変態満州国経済事情―カリオストロ公爵の野望編―
『やれやれ。やっと昼飯かぁ』
『今日は何にしようかな? やっぱり炒飯かなぁ?』
『悠長なことを言ってる場合か!? 急がないと席が埋まってしまうぞ!?』
1945年1月某日正午。
順天大街は昼食を摂ろうとする官僚たちで埋め尽くされていた。
満州国皇宮の正門から南へ順天大街は延びている。
通り沿いには官庁街が形成されており、大勢の官僚たちが働いていた。
史実では未完成に終わった満州国皇宮であったが、この世界では工期を前倒しして完成していた。満州国皇帝愛新覚羅溥儀は、昨年末に仮宮殿からの引っ越しを済ませたばかりであった。
商魂たくましい商売人たちは、官庁街の官僚目当てに屋台を出店していた。
ランチタイム時にもなれば、空きっ腹を抱えた官僚たちが屋台に殺到してくるのである。
「……いつものやつを」
丸眼鏡をかけた中年男性が屋台で注文する。
如何にも官僚ですと言わんばかりの服装であったが、端々に見せる所作には品の良さが感じられた。
「あいよっ! 鶏精拉麺一丁!」
店主も慣れたもので、注文を聞こうともしなかった。
鍋に湯を入れると袋を開けて麺を投入する。
「へい、お待ちっ!」
数分経たずに熱々のどんぶりが突き出される。
男性はそれを受け取ると、待ってましたとばかりに啜り始める。
(相変わらずゴマ油が良い仕事をしている。鶏ガラとしょうゆの風味の香ばしさが引き立つな)
男は無我夢中で麺を啜り、つゆを飲み干していく。
彼は常連になるほどに、その味をいたく気に入っていた。
「……ご馳走さま」
汁まで残さず完食して、どんぶりを突き返す。
惚れ惚れするような食べっぷりであった。
「また値上げしたのか?」
終始ご機嫌だった男の表情が曇る。
前々回、前回、そして今回。その都度値上がりすれば、文句の一つも言いたくもなろう。
「フーさん、すまねぇ。輸入品の値上がりでうちも苦しいんだ……」
店主とて好き好んで値上げしているわけではない。
しかし、経営体力の低い屋台では輸入品の高騰に耐えられない。泣く泣く値上げせざるを得ない状況であった。
チーロゥリャーメンは日本からの輸入品であった。
ぶっちゃれば、史実のチ〇ンラーメンなのであるが。
この世界の日本においては、1940年にチ〇ンラーメンが発売されていた。
平成会が安藤百福に様々な便宜を図った結果であり、日○食品も史実よりも早期に設立された。
ちなみに、チ〇ンラーメンが輸出されるきっかけは駐日満州国大使館の職員がチ○ンラーメンにベタ惚れしたことであった。
『3食いける』
特に全権大使の李紹庚のお気に入りであり、常々公言していた。
本国に紹介したことで大反響を巻き起こしてしまい、輸出の機運が急速に高まることになった。
『いつでも温かいモノが食べられるアル!』
『炒飯を作るよりもお手軽なのは助かる。国境警備でいざという時も安心だ!』
『シンプルだが、癖の無い味だから具材との相性も良いな!』
基本的に温食しか食べない中国人にとって、お湯だけで食べられるインスタント食品は革命的と言えた。人気が人気を呼び、博多港には大連行きのチキ○ラーメンが山のように積まれていたのである。
「……と、いうことがあったのだが。最近の物価高は酷いと思わぬか?」
首都新京に所在する満州国皇宮。
玉座に座る溥儀は、報告を持って来た張作霖に愚痴をこぼしていた。
「陛下。何度も言っておりますが、お忍びで外出するのはお控えくだされ」
官庁街のフーさんとは仮の姿。
最近の溥儀の趣味に張作霖は頭を悩ませていた。
「屋台に行く度に値上がりしているのだぞ? これはどうみてもおかしい。我が国の経済に深刻な瑕疵があるのではないか?」
数カ月でここまで値上がりすることは普通は有り得ない。
溥儀の密かな楽しみはともかくとして、その指摘には一理あった。
「我が国の国富は主に中継貿易によって成り立っている。この問題を放置することは出来まい?」
「確かにそうですな……」
豊富な鉱産資源に加えて、農業生産も有望。
しかし、満州国の国家歳入の大部分は中継貿易によって為されていた。
物価の上昇はインフレが進行していることを意味する。
インフレは為替レートにも影響を与えてしまう。
実際、満州国の通貨である満洲国圓は切り下げ圧力が強まっていた。
市場からは通貨価値が現状にそぐわないと判断されていたのである。
「国家情報部を動かせ。直ちに原因を調査するのだ」
「御意にござりまする」
国の実権は張作霖の息子張学良国家主席が握っているとはいえ、溥儀の発言力には未だ強いものがあった。侍従長として溥儀に付き従う張作霖の発言力も以下略。
かくして、極めて個人的な理由で情報機関が動くことになった。
しかし、この時点では誰もが事態を楽観視していた。
この一件は満州国の経済混乱の序章に過ぎなかった。
国家情報部は、まったく想定していなかった存在との戦いを強いられることになるのである。
「……まったく、義兄上にも困ったものね」
愛新覺羅顯㺭は、身内の無茶ぶりにため息をついてしまう。
パンツスーツでショートボブな美人が眉を顰める様子は、男性のみならず同性までも虜にしてしまう魔性が感じられた。
顯㺭は溥儀の姪である。
史実では川島芳子として諜報活動に従事し、『男装の麗人』や『東洋のマタ・ハリ』と綽名されていた。
大連に本部を構える国家情報部。
そのトップである情報部長が現在の顯㺭の肩書であった。
この世界の顯㺭は皇女として生きる道もあった。
しかし、彼女は史実と同じ道を選択していた。
『ドーセット公ですか。物凄く良い人です!』
『……思いっきり、私情が入ってないか?』
『わたしの行く道を示してくれた恩人でもあります。彼のおかげで、どれだけ救われたことか』
『おーい?』
その切っ掛けが、当時の駐日英国全権大使テッド・ハーグリーヴスであったことを知る者はごく少数であった。あくまでも切っ掛けであって、実際は平成会が〇塚歌劇団に脚本を売り込んで公演させた演劇が直接の原因なのであるが。
