第十一話 暗渠
廊下を引かれて歩きながら、月渚は口を開いた。開いて、閉じた。もう一度開いた。
「あの……助けてくれて、ありがとう。天之宮さん」
名前は知っていた。学年で目立つ子だったから、知らないほうが難しかった。
彼女は振り返らずに答えた。
「別に、助けようと思ったわけじゃないよ」
「……えっ」
「ただ、間違ってると思って。気付いたときには、身体が勝手に動いてた」
月渚は数歩ぶん黙った。
「……それでも、ありがとう」
「うん」
それだけ返して、彼女は歩き続けた。
昇降口の手前で足を止め、そこで初めて振り返る。
「ねぇ、月見里さん」
「は、はい」
「よかったら、月見里さんのこと、いろいろ教えてよ」
冬が来る前の、まだ少し暑い日だった。
窓から射す光が、彼女の顔の半分を白くしていた。
月渚は口を開けたまま、何も言えなかった。
握られたままの手が、温かかった。
薙刀をやめたのは、それからしばらくしてのことだった。
陽奈に言われたわけではない。陽奈は、やめろともやめるなとも言わなかった。ただ毎日、部活のない日に月渚を連れ出して、意味のないことばかり喋った。
退部届を出した日、陽奈は「そっか」とだけ言って、帰り道にアイスを二つ買った。冬だった。手がかじかんで、月渚は途中で何度も持ち替えた。
それから三年、月渚は薙刀に触れていない。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
月渚は顔を上げた。
教室の音が、少しずつ授業前の形に整っていく。みんなが席に戻り、机の上を片付け、教科書を広げる。
月渚も教科書を出した。
午後の授業のノートは、白いままだった。
◇
放課後、月渚はスーパーマーケットに寄った。
丹野瀬駅の南口を出てすぐのところにある、二十四時間営業の店だ。両親が帰ってくるのは来週で、それまでは自分で何とかするしかない。
籠を持って、野菜の棚の前に立つ。
人参を手に取り、値札を見て、戻す。隣の袋を取る。
玉葱と、卵と、鶏肉を入れた。豆腐を入れた。レジに並んで、会計をして、袋に詰めた。
前を歩いている親子連れが、夕食の献立について話している。子供がカレーがいいと主張して、母親が昨日もカレーだったでしょうと言い返している。
月渚はその後ろを、少し距離を置いて歩いた。
自動ドアの手前で、親子が右に曲がった。月渚は立ち止まって、その背中を見送ってから、外へ出た。
帰宅して、月渚は食材を冷蔵庫に入れた。
時計を見る。日が落ちるまで、まだ少しある。
月渚は右腕を回した。肩が鳴った。背中に手を回して、痣のあたりを押す。顔をしかめた。
鎌を実体化させ、構えてみる。一度軽く振った。二度目で、月渚は鎌を下ろした。
しばらく立っていた。
それから鎌を霊体化させ、台所へ行った。
玉葱と鶏肉を炒めて、卵でとじた。一人分だけ作るのはまだ慣れなくて、いつも少し多くできる。
食べて、皿と調理器具を洗って、風呂に入った。今日は手を擦らなかった。
歯を磨いて、布団に入る。
目を閉じる。
――嗚呼、さようなら。
月渚は寝返りを打った。打ってから、元に戻した。
眠るまで少し時間がかかった。
◇
翌朝、目が覚めたとき、身体は軽くなっていた。
腕を上げてみる。痛まない。背中の痣を押すと、まだ鈍い感触はあるけれど、動きを邪魔するほどではない。
朝食を作り、食べ、身支度を整える。制服に袖を通し、紅いマフラーを巻いた。
玄関を出る。
息を吸うと、喉の奥が痛くなった。
通学路の途中、電柱の脇で、月渚は足を止めた。
少しだけそこに立って、そのまま歩き出した。
◇
角を曲がったところで、月渚は立ち止まった。
道の真ん中に、男が立っている。
月渚より少し背が高い。黒髪を無造作に伸ばしたウルフヘアで、前髪の隙間から蒼い瞳が覗いていた。肌は白い。黒のロングコートに、黒のワークブーツ。
その手に、鎌があった。
朝の光の下だった。
通学路だった。塀の向こうには家があり、洗濯物が干してある。少し先の角からは、小学生の集団登校の声が聞こえている。
その真ん中で、男は鎌を担いでいた。
月渚の足が、半歩下がった。
「オマエ」
男が言った。
「代行者だろ」
月渚の喉が動いた。
「臭うんだよ」
男は鼻を鳴らした。
「人殺しの、血生臭さが」
月渚の指が、鞄の持ち手を強く握った。
男がゆっくりと歩き出した。
急いでいない。追い詰める気もなさそうな、散歩のような歩き方だった。
揺れる前髪の隙間から、蒼い目が覗いている。
その目は、月渚の顔を見ていなかった。月渚の首のあたり、それから胸のあたり、腹のあたりへと、順に下りていった。
月渚の肩が、跳ねた。
小学生の声が徐々に近づいてくる。
月渚は走った。
背を向けて、全力で。
背後で男が笑った。
◇
走りながら、月渚は行き先を探していた。
通学路を外れ、脇道に入り、坂を下る。川沿いの道に出て、そのまま土手を走った。
三日前に鎌を振った河川敷。その先に、暗渠の入口がある。
丹野瀬川の支流に蓋をして、その上に道路と住宅地を載せたのが、四十年ほど前だと聞いている。子供の頃、危ないから入るなと言われていた。
月渚は迷わず飛び込んだ。
迷っている余裕はなかった。心臓は喉のあたりまで上がってきていて、指先は震えていた。墓地へ向かった夜と、何も変わっていなかった。
急に暗くなる。
そして、広くなった。
入口の狭さから想像していたものと、中はまるで違った。天井は見上げるほど高く、奥行きは光の届く範囲では終わりが見えない。
四角い断面のコンクリートの柱が、等間隔に、視界の奥まで並んでいる。灰色の林だった。町の重さを支えるために、これだけのものが地下に埋まっている。
足元には、幅の狭い水路が一筋通っていた。浅い水が、音を立てずに流れている。その両側は乾いた床で、砂と枯れ葉が薄く溜まっていた。
少し奥まで走って、月渚は振り返った。
入口から射し込む光が、床に細長い四角を落としている。それより奥は、目が慣れるまで何も見えない。
息を整えようとして、月渚は口を閉じた。
自分の呼吸が、返ってきていた。
柱と天井に当たった音が、何度も跳ね返って戻ってくる。
月渚は片足を持ち上げ、そっと下ろした。砂の擦れる音が、四方から鳴った。
幻想の鎌を実体化させる。
手のひらに重さが戻る。柄を握り直し、構える。
広く、天井が高い。振り上げも、跳ぶこともできる。
柱が多い。視線が通らない。
月渚は入口のほうを見た。
それから構え直し、その場に立った。




