第六話 墓地
翌朝も、月渚は電柱の脇で五分待った。
学校では、真一がいつも通りに教壇に立っていた。小テストを返し、平均点を告げ、復習しておくようにと言う。声の調子も、板書の癖も、昨日までと変わらなかった。
月渚はその背中を見ていた。ノートには何も書いていなかった。
◇
丹野瀬町の南のはずれ、山の裾に、荒廃した墓地がある。
管理する者がいなくなって久しく、墓石の多くは傾き、苔に覆われていた。周囲は雑木林で、まともな道は一本きり。街灯はない。
継承された記憶の中に、この場所があった。過去の聖炎聖戦で、代行者たちが幾度も刃を交えた土地。人目につかず、逃げ道が限られ、誰にも見咎められずに死体を作れる場所。
月渚は林の手前で足を止めた。
聖炎聖戦が始まって、三日目の夜だった。残された猶予は、あと四日しかない。
月渚は幻想の鎌を実体化させ、意識を集中した。
自分の姿をした分身が一体、音もなく現れる。
(先に行って)
分身が歩き出す。月渚は少し離れて、木々の陰を選びながらついていった。
◇
墓地の入口に差しかかったとき、月渚は木の幹に身を寄せた。
開けた場所の中央、傾いた墓石の群れのただ中に、人が立っている。
黒いスーツ。短く整えられた黒髪。手には、月渚のものとは形の違う鎌があった。
「――まさか」
男が口を開いた。
「月見里が代行者だったとは」
恋塚真一だった。
月渚の手が、幹を掴んだ。爪が樹皮に沈む。
分身が月渚の代わりに口を開いた。
「……どうして、ここに、恋塚先生が」
真一は答えのかわりに、鎌を横に振るった。
空気を裂く音。刃が夜の中で鈍く光る。
「見ての通りだ」
それから、左手で胸元に触れた。シャツの下から、白銀のロケットペンダントを引き出す。
握り締める。
「教え子を手にかけるのは、心が痛む」
その声は、教室で出席を取るときより硬かった。
「だが、避けては通れぬ道だ。仕方のないことだ」
月渚の手が、幹から離れた。首元へ伸びて、紅いマフラーを掴んだ。
真一は一度、腕時計に目を落とした。
それから、構えた。
月渚は分身を前に出した。
◇
先に動いたのは真一だった。
十メートル近い距離を数歩で潰し、鎌を斜めに振り下ろす。
月渚は分身を動かした。
自分の身体を動かすのと同じ感覚で、分身の腕が上がる。分身が手にしているのは幻想の鎌の形をした張りぼてだ。特殊能力までは再現できない。それでも、受け流すだけならできる。
刃と刃が擦れ、火花が散った。
柄の角度をわずかに変え、力の向きを逸らす。真一の一撃が分身の脇を抜けていく。
分身が反撃に転じた。返す刃で胴を薙ぐ。真一は後ろに跳んで躱した。
その隙に、月渚は木の陰で意識を割いた。
一体目を操りながら、二体目を現し出す。頭の芯に少し、圧がかかる。
二体目を、真一の背後の茂みに置いた。
一体目が、正面から大きく踏み込む。真一の鎌に自分の鎌を絡め、刃と刃を噛ませて、動きを封じる。
背後の茂みから、二体目が飛び出した。
真一は振り向かなかった。
腰を落とし、腕をひねり、絡んだ刃を体術で外す。ほとんど同時に半歩ずれ、迫っていた二体目の刃を柄で受けた。
金属音。
月渚の奥歯が鳴った。
だが、体勢は崩れている。
月渚は木の陰から飛び出した。
自分の足で地面を蹴る。本物の手で幻想の鎌を握り、真一の背中に振り下ろす。
――届く。
その姿勢のまま、月渚の腕が止まった。
刃の先が、真一の三十センチ手前にある。
――斬れる。
この刃は、この人の身体に入る。皮膚を裂いて、肉を抉って、骨に当たる。血が出る。この人は死ぬ。
今朝も教壇に立っていた人が、わたしの手で死ぬ。
樹の陰で震えていたのは、斬られるのが怖かったからだ。今、腕を止めているのはそれではない。斬ってしまうことが、怖い。
月渚の指が、柄を握り直した。握り直して、そのまま固まった。肘が曲がらない。肩が下がらない。
真一が振り返った。
薙ぎ払い。
分身ごと、月渚の身体が吹き飛んだ。
◇
背中から墓石に叩きつけられ、月渚は声も出せずに転がった。
膝をつき、鎌を支えにして顔を上げる。
分身が、いない。二体とも消えていた。
真一は追撃してこなかった。鎌を下げたまま月渚を見ている。
「なるほど」
真一が呟いた。
「分身、あるいはそれに準ずるものを生み出す力か。――今ので二体とも消えた。ということは、維持には明確な意思がいる。君が痛みで気を逸らせば、消える」
月渚の口が開いた。何も出ないまま閉じた。
「流石は、月見里だ」
真一の声が、わずかに柔らかくなった。
「一の矢、二の矢、三の矢と順に打つ。慎重で、堅実で、無駄がない。知力も武力も、君は昔から人並み外れていた。いかにも君らしい戦い方だ」
月渚は顔を伏せた。
「――月見里」
真一が言った。
「君は何故、戦う」
月渚は答えなかった。答えられなかった。
真一はしばらく待ってから、質問を変えた。
「天之宮を、生き返らせるためか?」
月渚の肩が跳ねた。
小さく、一度だけ頷いた。
「……そうか」
真一は息を吐いた。白い息が夜の空気に溶けて消えた。
「君もまた、大切な人を想って戦っているのか。――私と同じだな」
月渚が顔を上げた。
「私も、病で亡くした妻を生き返らせるために戦っている」
月渚の視線が、真一の胸元へ動いた。シャツの下に、ロケットがある。
この人には、取り戻したい人がいる。
奪うのは、命だけではない。
この人を斬れば、その人が生き返る未来も、丸ごと消える。誰かがもう一度会えるはずだった機会を、こちらの都合で永久に閉じる。
それは、陽奈が奪われたときに起こったことと、何が違うのか。
月渚の唇が開いて、閉じた。
鎌を持つ手が、下がっていく。刃の先が地面についた。
「互いに、大切な人を想ってここにいる」
真一が構え直した。
「ならば――悔いのないよう、戦おう」