サ〇ラ大戦やベ〇ばら、艦〇れの演劇に顯㺭はどっぷりハマってしまった。
彼女が危険なスパイの世界に身を置いているのは、かっこいい女性を極めるためと言っても決して過言では無い。
(そろそろ服を新調したいわね。次はキ〇グのような用心棒スタイルを作りましょうか)
かっこいい女性を極めるためには、服装は決して無視出来ないファクターとなる。顯㺭が服道楽に目覚めてしまったのも致し方ないことであろう。
(日本でしか作れないのが玉に瑕なのよねぇ……)
納得のいく男装服を作るためには、現状では訪日するしか手段が無い。
彼女の目下の悩みは、男装服が日本でしか作れないことであった。
満州国内のテーラーでも金を積めばやってくれるところも無いわけでは無い。
しかし、着心地と仕上がりは日本の男装専門テーラーが断然上であった。
『部長、実業部の岸という男が面会を求めていますが如何いたしましょう?』
どうにかして日本行きの日程をねじ込まんと、顯㺭はスケジュール調整に躍起となる。そんな彼女の努力を中断したのは1本の内線であった。
「わたしが呼んだのよ。すぐにお通しして」
『了解しました』
内線を切ると顯㺭は居住まいを正す。
程なくして、目の前のドアがノックされた。
「岸大人。このような場所にお呼び立てして申し訳ありませんわ」
「警察よりも怖い組織に呼出を喰らったら出て来ざるをえんだろう。それに今の俺は実業部の嘱託に過ぎん。御大層な呼び方など不要。普通に名前で呼んでくれ」
入室してきたのは元満州国実業部次長の岸信介であった。
史実においては満州国経営で辣腕を振るい、A級戦犯から首相へと上り詰めた。日米安保条約の改定を成し遂げた剛腕と、その特異な政治手法から畏怖と敬意を込めて『昭和の妖怪』と呼ばれていた。
「御冗談を。今の貴方をターレン以外になんと呼べば良いのよ?」
「俺はまだ現役バリバリなんだぞ? 爺さん呼ばわりはされたくないんだよ」
中国語のターレン(大人)は、主に『立派な人物』『師匠』『権力者』『目上の親族』等を指す。岸本人から言わせれば、過ぎた呼び名だという事なのだろう。
「実業部の影の首領をターレン呼びしないことこそあり得ないわよ……」
「何か誤解があるようだが。今の俺はしがない嘱託に過ぎんぜ?」
『嘘つけ!』と口から出かかった言葉を顯㺭は辛うじて飲み込む。
彼女にとって、目の前にいる男は人の形をした化生以外の何物でも無かったのである。
今から18年前の1927年。
当時の関東軍と奉天軍閥の裏取引で満州国の主要ポストは奉天軍閥が占めることになった。
当時、実業部で辣腕を振るっていた岸は問答無用でクビにされた。
彼以外にも優秀な日本人官僚が大勢追放されたのは言うまでも無い。
紆余曲折の末、満州国は正当な国家として存続を認められた。
満州国は完全に奉天軍閥の支配下となり、これには計画に全面的に協力した張作霖もにっこりだったのであるが……。
『税の計算? 適当にやっちゃいかんのか?』
『下級役人どもの言ってることがまったく分からん……』
『あれ? 俺たちの統治スキルって低い? というか、皆無じゃね?』
この段階で主要ポストに座っていた奉天軍閥の者たちは気付いてしまった。
あまりにも自身の能力が不足していたことを。
多少大雑把でもなんとかなった軍閥時代とは異なり、満州国はれっきとした近代国家であった。求められる能力と仕事量は比較することすら出来ない。
『儂は侍従長として陛下にお仕えする。おまえはまぁ、その、頑張れ』
『父上ぇぇぇぇぇぇぇぇ!?』
この事態に張作霖は迷わず現役引退を選択した。
国家主席に就任していた張学良は、仕事を投げ出すわけにもいかずに血反吐を吐くハメになった。
『お願いだ。待遇を保証するから戻って来てくれ!』
『以前の倍……いや、3倍は出す! お願いだから首を縦に振ってくれぇ!?』
『頼む引き受けてくれ。俺を眠らせてくれぇぇぇぇぇっ!?』
無能な後釜が取れる最後の手段。
それは前任者を呼び戻すことであった。
『そんなことを言われてもな。官僚は国籍条項があるし。俺ら日本人だから就業は無理だろ』
『いくら給料良くても、無能な上司に扱き使われるのはなぁ……』
『帰国したらポストは用意されてるし。良い機会だなと』
日本人元官僚たちは日本の省庁からの出向組であり、帰国すれば新たなポストが用意されていた。奉天軍閥の必死過ぎる三顧の礼に対して、彼らが冷ややかな反応だったのも当然と言えよう。
そのような状況ではあったが、満州国に残留してくれる奇特な者も少数ながらも存在した。その数少ない日本人元官僚の一人が岸信介であった。
実業部に舞い戻った岸が組織を掌握するまでに時間はかからなかった。
嘱託の身分でありながらも、実質的なナンバー2の立ち位置を確保。スケープゴートとしてトップを何時でもクビに出来るようにしつつ、自身は実業部内で絶大な権勢を振るっていたのである。
「俺が呼ばれた理由は見当がつく。ここ最近の物価高の原因究明だろう?」
応接ソファに腰を下ろした岸はパイプ煙草に火をつける。
肺一杯に紫煙を吸い込み、天井へ向けて盛大に煙を吐く。
「察しが早くて助かるわ」
顯㺭の言葉と表情は一致していなかった。
室内に充満し始めた煙草の煙と臭いに閉口しつつも、換気扇のスイッチに手を伸ばす。
「物価高の原因として考えられるのはインフレだ。この場合、考えられるインフレ要因は二つ存在する。一つ目は需要が供給を上回った場合だな」
需要が供給を上回る――欲しいけど、どこにも売っていないと言い換えることも出来る。どうしても手に入れたいけど手に入らない。そのような時に人が取る行動は二つに一つとなる。
一つ目の選択肢は、あきらめて次の機会を待つ。
いわゆる一つの普通の選択肢と言える。余程のことが無い限り、普通の人間はこちらを選択するだろう。
二つ目の選択肢は、札束ビンタしてでも手に入れる。
こちらは金持ちや執着心が強い人の選択と言えよう。
では、社会全体で二つ目の選択肢が高まるとどうなるか?
人々の購入欲求が高まり、市場に出回っている商品の供給を上回るとどうなるのか?
