第五話 空席
月渚の家は、川沿いの住宅地にある。
両親は揃って出張に出ていた。帰りは来週になると言っていた。
月渚は玄関で靴を脱ぎ、鞄を床に置いたまま、階段を上がった。制服のまま自室のベッドに倒れ込む。
天井を見る。
寝返りを打つ。もう一度打つ。仰向けに戻る。
月渚は右手を上げて、目の前で開いた。それから握った。開いて、握った。
手のひらには何もない。
月渚は身体を起こし、手を差し出した。
空気が歪んで、鎌が現れた。
月渚はそれを見ていた。それから霧に戻し、枕に顔を埋めた。
紅いマフラーは、首に巻いたままだった。
◇
翌朝、月渚は浴室にいた。
湯を頭から浴びている。三分ほど、そのまま動かなかった。
それから髪を洗い、身体を洗い、湯を止めた。
台所で朝食を摂る。トーストを一枚焼き、半分残した。歯を磨き、鞄を持って玄関を出た。
息を吸うと、喉の奥が痛くなった。
通学路の途中、電柱の脇で、月渚は足を止めた。
そこには誰もいない。
月渚は携帯電話を出して、時刻を見た。ポケットに戻す。また出して、見た。
五分が経った。
月渚は歩き出した。
◇
教室に着いても、陽奈の席は空いていた。
鞄も、教科書も、何もない。昨日までそこにあったものが、何ひとつない。
予鈴が鳴り、真一が教壇に立った。
「連絡がある」
いつも通りの、抑揚の少ない声だった。
「天之宮は、妹さんの容態が悪化したため、しばらく休むことになった」
教室が少しざわついた。「陽奈の妹って病気なんだっけ?」「そういえば入院してるって言ってた」そんな声が、月渚の周りで交わされる。
月渚は机の下で両手を組んだ。指の関節が白くなるまで握って、それから緩めた。
「もう一点。学校近くで事件が発生したため、当面のあいだ部活動および委員会活動は中止とする。解決するまで、不要不急の外出も控えるように」
月渚は顔を伏せた。
朝礼が終わり、一時限目の予鈴が鳴った。
◇
昼休みの中庭は、風が冷たかった。
月渚はいつものベンチに座り、弁当を広げた。
隣は空いている。
月渚は卵焼きを一つ食べた。それから箸を止めて、弁当箱の中を見た。卵焼きがもう一つ残っている。いつもならもう、片方なくなっている。
月渚は蓋を閉めた。開けて、閉めた。また開けて、もう一つ食べた。
午後の授業までまだ時間があった。教室には戻らず、月渚は校舎の中を歩いた。
屋上へと続く階段。鍵は閉まっているが、踊り場からは空が見える。夏の夕方、ここに並んで座って、何をするでもなく話した。
図書室。テスト前、机を挟んで向かい合った。陽奈が同じ問題を三回間違えて、四回目にようやく解けたとき、大声を出して司書に叱られた。
月渚は体育館の入口で立ち止まった。
ステージを見ていた。それから引き返そうとして、また振り返った。
月渚は目元を手の甲で拭った。
午後の授業の予鈴が鳴った。
◇
放課後、月渚はあの公園へ向かった。
昼の光の下で見る公園は、何の変哲もない場所だった。錆びたブランコ。色褪せた滑り台。枯れた芝生。黒い染みも、抉れた地面も、どこにもない。
月渚は枯れ芝の上に立った。
位置を確かめるように、二歩右へ動いた。それから膝をついて、地面に手を置いた。
冷たい土の感触があるだけだった。
月渚は手を離し、その手で紅いマフラーを握った。
「……陽奈」
返事はない。
月渚は立ち上がった。
◇
公園を出て、月渚は川のほうへ歩いた。
丹野瀬川の下流には、草の生えた河川敷がある。土手を降りたところが広くなっていて、夏は少年野球の練習に使われるが、冬のこの時期には誰もいない。
月渚は枯れ草の上に立ち、手を開いた。
空気が歪み、幻想の鎌が実体化した。
改めて見ると、異様な代物だった。黒く長い柄。湾曲した刃。刃の表面は磨かれた黒曜石のようで、光を受けるとその奥で何かが揺らめいて見える。
両手で柄を握る。
重い。けれど、持てない重さではない。
軽く振るってみる。風を切る音がした。
月渚の手が、柄を握り直した。位置を変え、もう一度振る。今度は音が鋭くなった。
薙刀と同じだった。
中学二年の夏に、全国中学生薙刀大会の個人の部で優勝した。それきり、三年間触れていない。
それでも、身体は覚えていた。
構えを取る。踏み込む。薙ぐ。引き戻す。石突きで突く。返す刃で払う。
三年のブランクなど、なかったかのように動けた。
息が上がるまで振り続けて、月渚は鎌を下ろした。
冬の空気の中で、白い息が揺れる。
月渚は刃を見た。それから、目を逸らした。
◇
自室に戻り、月渚は鎌を実体化させた。
幻想の鎌の力は、契約者が抱く幻想を現出すること。記憶としては知っている。
月渚は目を閉じ、意識を集中させた。
思い浮かべる。自分の姿。鏡で何千回と見てきたもの。黒髪。ポニーテール。制服。紅いマフラー。身長。立ち方の癖。
空気が、揺れた。
目を開くと、そこに自分がいた。
「できた……」
月渚と同じ顔をしたそれは、月渚と同じように立っていた。呼吸に合わせて肩がわずかに上下し、髪の先が揺れる。まばたきまでする。
手を伸ばして触れてみた。冷たくもなく温かくもない、けれど確かに手応えがあった。
試しに、喋らせてみる。
「……あ」
声が、正面から返ってきた。
月渚は口を閉じた。分身も口を閉じた。
もう一度。
「……わたしは、月見里月渚です」
分身が言った。抑揚まで自分のものだった。
月渚は分身の顔を見つめた。それから視線を下げ、自分の手を見た。
次々に試した。
何でも貫く矛を思い浮かべる。――現れない。見たことのない生き物――曖昧な輪郭が一瞬できて、すぐに崩れた。空を飛ぶ自分。――何も起きない。
継承された記憶の通りだった。万能なものは形にならない。具体性に欠けるものも駄目だ。自分にはできないと感じているものは、現し出せない。
そして、数の限界。
二体まで出して操ったとき、額に少し汗が浮いた。三体目を出そうとした瞬間、月渚は膝をついた。頭を押さえる。二体とも霧散していた。
月渚は床に座り込んで、息を整えた。
立ち上がり、もう一度分身を出す。
自分と同じ顔が自分を見返している。
月渚はそれをじっと見た。少し首をかしげてみる。分身も同じように傾けた。
月渚の頬に、血が上った。
慌てて分身を消し、鎌を霊体化させる。部屋には誰もいない。月渚は両手で顔を覆った。
やがて手を下ろすと、月渚は机の上を見た。写真立てはない。そのかわり、携帯電話が置いてある。
月渚はそれを手に取り、また置いた。
夕食を作り、風呂に入り、歯を磨いて、布団に入った。
寝返りを何度も打った。




