第七話 震えたまま
月渚は下がった。
真一が踏み込んでくるのと同時に、不出来な分身を二体、目の前に現し出す。輪郭は歪み、顔も曖昧な、ただ人の形をしただけのものだ。
その隙に、転がるようにして墓石の裏に身を隠した。
背後で分身が蹴散らされる感触があった。
月渚は膝を抱えた。石の冷たさが制服越しに伝わってくる。
真一の足音が、ゆっくりと墓地を巡り始めた。
やがて、その足音が止まる。
かわりに、羽音が聞こえた。
「転位」
――世界が、変わった。
視界が飛んだ。墓石の裏の暗がりが消え、開けた場所の真ん中に、月渚は立っていた。
目の前に真一がいる。足元には、鎌が地面に突き立てられている。
そして、さっきまで自分がいた墓石の裏で、一羽の鴉が羽ばたいた。
鎌が振り下ろされる。
月渚は反射で柄を掲げた。防げた。だが足が地についていない。衝撃をまともに受けて、身体が後方へ飛んだ。
地面を二度、三度転がる。
真一が迫ってくる。
膝立ちのまま鎌を振るって、迫る刃を受けた。腕が痺れる。次、次、次。防ぐだけで精一杯だった。
月渚は不出来な分身を二体、あいだに割り込ませた。
真一の視線が一瞬、遮られる。
その一瞬で、月渚は跳んだ。
背を向けて走り、墓地の端の茂みに頭から飛び込んだ。
羽音。真一がまた鴉を呼んでいる。
月渚は身体を丸め、葉の下に潜り込んだ。
――こない。
位置は、変わらなかった。
月渚は口を手で覆った。指の隙間から息が漏れる。
真一の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
「――何故、反撃しない」
声が、茂みの向こうから響いた。
「君も、大切な人を想って戦っているのだろう」
月渚は答えなかった。
膝を抱える腕に、力が入っていく。額を膝に押し付ける。肩が上下している。
あの夜と同じだった。公園の樹の陰で、膝を抱えて、音が止むのを待っていた。そのあいだに陽奈は死んだ。二度と同じことはしないと決めたはずだった。
それなのに、また隠れている。
違うのは、今度は自分が誰かを殺せる側にいるということだ。殺せる側にいて、殺せずにいる。
この人を斬れば、この人の命は、願いは消える。消すのは自分だ。誰のせいにもできない。
目の前が滲んだ。膝にかかった前髪の先から、水が落ちた。
「恋塚先生を、殺すことなんて……」
声が出ていた。
「わたしには、できません」
月渚は両手で口を押さえた。
◇
足音が止まった。
茂みのすぐ向こうで、真一が立ち止まる気配があった。
「――教師としてでも、代行者としてでもなく」
声の調子が変わっていた。
「一人の人間として、君に伝えよう」
月渚は膝に顔を埋めたまま動かない。
「自らの願いを叶えるとは、ときに、誰かの願いを踏みにじることでもある。今がまさに、その状況だ。そしてこの聖炎聖戦では、願いだけでなく命も奪う」
教室で数式の意味を説明するときと、ほとんど変わらない声だった。
「私は、自らの願いのために誰かの命や願いを奪うことを、肯定するつもりはない。それは決して正しいことではない」
少し間があった。
「だが、現実は非情だ。そうしなければ、何も得られない」
風が木々を鳴らした。
「だから私は、奪う命と願いに最大限の敬意と責任を持つ。そして、自分の命と願いを懸けてここにいる」
月渚が息を呑んだ。
「君は、違うのか?」
真一が問う。
「君の、天之宮への想いは、偽りなのか?」
月渚の背中が、わずかに伸びた。
「君は」
声は続いた。
「奪う命と願いへの敬意や責任から逃れるためなら、天之宮を諦めるのか?」
月渚の指が、地面を握り締め、抉った。
「もし、そうだと言うのなら」
声が、少しだけ低くなった。
「そこで、私に殺されるのをじっと待っていなさい」
金属が土に刺さる音がした。真一が鎌を地面に突き立てたのだ。
「そうでないのなら――覚悟を決め、全力で向かってきなさい」
◇
茂みの中で、月渚は動かなかった。
目を閉じる。
中学二年の秋。部室に入ると会話が止まる。出ていくとまた始まる。水筒がなくなり、数日後に体育館の裏から出てくる。身に覚えのない噂が流れる。誰が言い出したのかもわからないまま、教室の空気だけが変わっていく。
どれも、はっきりと形になる手前で止まっていた。殴られたわけでも、物を壊されたわけでもない。誰かに言っても「気にしすぎじゃない?」で終わる程度のことが、毎日、途切れずに続いた。
そこに、一人だけ割って入ってきた子がいた。
名前も知らないはずの子だった。助けてやるという顔はしていなかった。同情もしていなかった。間違っているものが目の前にあるから身体が動いた、という顔をしていた。
それから三年。
中庭のベンチ。図書室。体育館。駅前。カフェ。書店。
頬に触れた指。膨らませた頬。逆光の笑顔。
絡めた小指。
――破ったら針千本ね。
月渚は目を開いた。
葉の隙間から、墓地の暗がりが見えた。
諦める、という選択肢を、月渚は一度だけ頭に置いてみた。置いた瞬間に、それが自分の中のどこにも入らないことがわかった。
人を殺すのは正しくない。それは変わらない。たぶんこの先も、一度も正しいとは思わない。
それでも、陽奈を取り戻す。
だとすれば、あとはやり方の問題だ。奪う相手から目を逸らしたまま奪うのか、向き合って奪うのか。前者の方が楽なのは、考えるまでもなかった。楽なほうを選んだら、自分が何をしているのかを一生知らないまま終われる。
それは、無責任だ。
月渚は手の甲で目元を拭った。二度拭って、三度目で止めた。
幻想の鎌を握り直す。
指が、震えていた。
茂みに飛び込んだときから止まっていない。肘から先が自分のものではないように感じる。膝も笑っていた。立てば、たぶんまた足がもつれる。
恐怖は消えなかった。
覚悟を決めれば消えるものだと、月渚は心のどこかで思っていた。決めた。決めたのに、何ひとつ軽くなっていない。怖いものは怖いままで、身体は震えたままだった。
――それでも。
月渚は膝に力を入れた。
震えたままの手で柄を握り、震えたままの足で立ち上がった。
茂みを掻き分けて、外へ出る。
真一が、鎌を地面に突き立てたまま立っていた。
月渚は紅いマフラーを握った。握って、離した。
「……ありがとうございます」
月渚は言った。
真一は短く答えた。
「嗚呼」
そして、鎌を引き抜いて構えた。
刃の先が、細かく揺れている。両手で握っても止まらなかった。真一にも見えているはずだった。
月渚は刃を下げなかった。
左右に、分身が二体。
二人は同時に踏み込んだ。