その場合は多少高くても欲しいという人が増えるために自然と物価が上昇する。
いわゆるディマンドプル型インフレというやつであり、インフレ含みの経済成長というと大抵はこれを指す。
「二つ目の原因は原材料費の高騰だな。だが、これは除外してもよいだろう。この国の貿易構造は日本とは全く異なるからな」
原材料費の高騰や原油価格の上昇、または為替安による輸入コストの増大でもインフレは発生する。いわゆるコストプッシュ型インフレというやつであり、加工貿易で食っている史実21世紀の日本が直面しているインフレと言える。
「結局、需要と供給のバランスに話が戻るわけだが。ここに来る前に貿易収支や品目の全てに目を通したが、目立った差異は発見出来なかった」
「それじゃあ、お手上げじゃないのよ……」
需要と供給のバランスが問題ならば、過去のデータと付き合わせれば原因が特定出来るはずと岸は考えた。しかし、国際収支バランスや貿易品目その他諸々エトセトラな某大な項目をチェックしても例年通りという答えしか返ってこなかった。
「逆に言えば、貿易品目以外の物品がインフレを誘発していると言えるわけだ」
しかし、岸はここであきらめなかった。
物品の供給過剰以外のインフレ原因を探し始めたのである。
「物品の供給過剰以外で起こりえるインフレ原因……それは、ハイパーインフレーションだ」
ハイパーインフレーション(ハイパーインフレ)は、国家の財政破綻や通貨への信用の低下で異常なスピードで物価が上昇し続ける現象を指す。史実21世紀ではジンバブエドルがその典型例であるが、前年比で数億~数兆%という驚異的なインフレ率を記録したことがある。
その原因は、政府が紙幣を刷り過ぎたことによる需要と供給のバランス崩壊に他ならない。岸は満洲国圓の刷り過ぎが最近の物価高の原因ではないかと疑った。
「だが、満州中央銀行の資料を調べても通貨発行量は例年通りだった」
「それじゃ意味無いじゃない!?」
もったいつけた話し方にイラついたのか、顯㺭の表情が険しくなる。
室内に充満する煙草の煙のせいではないだろう。多分。
「物的な供給過剰ではない、貨幣の供給過剰でもない。さすがの俺もお手上げだったんだが、一つだけ見落としているものがあった」
口からパイプを吸い、鼻から紫煙を盛大に吹き出す。
ラタキアの強烈なスモーキーさにトルコ葉のまろやかなコク。キャベンディッシュとマセドニアンの深い甘みが、岸に至福の時をもたらす。
「ゲホッ、ゲホッ!?」
真正面にいた顯㺭は至近距離からモロに紫煙を喰らうことになった。
バックサイドホルスターの拳銃に手を伸びるのを辛うじて自制する。
顯㺭は煙草が嫌いなわけではない。
当時の女性としては珍しいことであるが、むしろ愛煙家であった。
しかし、彼女にとっての煙草は男装の麗人を気取るための小道具に過ぎない。
それ故に見た目が細く、低タールで軽い煙草を好んでいた。
これに対して、岸はガチな愛煙家であった。
史実では日本パイプクラブ連盟の資料に記録が残されるほどであり、喫煙中の写真も数多く残されていたのである。
「……いやその、すみませんでした。英国産の煙草が手に入って、ちょっと浮かれてました」
岸は土下座していた。
先ほどまでの態度はどこへやら。尊大な態度が嘘のように卑屈になっていた。
「分かれば良いのよ。分かれば」
対する顯㺭は、じつにすっきりとした表情であった。
溜まりに溜まったストレスを大解放したせいであろう。
「「「……」」」
そんな二人の傍らでは、国家情報部のエージェントたちが復旧作業に勤しんでいた。天井に穿たれた多数の弾痕がみるみるうちに目立たなくなっていく。
「話を戻すが、圓の発行量は例年通りだった。圓の発行量は、な」
「含みのある言い方をするわね。圓以外にインフレを加速させる材料なんて……まさかっ!?」
ここで顯㺭は気付いてしまった。
自分の考えが奇跡的に間違っていることを期待して岸を見やる。
「お察しの通りだ。インフレの原因は国内に流通していると思われるドイツ帝国のマルク札だろう」
しかし、奇跡は起こらなかった。
顯㺭の考えを察した岸はにやりと笑う。
スターリングブロック、マルク・元ブロック、ドルブロック、東側ブロック。
この世界は4つ経済ブロックに分割されていた。
満州国と中華民国は、マルク・元ブロックに所属していた。
それ故に、両国内ではドイツ帝国との貿易決済にマルク札が使用されていたのである。
「あれが通報のあった船か」
「そのようです。提供された情報とも一致しています」
「船内では抵抗も予想される。総員、武装を再度点検しておけ!」
夜明け直前の薄闇状態で突入準備を進める沿岸警備隊。
大連港の奥まった場所に停泊する貨物船の周辺は、物々しい雰囲気に包まれていた。
事の発端は、港湾事務所からの通報であった。
金払いは良かったので今まで黙認してきたが、なんらかの犯罪に使われているのではないかと港湾事務所側は危惧し始めていた。
港湾事務所が通報した先は沿岸警備隊であった。
地元警察警察を頼らなかったのは、船上でのトラブルを想定したからに他ならない。
沿岸警備隊が臨検や領海侵犯への実力行使などで練度の高い実働部隊を保有していることが多いのも、通報先に選ばれた理由であろう。実際、満州国沿岸警備隊も腕利きを揃えた実働部隊を保有していた。
史実21世紀における沿岸警備隊は海上の治安に関する業務を扱っているが、位置づけや所掌業務が極めて多彩な組織でもある。歴史も以外と浅く、100年越えの歴史を持つ組織は極一部に過ぎない。
この時代ならば、沿岸警備は海軍の仕事と言っても良い。、
しかし、満州国では早い段階から独立した組織として沿岸警備隊が運営されていた。それは何故か?
