第八話 さようなら
刃が激突した。
月渚は分身を前衛に置いた。二体で圧をかけ、自分は側面から一撃を入れて即座に退く。踏み込む、薙ぐ、退く。踏み込む、突く、退く。
真一は分身の攻撃を捌きながら、月渚の一撃離脱に的確に対応してくる。
そして――視界が変わった。
月渚の位置と、真一の位置が入れ替わっていた。
目の前に、分身が二体。その刃が、月渚自身に向かって振り下ろされている。
月渚は反射的に分身を消した。
刃が消え、空を切る感触だけが残る。
月渚は距離を取り、分身を二体出した。呼吸を整えながら、真一の足元と、鴉のいる方向と、さっきまで自分がいた位置を順に見た。
一度目。墓石の裏にいた自分が、突然前に引き出された。あのとき、鴉が自分のいた場所にいた。
二度目。自分と先生の位置が入れ替わった。
ただの瞬間移動ではない。入れ替わりだ。
(生き物の、位置を入れ替える力)
そして、先生は一度も分身の位置を動かしていない。二度目のとき、分身ではなく本物と入れ替わった。分身を対象にできるのなら、もっと便利な使い方があったはずだ。
分身で身を隠しても、この人には本物がどこにいるかがわかる。
それから、範囲。墓石の裏に隠れたときは引き出された。茂みに逃げ込んだときは、引き出されなかった。
(――有効範囲がある)
だが、正確な距離はわからない。わからない以上、安全な間合いを保つという選択は取れない。ここだと思った位置が範囲内だったら、それで終わりだ。
月渚は息を吐いた。
(それなら――近づくしかない)
分身を消した。
真一が目をわずかに細めるのが見えた。
月渚は踏み込んだ。
◇
純粋な打ち合いになった。
そして、それは月渚の領域だった。
薙刀で培った間合いの感覚。柄の長さを最大限に使う踏み込み。刃を返す速さ。石突きを使った崩し。
真一の鎌は重く、堅実で、隙が少ない。だが、速さでは月渚が上回っていた。
打ち込む。弾かれる。返す。掠める。真一の頬に細い線が走った。
月渚が踏み込む。
その瞬間、視界が飛んだ。
真一と月渚の位置が入れ替わり、月渚は真一の背後に立たされていた。好機に見えて、それは罠だった。真一は初めから振り向きざまの一撃を用意している。
月渚は柄で受け、後ろに跳んだ。
次は、真一と鴉が入れ替わった。
月渚の刃が捉えたのは、驚いて飛び立つ鴉だった。真一は数メートル離れた墓石の脇にいた。
決定打が、入らない。
月渚はあえて隙を作った。大振りをして、胴をわざと空ける。真一が踏み込んでくる。カウンターを合わせる――が、その瞬間には真一は鴉と入れ替わって数メートル先にいた。
月渚の呼吸が乱れてきた。
腕が重い。膝が笑い始めている。
「――長引かせるつもりはない」
打ち合いの合間に、真一が言った。
「君も、そのほうがいいだろう」
月渚は答えなかった。
月渚の視線が、真一の胸元へ動いた。ロケットの輪郭が浮いている。
月渚の足が、半歩下がった。
鎌を持つ手に、汗が滲んでいる。月渚はそれを制服の腿で拭った。拭ってから、もう一度ロケットを見た。
月渚の目が、閉じた。
そこには職員室で見た写真があった。長く綺麗な黒髪。穏やかな目元。細部まで覚えている。
月渚の奥歯が鳴った。
鳴らしたまま目を開き、構えた。
◇
真一が踏み込んできた。
幻想の鎌と転位の鎌が噛み合い、火花が散る。
鍔迫り合いの一瞬。
月渚は、重心を右に傾けた。
ほんのわずか。けれど確実に、この人なら見逃さない隙。
真一の目が動いた。
鎌が引かれ、振り上げられる。正確に、迷いなく、最短の軌道で。
その刹那。
月渚は、真一の視界の端に――彼女を、現し出した。
真一の動きが、止まった。
振り上げられた腕が、空中で静止する。目が見開かれ、瞳がそちらへ動く。
ほんの半秒。
月渚は、踏み込んでいた。
幻想の鎌が、真一の胴を斜めに裂いた。
◇
転位の鎌が、地面に落ちた。
乾いた音がして、それきり動かなくなった。
真一が、ゆっくりと膝をついた。
月渚は鎌を握ったまま立っていた。刃の先が細かく揺れている。
真一が顔を上げた。月渚の顔を見て、それから何もない空間を見た。
