むと、すっきりとした米の旨味が舌に広がり、後味は驚くほど滑らかに消えていった。
金目鯛の甘辛い煮汁を、酒がきれいに洗い流してくれる。猪肉の濃厚な味噌煮込みには、少し温めの燗にしてもらった酒が、脂のコクに負けない深みを添えてくれる。
「このお酒、どの料理にも合うな……」
伊豆の山海の幸を、酒と共に味わい尽くす。気づけば、座卓の上の器は空になっていた。
「ごちそうさまでした」
すっかり満腹になり、大満足だ。
食後、少し休んでから、タオルを片手に大浴場へと向かう。
夜の湯船は、昼間とはまた違った静けさに包まれていた。窓の外は真っ暗で、湯気だけがほのかな明かりに照らされ、ゆらゆらと立ち上っている。
湯船に体を沈めると、じんわりと熱が伝わってきた。
「はぁ……極楽だな」
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