その原因は中立国という満州国の立地条件にある。
多国籍で多数の船が出入りする関係上、海軍の片手間ではない専門部署が求められたのである。
「突入っ!」
隊長の号令一下、武装した隊員たちが貨物船に突入する。
迷いのない一糸乱れぬ動きは、よく訓練された部隊であることが分かる。
「誰もいないぞ!?」
「どういうことだ!?」
「一足遅かったか……」
しかし、船内での抵抗は皆無であった。
突入した隊員たちが知る由が無かったのであるが、港湾事務所側に内通者が存在していたために直前で逃亡を許してしまっていた。
「……止むを得ん。犯罪の証拠が残っているかもしれない。手分けして船内を捜索するぞ」
「「「了解っ!」」」
隊長の命令で隊員たちが船内の捜索を開始する。
その様子は未知のダンジョンに挑む冒険者の如しであった。
「これは何だ? 工作機械のようだが……」
「銘板はドイツ語ですね。えーと、自動旋盤ってやつみたいです」
「なんだこれ? 日本語っぽいがよく分からん……」
船内倉庫に到達した隊員たちは大量の工作機械を発見していた。
銘板の大半はドイツ語であったが、日本語らしきものも少数であるが見受けられた。
「ワインだけじゃない。紹興酒もあるぞ!?」
「日本酒や焼酎、泡盛もあるぞ!?」
「なんだこの缶は? 酒らしくないが……9%って、まさかアルコール度数か?」
別の倉庫では、隊員たちが詰め込まれた大量の酒に目を丸くしていた。
大量の樽や酒瓶がこれでもかと詰め込まれた空間は酒蔵の如しであった。
「さ、寒いっ!? なんで船内に巨大な冷蔵庫があるんだよ!?」
「なんて芳醇な香りなんだ……あれが噂の生ハムの原木ってやつか。齧って良いか?」
「「「ダメに決まってんだろ!」」」
別の倉庫では、隊員たちが寒さに震えることになった。
船内のひと区画が丸ごと冷蔵施設になっており、新鮮な食材がこれでもかと詰め込まれた光景はレストランの冷蔵庫の如しであった。
「なんだここ? 図書館かよ」
「なんてこった、これ全部同人誌だぞ!?」
「タイトルは日本語っぽいから、なんとなく意味が分かる。これは見たらアカンやつだぞ……」
別の倉庫では、隊員たちが即座に撤収していた。
その様子は、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりであった。
ちなみに、同人誌のジャンルはロリコンものであった。
内容は近親相姦、凌辱、リョナ、触手、寄生その他諸々エトセトラ。
史実21世紀の日本のHentaiがこれでもかと詰め込まれた同人誌は、この時代の人間には劇薬でしかない。中身を見たらSAN値直葬は確実で、タイトルだけで中身を見ずに撤収した隊員たちは誠に賢明であったと言うべきであろう。
当然と言うべきか、こんなものを描いたのは平成会の同人作家モブたちであった。こういった過激な作品を描くモブたちは、その大半がドーセット送りにされたはずだったのであるが……。
『過激派は滅びぬ! 何度でも蘇るさ!』
『ドーセットに強制移住させられたからって、別に日本に帰れないわけじゃないしなぁ』
『ビザもいらないし、飛行艇で直接行けるのは助かるよなぁ』
この世界の日本と英国はビザ不要でパスポートのみで行き来出来た。
最近はドーセット経由の日英直行便もあるので、日帰りと言わないまでも気軽に帰国することが可能になっていたのである。
「……隊長。航海日誌らしきものが見つかりました」
「ご苦労。ということは、ここが船長室だな」
「まず間違い無いかと」
船内の各所で隊員たちが一喜一憂しているのをよそに、隊長と副官は船長室らしき部屋を探し当てた。カーペットが敷かれて豪華な調度品がふんだんに置かれた室内は、これまで捜索してきた船室とは一線を画していた。
「船名はボルシェビキ……大連とウラジオストクを往復していたのか」
「船名といい、航路といい、まず間違いなくソ連の船でしょう」
満州国は中立国を標榜している。
それ故に、大連港は世界屈指の国際港となった。ソ連の船が入港すること自体は別段おかしなことではない。
「ここ半年の間に10回入港していますね」
「燃料補給と荷下ろしを考慮すると、ウラジオストクからの往復で2週間は必要だろう。異常な回数だな……」
しかし、貨物船『ボルシェビキ』の入港履歴は異常だった。
わずか半年の間ではあったが、定期旅客船の如く入港していたのであるから。
国交の無い国の船が短期間にピストン輸送を繰り返す。
後ろ暗い目的があるのではないかと、港湾事務所側が勘ぐってしまうのも無理も無い話であろう。
「あっ」
なおも船長室の捜索を続ける二人であったが、ここで副官がやらかした。
立てかけられていたアタッシェケースを、うっかり蹴り倒してしまったのである。
「た、隊長!? 札束がぎっしり詰まってます」
「なんだと!?」
倒れたはずみで開いてしまったアタッシェケースには札束が詰まっていた。
二人が目を剥いたのは言うまでも無い。
「これはマルク札ですよね。何故ソ連の船に積まれているのでしょう? しかも、同じようなアタッシェケースがたくさんあるんですけど……」
「猛烈に嫌な予感がするな。この件に関しては箝口令を敷く。誰にも漏らすな」
「りょ、了解です……」
犯罪に関与した疑いがあるという名目でボルシェビキは船ごと接収された。
しかし、大量のアタッシェケースと中身だけは別の場所に行くことになったのである。
「おー、公爵さまだぁ」
「すげーかっこいい!」
「おら、あんなのが空を飛ぶのが不思議でならねぇだよ」
中満国境の貝爾湖畔。
地元民は上空を飛行するオレンジ色の機体――オートジャイロに歓声を上げていた。
オートジャイロは高度を下げながら速度を落とす。
湖面ギリギリまで高度を下げると方向転換、湖上に建てられた城へ機首を向けるとパワーを上げて一気に上昇する。
『ホバリングを維持せよ。誘導を開始する』
地上誘導員が拳を握り両腕を上げる。
城に設置されたヘリポートでは誘導が開始されていた。
『降下着陸に支障なし』
マーシャラーが体の前で両腕を交差する。
機体が良いのか、それともパイロットの腕が良かったのか。とにもかくにも、オートジャイロは無事に着陸することが出来たのである。
「……接収されただと!?」
「すまんのぅ同志。情報が入った段階で船員を逃がすのが精一杯じゃった」
城内を歩く二人の男。