「……なるほど」
苦しげに息をつく。
「君が生み出すのは、分身だけではなかった、ということか」
月渚は答えなかった。唇を噛んでいた。
「利用したな」
責める響きは、なかった。真一の口元が、わずかに緩んでいた。
「いい判断だ。私なら、必ず見る」
「……ッ」
月渚の喉から、意味をなさない音が漏れた。
真一は自分の胸に手を当て、深く息を吸った。呼吸のたびに、傷口から血が溢れる。
「月見里」
「……はい」
「頼みが……ある」
真一は言った。
「もう一度、彩香に逢わせてくれないか」
月渚が顔を上げた。
「たとえそれが、君が魅せる泡沫の夢だとしても。――伝えたいことがある」
月渚は頷いた。
鎌を握る手に、力を込める。
思い浮かべる。ロケットの中の写真。長く綺麗な黒髪。穏やかな目元。
空気が揺れ、彼女が現れた。
彩香は膝をついた真一の前に立ち、静かにこちらを見ていた。写真のままの表情で、写真のままの角度で、何も言わずに。
真一はしばらく、その顔を見上げていた。
喉が動いた。一度、二度。
「彩香。――君を、愛している」
声は掠れていた。
彩香は何も答えなかった。答えられるはずがなかった。それは月渚が作った幻想で、中身は何もない、ただの像だ。
真一の目尻が下がった。口の端が上がる。
やがて真一は、月渚のほうへ向き直った。
「月見里」
「……はい」
「――」
真一は口を開きかけた。
そして、閉じた。
数秒の沈黙のあと、真一は別のことを言った。
「申し訳なく思うことはない」
月渚の視界が、歪んだ。
「君が全力で戦い、得た勝利だ。誇っていい」
「……っ、……せんせい」
月渚は手の甲を目に当てた。当てても、頬を伝って落ちるものが止まらなかった。
真一は、左の手首に目を落とした。
腕時計の文字盤を、数秒だけ見ていた。
それから手首を下ろし、自らわずかに身を起こして、胸を差し出すようにした。
「さぁ、とどめを刺しなさい」
月渚は鎌を構えた。
構えてから、一度だけ、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました。さようなら、恋塚先生」
真一は目を閉じた。
「嗚呼、さようなら。――ありがとう、月見里」
月渚は幻想の鎌を振り下ろした。
◇
真一の身体から、淡い光が立ち昇った。
月渚は手を差し伸べた。継承された記憶が、やり方を教えてくれる。手のひらの上に魂の檻が現れ、光はその中へ収まった。
地面には、契約者を失った転位の鎌が転がっている。その傍らに、もう一つ、檻があった。
真一の檻だった。
月渚はそれを拾い上げた。中に、光が一つある。
継承された記憶は、この檻がもう何も繋ぎ止めていないことも教えていた。契約者を失えば、幽閉する力は消える。
月渚は檻の格子に指をかけた。
軽い抵抗すらなかった。扉は音もなく開き、光は待っていたように外へ出た。
月渚は自分の檻を近づけた。光はそちらへ流れ、二つ目の灯りになった。
空になった檻が、手の中で崩れて消えた。
月渚は檻を、両手で包むように持った。
しばらく、そうしていた。
携帯電話が鳴った。
月渚はのろのろと取り出した。表示されている番号に、心当たりはない。
『――もしもし』
万の声だった。
『おめでとう。君の初勝利だ。大したものだ』
月渚は何も言わなかった。
『事後処理はこちらで行う。君はもう、帰っていい』
通話が切れた。
◇
墓地は静かだった。
風が木々を鳴らしている。傾いた墓石が、変わらずそこに立っている。
月渚はその場に立っていた。
右手に鎌がある。左手に檻がある。中には、二つの灯りがある。
月渚は檻を見た。それから真一の倒れているほうを見た。もう一度、檻を見た。
月渚はその場にしゃがみ込んだ。膝を抱えるでもなく、ただしゃがんだまま、地面の一点を見ていた。
長い時間が経った。
月渚は立ち上がり、真一の傍らへ歩いた。
鎌と檻を霊体化させ、膝をつき両手を合わせる。ゆっくりと目を閉じる。
やがて月渚は、墓地を出た。
帰り道の空に、月が出ていた。




