第十話 出会い
家に着いたのは、日付が変わってしばらく経った頃だった。
月渚は制服を脱ぎ、浴室に入った。
湯を頭から浴びる。
月渚は右手を見た。手を開き、指を曲げ、また開く。
感触が残っている。皮膚が裂ける手応え。そのあとに抵抗が消えること。骨に当たったときの硬さ。
石鹸を泡立てて、右手を洗った。手首から指の先まで、順に擦る。洗い終えてから、もう一度石鹸をつけた。三度目まで洗って、月渚は手を止めた。
湯の中で、月渚は壁に額をつけた。
奪う命と願いに敬意と責任を持つ。茂みの中で、そう決めた。
持てているのか、と月渚は思う。
敬意を持っている人間が、相手の願いを利用するだろうか。あの人が取り戻したがっていた人を、餌にした。あれを敬意と呼べるなら、その言葉には中身がない。
そもそも、資格の問題がある。
人の命と願いを引き受けるというのは、その重さに耐えられる人間がすることだ。数日前まで何も知らなかった人間に、言えることなのだろうか。
そして、もう一つ。
月渚は額を壁につけたまま、目を閉じた。
陽奈は、人を殺したわたしを受け入れてくれるのだろうか。
あの子は、間違っているものを見過ごせない子だ。よく知りもしない同級生のために、三人の前に割って入ってきた子だ。
その陽奈が目を覚まして、最初に知るのが、自分を生き返らせるためにわたしが人を殺したという事実だったら。
どんな顔をするだろう。どんな声で名前を呼ぶだろう。
あるいは、呼ばないかもしれない。
仮に、全部上手くいったとする。陽奈が生き返って、また二人で中庭のベンチで弁当を食べて、くだらない話をして笑う。
そのとき自分は、笑えるのだろうか。
先生のことを忘れて笑うのか。忘れずに笑うのか。どちらも、できる気がしなかった。
答えは、出なかった。
浴室を出て、身体を拭き、寝間着に着替える。
台所へ行き、冷蔵庫を開けた。
中に何が入っていたのか、閉めたあと思い出せなかった。
歯を磨いて、部屋に戻る。ベッドで横になって、天井を見た。
月渚は寝返りを打った。もう一度打った。仰向けに戻って、両手で顔を覆った。
覆ったまま、しばらく動かなかった。
◇
目が覚めたとき、部屋は明るかった。
枕元の時計を見て、月渚は跳ね起きた。
十一時を過ぎている。
起き上がった姿勢のまま、月渚は動かなくなった。それからベッドに座り直した。
腕を上げようとして、肩の付け根が軋んだ。背中と腰には、墓石に叩きつけられたときの痣が残っている。押すと鈍く痛んだ。
月渚はのろのろと立ち上がった。
遅い朝食を作った。トーストを焼いて、卵を落として、コーヒーを淹れる。目の前に置いてみると、身体は素直に受けつけた。
月渚は皿を見下ろした。トーストを一口分ちぎって、口に入れた。
身支度を済ませ、家を出る。
冬の昼の光は白かった。
◇
学校に着いて、月渚はまず職員室に向かった。
ノックして入る。窓際の席は、空いていた。
机の上には何もない。ペン立ても、書類の束も、片付いている。日誌を渡しに来たあの日と、同じ形をしていた。
月渚はその席を見た。二秒ほど見て、目を逸らした。
隣の島にいる副担任のところへ行く。
「遅れて、すみませんでした」
「月見里さん。体調は?」
「大丈夫です」
副担任は頷いて、出席簿に何かを書き込んだ。それから顔を上げる。
「それと、連絡ね。恋塚先生、しばらくお休みになります」
月渚の指先が、鞄の持ち手を握り直した。
「……そう、ですか」
「遠くに住んでいるお祖父様が倒れられたそうで。急に帰省されることになって」
副担任は少し困ったように笑った。
「連絡が早朝でね。こちらもバタバタしていて。当面は私が代わりに見ますから、何かあったら言ってください」
「……はい」
月渚は一礼して、職員室を出た。
廊下を数歩進んだところで、足が止まった。
月渚は振り返り、職員室の扉を見た。それから窓際の席のあたりを、ガラス越しに見た。
また歩き出した。
◇
教室の扉を開けたとき、中は昼休みの音で満ちていた。
笑い声。椅子を引く音。誰かが誰かを呼ぶ声。弁当の蓋を開ける音。
月渚は自分の席についた。
何人かが「大丈夫?」「風邪?」と声をかけてくれた。月渚は「うん、ちょっと」と答えた。それで会話は終わり、みんなそれぞれの場所に戻っていった。
月渚は教室を見渡した。
黒板の前で数人がかたまって笑っている。窓際では誰かが机に突っ伏して寝ている。後ろのほうで、次の席替えの話をしている。
月渚は膝の上で手を組んだ。
組んだ手を見下ろしたまま、動かなかった。
◇
薙刀部に入ったのは、中学一年の春だった。先輩に勧誘されて、断る言葉が見つからなかった。それでも、やると決めたからにはやった。朝練に出て、居残って、家でも素振りをした。楽しいと思ったことは一度もなかったけれど、上達するのは嫌ではなかった。
二年の夏、全国中学生薙刀大会の個人の部で優勝した。
表彰台で写真を撮られているとき、月渚は胸の前で賞状を持ち直した。何度か持ち直して、一番見える角度にしてから、カメラを見た。
始まりは、その秋だった。
部室の会話が止まるようになった。水筒がなくなった。噂が流れた。
月渚は誰にも言わなかった。言えば大きくなる。大きくなれば、もっと酷くなる。
だから、我慢した。我慢して、目立たないようにして、ただ時間が過ぎるのを待った。
◇
ある日、放課後の教室に月渚は呼び出されていた。
部の三人が待っていた。そのうちの一人が、薙刀を持っていた。
月渚の手には何もなかった。
持っていたとしても、同じだった。
月渚は、何もしなかった。
視線を落として、立っていた。
薙刀が上がる気配がした。月渚は目を閉じた。
「――ちょっと」
声がした。
教室の扉のところに、女子生徒が立っていた。
茶色いショートヘアで、月渚より少し背が低い。上履きの色が同じだった。同じ学年だということだけが、そこからわかった。
月渚は、その子と口をきいたことがなかった。
彼女は迷わず中に入ってきて、薙刀を持っている子の前に立った。
そして、その柄を掴んだ。
「ちょっ、何すんの」
「貸して」
短いやり取りのあと、薙刀は彼女の手に移っていた。
彼女はそれを両手で持ち、そのまま机の上に置いた。
からん、と乾いた音がした。
武器を手放してから、彼女は三人に向き直った。
「最近、妙に空気が重いと思ってたら。あなたたちが原因だったの」
声は大きくなかった。
「こんなことして、恥ずかしいとは思わないの?」
「……そいつが生意気で、目障りなのが悪いんでしょ」
一人が言い返した。
彼女は少し首をかしげた。
「あなたたち、月見里さんの才能と結果ばかり見てるよね」
月渚は顔を上げた。
「努力のほうは、見ようとしないの?」
「……は?」
「うちは月見里さんのこと、あんまり知らないけど」
彼女は続けた。
「あなたたちは一緒に練習してきたんでしょ。だったら、この子がどれだけやってきたか、一番近くで見てきたはずじゃん」
誰も答えなかった。
「どうして認めないの」
声が、少しだけ強くなった。
「どうして、一緒に喜べないの」
三人は目を合わせなかった。
「……もういい」
彼女はそう言って、月渚の手を取った。
「いこ」