メガネをかけた頭髪フサフサな貴族然とした紳士と、それに付き従う初老の執事姿の男であった。
「というか、同志呼びはやめてくれたまえ。今のわたしはイタリア亡命貴族のカリオストロ公爵なんだぞ」
「その設定気に入っていたのか? あの時は死ぬほど嫌そうだったくせに」
ジト目で公爵を見つめる執事姿の男。
3年前にこの場所を根城にすると決めた際、目の前の男は貴族に扮することを死ぬほど嫌がっていたのであるから。
ラザロ・ド・カリオストロ公爵。
自称亡命イタリア貴族であり、現地では篤志家としても名が知れていた。
今から3年前。
突如やって来たカリオストロ公は、中満国境上のボイル湖上に城を築いた。
遊牧民が立ち寄るだけだったボイル湖畔は、わずか数年で定住出来る街として急速に発展した。城を建築する作業員目当てに店が出来、城が完成したら大規模な雇用が生まれる。それを目当てに店が出来る。
まさに、経済の正のスパイラルとでも言うべき現象がボイル湖畔で発生した。
それが可能な資金力という裏付けがあったことは言うまでも無いことだろう。
「おまえだってその恰好は気に入っているんだろう? スモリアノフ執事長」
「そりゃまぁ、そうじゃが……」
サロモンこと、サロモン・スモリアノフ。
史実では旅券や贋札のニセ作師として国際的に暗躍した男は、どういうわけか似非亡命貴族の執事として収まっていた。
自称亡命イタリア貴族カリオストロ公とスモリアノフ。
二人はソ連書記長ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンの特命を受けて、この地にやって来た。
その目的はドイツ帝国の経済の攪乱であった。
マルク札の偽札を大量に流通させることでドイツ帝国の信用を失墜させて、戦局を優位に進めることを当初は目指していた。
『くっくっく、いやぁ愉快愉快! これが全て丸ごと偽札で買ったものだとはのぅ!』
『偽マルク札をばら撒くのではなく、使うという発想は無かった。さすがは同志スモリアノフだな』
しかし、スモリアノフが作った偽マルク札はあまりにも精巧であった。
戦争遂行のための資金源として利用されるまで、さほど時間はかからなかった。
『……なぁ、儂思ったんだけど』
『なんだ? 同志スモリアノフ』
『兵器の直接買い付けとか出来ないものかのぅ?』
『その発想は無かった……!』
成功に味を占めた二人は、大胆にも満州国から兵器を買い付けることを試みた。
一見すると無謀極まりない発想と言える。しかし、満州国は中立国であるので決して不可能では無い。
満州国は中立を標榜している。
それ故に、ソ連でも商社を介せば取引は出来る。もちろん、先立つものは必要になってくるが。
とはいえ、いかに満州国が中立であろうとも馬鹿正直にソ連の商社にモノを売るとは思えない。そこでワンクッションが必要となる。
最近のドイツ帝国は中華民国に軍艦を発注していた。
造船は労働集約型の産業なので、人件費の安い国で建造したほうが建造費を抑えることが出来る。
ドイツ本国で熟練工の賃金が上昇しているのも状況に拍車をかけていた。
建造トン数は増大の一方であり、中華民国では需要に応えきれず満州国に孫請けさせるケースが増えていた。
『……ここでは主に巡洋艦クラスの艦艇を建造しています。もうすぐドックが空くのでお客様の発注には迅速にお応え出来ますよ!』
『ふむ。今作っているヤツと同じで良い。手付はこれで足りるか?』
『それはもう! 早速ですが具体的な話を詰めさせていただきたい。おい、お二人にコーヒーをご用意しろ!』
中華民国にペーパーカンパニーを作って、満州国の造船所に孫請けを装って発注をかける。この方法で二人は実際に巡洋艦を建造することに成功していた。
もっとも、建造したは良いが回航する手段が無くて困ってしまうことになったのであるが。建造された巡洋艦は、ウラジオストクに回航して技術解析に回された後に浮き砲台と化してしまった。
その他にも偽札を使って、二人はやりたい放題していた。
酒池肉林(物理)をやったり、盛大に偽札をバラまいて感謝されたりエトセトラ。
筆髭のパワハラが及ばない遠い地で好き勝手出来れば、祖国への忠誠心がチリ紙以下になるまで時間はかからない。最近のカリオストロ公は、本名のラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤという名前を捨てて生きていくことを真剣に考えていたのである。
「……しかし、船ごと接収されたのは痛いな。偽札も持っていかれたか」
カリオストロ公は押収されたであろう偽札を惜しんでいた。
本物以上の極めて精巧な偽札は真札と変わらない価値がある。
「なにを落ち込んでおるのじゃ? 原版はこちらにあるのだから、いくらでも刷れるじゃろうに」
「それもそうだな」
額面だけなら駆逐艦を建造出来るだけの金額が押収されたのは痛いが、別段こちらの懐が痛むわけでもない。紙とインクがあれば、いくらでも金は作れるのだから。
「むしろ、酒や食い物のほうが惜しいじゃろ。世界中の美味をかき集めたというのに。もったいない……」
「そっちはどうでもいいが、モブ先生のロリ凌辱同人誌を失ったのは痛い。どうにかして取り戻す必要があるな」
欲望に忠実になった二人は、自分の嗜好品の一時保管庫として貨物船『ボルシェビキ』を私的利用していた。本来の用途は満州国で仕入れたドイツ製の最新工作機械を横流しするためなのであるが……。
「押収された金額が金額だ。しばらくは活動を控えるべきだろうな」
「儂の作品がボンクラどもに見破れるかよ。それこそ通し番号が一致でもせぬ限りはな!」
カリオストロ公の不安をスモリアノフは一蹴する。
彼は自身の作品に絶対の自信を持っていたのである。
「……」
両手で持った新聞紙サイズの紙を無言で見つめるスモリアノフ。
拡大鏡スタンドで細部を隅々までチェックしていったのであるが……。
「……えぇいっ!? ダメじゃダメじゃ! こんなもん使えるかーっ!」
いきなりブチ切れて紙を破ってしまった。
親の仇とでも言わんばかりに細切れにしていく。
「そ、そんな!? 線は完璧だったはずですが!?」
「色合いだって、ぱっと見では分かりませんよ!?」
印刷した用紙を持って来たスモリアノフの弟子は困惑する。
今度こそOKをもらうべく、徹底的に模倣したのであるが。
「貴様らそれでも儂の弟子か!? 紙の手触りやインクの盛り上がり、匂いまで真似んでどうする!?とっととやり直せ!」
