第九話 恋塚真一
恋塚家は、丹野瀬町の西側にある。二階建ての建売住宅で、庭の隅に物置と、その脇に小屋が一つ建っている。
その日の夜、真一は自室の机に向かっていた。
机の上に、写真立てがある。
四人が写っている。真一と、彩香と、真と、彩。撮ったのは三年前、彩の三歳の誕生日だ。ケーキの前で彩が半泣きになっていて、真がそれを見て笑っていて、彩香が両手で彩の頬をはさんでいる。真一だけが、いつも通りの顔で立っている。
真一はその写真を見ていた。
人差し指で、写真立ての縁をなぞる。一周して、二周目の途中で止めた。
ノックの音がした。
「お父さん」
扉が細く開いて、真が顔を覗かせた。八歳になる長男だ。パジャマ姿で、片手で瞼を擦っている。
「まだ、起きていたのか」
「……お父さん、今日もいくの?」
真一は写真から目を離し、立ち上がった。
真の前まで歩き、膝を折って目線を合わせる。小さな子供と話すときは見下ろさないほうがいいと、彩香が言っていた。
「嗚呼」
真は何も言わなかった。
「真」
真一は、真の肩に手を置いた。
「父さんにもしものことがあったときは、彩のことを頼む」
真の目が、はっきりと開いた。
「うん……わかった」
しっかりした返事だった。
「でも、お父さん」
真は続けた。
「絶対、帰ってきて」
真一の口が開いた。
そのまま、しばらく閉じなかった。
「嗚呼。必ず帰る」
真一は言った。
「そして、また家族四人で暮らそう」
真の表情は緩まなかった。
「約束。絶対だから」
小さな声だった。
「破ったら、許さないから」
「――嗚呼。約束だ」
真一は真の頭に手を置いた。柔らかい髪だった。彩香の髪質を、この子は継いでいる。
「遅い。もう寝なさい」
真は頷き、自室のほうへ歩いていった。
◇
家を出る前に、真一は子供部屋の扉を半分だけ開けた。
彩が眠っていた。六歳の娘は掛け布団を蹴り飛ばし、うつ伏せで、腕を投げ出している。
真一は布団をかけ直した。
かけ直してから、そのまましばらく立っていた。それから扉を閉め、廊下の明かりを消した。
玄関で靴を履き、裏手に回る。
小屋の中に、鳥籠がいくつか並んでいる。中で鴉が身じろぎした。
この鴉たちを飼い始めたのは、聖炎聖戦の報せが届いた直後だった。真が「カラスさん飼うの」と目を丸くしていたのを覚えている。
真一は籠を開けた。
数羽が羽ばたき、夜の中へ散っていく。真一が指を鳴らすと、鴉たちは高度を落とし、そのあとを追って飛び始めた。
真一は門を出た。
二歩進んだところで、足が止まった。
真一は振り返り、二階の窓を見た。彩の部屋の窓も、真の部屋の窓も、明かりは消えている。
それだけ確かめて、真一は歩き出した。
◇
墓地に着いたのは、日付が変わる三時間ほど前だった。
真一は鴉を一羽ずつ、傾いた墓石の陰や枝の上に配置していった。位置を測り、距離を測り、視線が通る角度を確認する。
最後の一羽を樹上に留めて、真一は息をついた。
白い息が、夜に散っていく。
胸元に手が伸びた。シャツの下からロケットを引き出し、開く。
◇
「あの、恋塚くん」
声をかけられたのは、高校一年の秋だった。
放課後の教室で、真一は顔を上げた。目の前に女子生徒が立っていた。胸に問題集を抱えている。表紙は擦り切れていて、付箋が何枚も飛び出していた。
真一は、その顔に見覚えがなかった。
いや――見覚えはある。どこかで見ている。この教室で見ている。
「……すまない。名前を」
「あっ、えっと、佐藤です。佐藤彩香です」
真一は座席表を思い出した。
窓際から二列目、前から三番目。半年間、そこにいた。毎日いた。真一は学級委員として、この教室の全員の名前を書類に書いてきたはずだった。
「――佐藤。何か用か」
「その、勉強を教えてもらえないかなって」
彩香は問題集を差し出した。開かれたページは、真一が半月前に終えた範囲だった。
「構わない」
真一はそう答えた。
◇
二年の秋、図書室でのことだった。
窓際の席で、真一は一枚の紙を前に手を止めていた。進路希望調査票。全ての欄が、空白のままだった。
向かいの席で、彩香が顔を上げた。
「決まらないの?」
「決まらん」
やりたいことがない、というのとは違う。やれることは多い。成績も足りている。ただ、どれを選ぶ理由も、選ばない理由も、同じ重さでしかなかった。
彩香はしばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「真一くん、先生になったら?」
真一は顔を上げた。
「何故」
「だって、教えるの上手だもん」
彩香は自分の問題集を指で叩いた。
「わたし、ほんと頭悪いのに。真一くんの説明だけは、わかるの。なんでかわかんないけど、わかるの」
真一は答えなかった。
彩香は、真一の手元からペンを取った。
そして、空白の欄に書き込んだ。
――教育学部。
字は下手だった。線が震えていて、「教」の形が崩れていた。
「あっ」
彩香が固まった。
「……ごめん、勝手に。消せるやつだから、消して」
真一は、その欄を見ていた。
それから、ペンを受け取り、キャップを閉めた。
「いや」
真一は言った。
「これでいい」
◇
彩香が倒れたという連絡が入ったのは、二年前の冬、勤務中のことだった。
病名を聞かされたとき、医師はすでに手の打ちようがないという言い方をしていた。進行性の病だった。見つかった時点で、残された時間はほとんどなかった。
見舞いに行くたび、彩香は痩せていった。
最初の週は起き上がって笑っていた。次の週は立ち上がるのに時間がかかった。その次の週には、子供たちの話をするだけで息が上がった。
別れの日は、春になる少し前に来た。
葬儀が終わり、あらゆる手続きが終わり、家に人が来なくなった頃、真一は彼女の遺品を整理していた。
化粧台の、一番下の引き出し。
奥のほうから、一冊の手帳が出てきた。
薬の名前が並んでいた。日付も並んでいた。
真一はそれを、最初のページから確かめた。
一年ほど前から始まっていた。
その一年、彩香は毎朝真一を送り出し、真の宿題を見て、彩を風呂に入れ、夕食を作っていた。真一が残業で遅くなった日には、起きて待っていた。疲れているのかと聞けば、そうでもないと笑った。
一度だけ、階段で立ち止まっているのを見たことがある。
どうした、と真一は聞いた。彩香は「ちょっと眩暈」と答えた。真一は「無理はするな」と言って、それで終わりにした。
真一は手帳を閉じた。
閉じた手が、表紙の上に置かれたまま動かなかった。
半年間、同じ教室にいた少女に気付かなかった。
同じ家で暮らしていた妻にも、気付かなかった。
◇
風が鳴っている。
真一はロケットを閉じ、シャツの中にしまい直した。
鴉が一羽、樹の上で羽を動かした。
真一は転位の鎌を実体化させた。手に馴染んだ重さが戻ってくる。
自分がここでしていることは、正しくない。他人の願いを踏み潰して自分の願いを通そうとしている。それを正義だと言うつもりは、一度もなかった。
だから、せめて。
奪う相手に、敬意を払う。責任を引き受ける。自分の命と願いも、同じだけ懸ける。
それだけが、真一にできる唯一の誠実さだった。
真一は腕時計に目を落とした。
日付が変わるまで、あと二時間ほどある。
子供たちが眠っているうちには帰れるだろう。