師匠の逆鱗に触れた弟子たちは慌てて飛び出していく。
この分だと、今日の彼らは地下工房に籠りきりだろう。
「ふぅ、まったく上手くいかんものじゃな……」
一人残されたスモリアノフは愚痴をこぼしてしまう。
彼の目下の悩みは後身の育成と、新たな偽札の開発であった。
自らが生み出した最高の作品――偽マルク札にスモリアノフは絶対の自信を持っていた。しかし、いつまでもそれが通用すると考えるほどお花畑でも無かった。
(昔は1mm幅に15本は彫れたのに、今では10本がやっとか。年を取るのも考えものだのぅ)
気晴らしで金属板に彫刻刀で線を刻んでみたが、途中で投げ出してしまう。
昔よりも線が彫れないし、集中力も続かない。目もかすむ。
スモリアノフは自らの衰えを自覚していた。
加齢による肉体の衰えが贋作師としての自信をも低下させていたのは間違いないことだろう。
(我が技術が失われるのは世界の損失。なんとしても後世に残さねばならん……)
たとえ贋作作りであっても技術には違いない。
弟子に技術を継承させようとするスモリアノフの姿は職人の鏡と言える。
「手触り触感まで模倣するとなると現状の手法だと限界がある」
「薬品で表面処理したが、再現が到底追い付かないぞ」
「師匠も言ってたけど、これはもう紙質から変えるしか手が無いな……」
城の地下に作られた秘密地下工房。
師匠が後身の育成に思い悩んでいたころ、不肖の弟子たちもまた偽札作りで思い悩んでいた。
『なんじゃこりゃ!? これはもう紙の材料を調達するところから始めないといかんぞ!?』
『同志スモリアノフ。紙幣用の紙を流用するわけにはいかんのか?』
『これはもうそんなレベルじゃない! いったい何の植物を使っているのだ!? しかも、偽造防止のための技術がてんこ盛り過ぎる……くくっ、燃えて来たぞぉ!』
かつて師匠であるスモリアノフが挑戦し、未だに成功していない円札の偽造。
弟子たちは卒業試験として、無茶ぶり案件をぶん投げられていたのである。
(なるほど。そういうことだったのね……)
喧々諤々な弟子たちは周囲への注意が疎かになっていた。
それだけ偽札作りに真剣だったとも言えるのだが。
「……」
地下工房の物陰から姿を現すメイド姿の女性は、愛新覺羅顯㺭であった。
彼女は無人になったのを確認すると、地下工房の調査を開始していた。
この城が疑われた切っ掛けは、不審船から押収したマルク札を鑑定したことであった。当初は真贋判定には引っかからなかったので真札とされたのであるが……。
『は? 通し番号が同じ? そんな馬鹿な!?』
『主任、現実と戦いましょう。誰がどう見ても同じなんですよ……』
『嫌だ―!? これは悪夢だーっ!?』
偶然にも満州中央銀行で保管しているマルク札の真券と同じ通し番号の偽マルク札が出てきてしまった。金融当局者の混乱は察するに余りある。
『奪われただぁ!?』
『も、申し訳ありません。どうも港湾事務所に内通者がいたようで……』
『なんということだ……』
当然ながら船の所有者が調べられたのであるが、肝心の船は捜査中に強奪されてしまった。それでも地道に調査を続けた結果、この城に行きついたというわけである。
それはそれとして、満州国皇帝の姪で国家情報部部長の要職に就く顯㺭が危険な潜入調査をしているのは何故なのか?それには、この城の特殊性が関係していた。
ベリヤ――もとい、ロリコン公爵、いやさ、カリオストロ公の趣味で城内にはメイドが大勢いた。で、あればメイドに変装すれば潜入調査が捗るのは自明の理と言える。
問題は国家情報部に変装が得意な女性エージェントがいなかったことに尽きる。
当の本人が任務に乗り気だったことも大きいが。
実際、メイドとしての着こなしも所作も完璧で一部の隙も無い。
着道楽でスパイとしての活動経験も豊富な顯㺭は、今回の潜入調査に最適な人材であった。
(さっきの連中が言ってたのはこれか。写真を撮っておきましょうか)
顯㺭は小型カメラを取り出すと、円札の原版を撮影する。
他にもフランやドル、リラの原版をフィルムに収めていく。
(偽マルクの原版が欲しかったのだけど、ここには無いようね……)
本命のマルクの原版は地下工房には存在しないようであった。
おそらくは、彼らの言う師匠のところに保管されているのだろう。
是が非でもマルク原版は欲しかったが、無理をしてまで手に入れるつもりは無かった。欲をかいて捕まってしまっては元も子もない。スパイとしての引き際を顯㺭は弁えていた。
(これは……捨てられているみたいね。証拠として回収しておきましょう)
工房の床に放置された金属板。
投げ捨てられたのか、一部変形はしていたが証拠にはなるだろう。
(そういえば、ポンドの原版が無いわね)
引き揚げようとした際に顯㺭は違和感に気付いた。
英国ポンドの偽札が見当たらない。世界最強国家の偽札が存在しないのは、あまりにも不可解に過ぎる。
『まさか史実のベルンハルト作戦をアカどもがやってくるとはな』
『5ポンド紙幣は対策済みであるが、念のため市場からの回収を急ぎましょう』
『それが良いだろう。本物と区別がつかない偽札は厄介極まり無いからな……』
顯㺭が知る由は無かったが、じつはポンド札の偽造は過去に試みられていた。
しかし、史実を知る円卓は偽造防止技術を既に盛り込んでいた。
『ふむ、反応しない……こいつは偽物だ。連れていけ』
『ちょ、おま、なんで!? 完璧なはずなのに!?』
『気付けない時点で貴様の負けなのだよ』
対策済みのポンド札は、磁性インク技術が用いられていた。
しかも、インクの磁気量を単純に測るのではなく情報を読み取ることで真贋判定が行われた。
いわゆる史実の磁気インク文字認識であり、こうなるとコンピュータが無いとどうにもならない。職人の技術が電子戦に敗北した瞬間と言えよう。
しかも、英国は偽造対象となった5ポンド紙幣を回収し始めていた。
流通量が減った5ポンド札を使えば怪しまれてしまう。それ故に、ポンド札の偽造は早々に中止されていたのである。
「こ、こんなことがあっていいのか……!?」
満洲国皇宮に隣接する国家主席官邸。
国家情報部長の愛新覺羅顯㺭から報告を受けた張学良国家主席は頭を抱えていた。
「たまたま通し番号が一致しなければ、件のマルク札は疑われることなく真券として流通していたでしょう」
「我が国に大量の偽マルク札が堂々と流通している可能性があるのか。これは由々しき事態だぞ!?」
満州国では貿易決済用にマルク札が流通していた。
一部店舗では満洲国圓とマルク札の併用すら可能であった。
そのような状況で、マルク札が偽物だから使うなと言えるわけがない。
口にした瞬間、満州国の経済は深刻な不況に陥ることであろう。
「問題はそれだけではありません。これを」
顯㺭は潜入調査で撮影した写真をデスクに置く。
写真には、ドル、フラン、リラなど列強国の紙幣の原版が映っていた。
「……これも偽札だと言うのか」
「まだ本格的に刷ってはいないようですけどね」
これらの紙幣の原版は、顯㺭が潜入調査した時点では試し刷りの段階であった。
細かいチェックを通過した後に本格的な印刷が始まる。いずれにせよ時間の問題であろう。
「わたしとしては国軍を動員しての破壊を提案します。アレは満州国のみならず、世界の経済に害を与えるでしょう」
単独潜入による破壊活動には限度というものがある。
顯㺭が地下工房の原版と印刷機を破壊しなかったのは、こうなることを見越してのものであった。
印刷機を壊して原版を破棄すれば偽札作りは止まるかもしれない。
しかし、半端に壊しては敵に逃げる時間を与えてしまう。
これを回避するには、国軍を動員して一気呵成に潰すしか手段は無い。
可能ならば、航空隊を使って爆撃して更地にしてしまうのが望ましいだろう。
「まずはドイツにこのことを報告する。例の偽札を提出して真贋判定可能かを確認してもらう。中華民国とも協議が必要だろう」
「そんな悠長な!?」
しかし、張学良は現時点での破壊には否定的であった。
顯㺭が声を荒げたのは言うまでも無い。
「現時点で偽札工場を潰すことは容易い。しかし、現時点でそれをやると我が国だけの責任問題にされかねん」
「あ……」
張学良が何を恐れているのかを顯㺭は察した。
この事案は既に高度な政治問題と化していたのである。
本物と区別がつかない偽マルク札が流通していることが世界に知られようものなら、ドイツ帝国のメンツを潰すことは確実。代替わりしたヴィルヘルム3世が責任転嫁してくるのは目に見えていた。
満州国よりもドイツ帝国べったりな中華民国も同様であろう。
蒋介石総統が、ここぞとばかりに満州国に責任転嫁してくるのは以下略。
最悪の場合、満州国だけが悪役にされかねない。
両国から莫大な損害賠償を求められる可能性すらある。
そのような状況で安易に偽札工場を破壊出来るわけがない。
張学良も苦渋の決断だったのである。
「……ドイツ帝国銀行からの鑑定結果が届きました」
「それで、あちらからは何と言ってきた?」
3か月後。
はるばるドイツ帝国まで送られた偽マルク札の鑑定結果が届いていた。
「その、結果なのですが……」
目の前の女傑が珍しく言いよどむ。
その様子に張学良は嫌な予感を禁じ得ない。
「……まごうこと無き本物だそうです」
「はぁ?」
思わずバカ面となった張学良を責める者はいないだろう。
あまりにもあり得ない結果だったのであるから。
「通し番号が同じヤツを送ったんだよな?」
「はい。きちんと説明もしています」
満州国中央銀行で保管されていたマルク札。
貨物船から発見された同じ通し番号のマルク札。
これら二つをドイツ帝国銀行に鑑定に出した結果、二つとも本物と鑑定された。
二人とも鑑定結果に呆れかえってしまったのは言うまでも無い。
「一応、鑑定結果を読み上げます。二つの札は帝国銀行の造幣局で印刷されたことは間違いない。通し番号印刷のエラーであろう……だ、そうです」
ドイツ帝国銀行のスタッフが手抜き仕事をしたわけではない。
むしろ、事情を知った彼らは普段よりも厳正なチェックを行っていた。
しかし、極めて厳正かつ多重なチェックを偽マルク札はパスしてしまった。
こうなると銀行側も真券と認めざるを得なかったのである。
「……くっくっく、ふはははは……はぁーはっはっはっは!」
「か、閣下!?」
突然、馬鹿笑いを始めた張学良に顯㺭は仰天した。
ストレスでついに狂ってしまったのかと、半ば哀れみの視線を送るのも忘れない。
「喜べ情報部長! これで君の願い通り遠慮なくぶっ壊せるぞ!」
「えっ、それはどういう……」
唐突過ぎて理解が追い付かない。
しかし、張学良は止まらないし止められない。
「頭を使え! ドイツ本国が真券と認めたということは、偽マルク札は全て真券扱いして良いということだ!」
「あっ……!」
ここでようやく顯㺭にも合点がいった。
件の偽マルク札をドイツ帝国が真券と認めたことは、満州国が偽札作りの加担したという謗りから逃れられることでもある。なんといっても、本物なのだから批判されるいわれは何処にも無い。
「あとは事情を知る者を消すだけだ。全軍の指揮権をやるから遠慮無くやってくれたまえ」
「了解です!」
三日後。
中満国境のボイル湖畔は猛烈な空爆に晒されることになった。
空は国中からかき集めた爆撃機が覆い隠し。
周辺は陸軍が完全包囲して、ネズミ一匹逃げる隙も無い。
一昼夜かけて行われた空爆と砲撃によって、城と城下町は完全に消滅した。
その様子はまさに砂上の楼閣であった。
こうして、皇帝の気紛れから始まった一連の偽マルク札事件は終結することになった。偽札工場が文字通り消滅したことにより、ハイパーインフレは終息していくことになる。
『偽マルク札の原版が見つからないのはどういうこと!?』
『単に地中深くに沈んだだけかもしれません。あまりにも徹底的に空爆したせいで例の城は完全に土砂に埋まってしまいましたし……』
完全消滅を確認した後に陸軍による徹底的な調査が行われた。
しかし、偽マルクの原版は発見出来なかった。
『部長、もう一つ気になる点があります。あれだけの攻撃をしたのに、住民たちの遺体が出てきません』
『なんですって!?』
さらに不可解な点は、住民と思われる遺体を発見出来ていないことであった。
国軍の集結は深夜、攻撃は早朝から行われた。住民が気付いて避難する時間があるはずがない。
『これは組織内の掃除が必要ね』
『そう思います。例の偽マルク札に心を動かされた人間が多かったということでしょう』
『金は魔物とは、よく言ったものね……』
事件の首謀者も偽マルク札の原版も行方不明とあっては、何も解決していないのと同義であろう。国家情報部は引き続き事件を調査すると共に、買収された人間の摘発に乗り出すことになる。
『偽マルク札はほとぼりが冷めるまで使えんな』
『しかし、円は未だに偽造出来ん。不肖の弟子たちが頑張ってはおるが』
『ふむ、気晴らしに難易度の低いのを作ってみるか? 小遣い稼ぎにはなるだろう』
『どうせならば暖かいところに行かんか? 老体には寒さは堪えるのでな』
実際、このような会話が何処かの船上で繰り広げられていたとかいないとか。
偽札事件の首謀者ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤと、サロモン・スモリアノフの行先を知る者は現時点では誰もいなかったのである。
史実のベルンハルト作戦が満州国で炸裂しちゃいました。
発行元が見分けられない偽札なんて、そりゃ本物扱いするしかないんですよねぇ(;^ω^)
自援SS『変態日本両替事情―コミケで硬貨が無いとやってられないだろ編―』で登場したスターリンの側近はベリヤでした。いやまぁ、後付けなんですけどね。ロリコンということで、あんな役どころになってしまいましたw
>通り沿いには官庁街が形成されており、大勢の官僚たちが働いていた。
史実では未完成に終わった満州皇宮ですが、宮殿の門から真っすぐ大通りが延びていました。計画ではそこに官庁街を建設する予定だったので、そのまま採用しています。
>鶏精拉麺
チキンラーメンの中国語読みです。
現地で売ってるチキンラーメンは日本のものとは別物なのですが、この世界では日本のモノを直輸入しています。
>男性はそれを受け取ると、嬉しそうに啜り始める。
最後の皇帝溥儀が最後に食べたいものはチキンラーメンでした。
後年、それを知った安藤百福は北京の故宮の王座にチキンラーメンをお供えしています。
>日○食品も史実よりも早期に設立されていた。
本編第111話『日英同盟を履行するということ』参照。
インスタントラーメンが食べたいがためだけに、平成会が安藤百福に便宜をはかっていたりします。
>満洲国圓
当時の満州国で流通していた通貨です。
>切り下げ圧力が強まっていた。
変動相場制なら市場原理で上下するのですが、固定だとそうもいかないのです。
史実でも変動相場制に移行する前はスミソニアン協定とかプラザ合意とかで相場を調整していました。
>しかし、着心地と仕上がりは日本の男装専門テーラーが断然上であった。
この世界だと、タカラジェンヌ向けのテーラーがあるので男装バッチコイです。
ちなみに、女性が店主であることが多いです。
>元満州国実業部次長の岸信介であった。
戦前戦後を扱う書籍や漫画で出番がやたらと多い人。
戦前は優秀な官僚、戦後は大物政治家。そりゃあ出番も多くなるってもんですよ……(;´∀`)
>当時の関東軍と奉天軍閥の裏取引により、満州国の主要ポストは奉天軍閥が占めることになった。
本編第63話『テッド・ハーグリーヴス暗躍』参照。
石原莞爾とか永田鉄山とか、本編ではとっくに過去の人になってるなぁ。
>英国産の煙草が手に入って、ちょっと浮かれてました
ダンヒルのイングリッシュミクスチャーは世界中の愛煙家を魅了した銘柄なので、キッシーが浮かれるのも止む無しですねw
>天井に穿たれた多数の弾痕がみるみるうちに目立たなくなっていく。
さすがに本人に向けてぶっ放しはしませんでした。
代わりに天井が犠牲になりましたけどw
>「なんだこの缶は? 酒らしくないが……9%って、まさかアルコール度数か?」
本編第115話『ドナウ連邦構想』参照。
スターリンが調子こいて一気に4本空けたストゼロの輸入ルートだったりします。
>内容は近親相姦、凌辱、リョナ、触手、寄生その他諸々エトセトラ。
前にも書いたけど、史実21世紀のエログロなロリ同人誌をこの時代に見せつけたらヤバいですよね。ロリコンでサイコパスで性的暴行を繰り広げた性格破綻者に見せたら特攻でしょう。
>最近はドーセット経由の日英直行便もあるので、
本編第85話『後藤総理倒れる』参照
元々はテッド君を緊急ピックアップするためのルートだったのですが、ロンドン近郊からの客の要望を受けて正式な航路となりました。おかげでドーセット領に住んでいる日本人は気軽に日本に帰れるように。旅費は死ぬほど高いですけどね。
>「船名はボルシェビキ……大連とウラジオストクを往復していたのか」
この船名を聞いてピンと来る人は相当なツウでしょう。
伝説となった宗谷の姉妹船です。ソ連からの注文で3隻建造されたのですが、3隻とも日本で活躍しています。宗谷以外は全部戦没してますけどね(ノ∀`)
>オレンジ色の機体――オートジャイロに歓声を上げていた。
平成飛行機のモブ技術者が細部の再現に拘っています。
おかげで実用性が皆無になりました(爆
>メガネをかけた頭髪フサフサな貴族然とした紳士
ベリヤの写真を見れば分かりますけど、頭頂部全滅ハゲなんですよね。
さすがにウィッグでも厳しいんじゃないかなぁ?と思ったけど、頭頂部ハゲ用ウィッグなんてものがありました。凄いや日本(; ・`д・´)
>ラザロ・ド・カリオストロ公爵。
オリジナルはラザールでしたが、こちらはフランス語圏の名前とのこと。
だったらイタリア風にしたれということでラザロにしています。
>サロモンこと、サロモン・スモリアノフ。
史実ではベルンハルト作戦の重要人物として有名。
この世界でも同じようなことを、より大規模にやらかしています。
>ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ
上の方でもちょいと書いてますけど、史実ではスターリン以上の害悪として書かれることが多い人。だからこそ、平成会元過激派謹製の同人誌にツボったとも言えますが。この世界のベリヤはきれいなベリヤなのですw
>「儂の作品がボンクラどもに見破れるかよ。それこそ通し番号が一致でもせぬ限りはな!」
はいはいフラグ乙。
>昔は1mm幅に15本は彫れたのに
日本の国立印刷局の工芸官は1mm幅に十数本の線が刻めるそうです。
この世界のスモリアノフの腕は間違いなく超一流でしょう。ちなみに、ゴルゴ13にもこの手のネタがあったりします。
>城の地下に作られた秘密地下工房。
某カリオストロの地下工房のそのまんまです。
教会はありませんけどねw
>満洲国皇宮に隣接する国家主席官邸。
史実の満州国皇宮の敷地に隣接して国務総理官邸が建てられていました。
この世界の満州国の最高権力者は国家主席なので、それに準じて変更しています。




