第三話 目撃者
音が、変わった。
打ち合う音の間隔が長くなり、かわりに重いものが地面を叩く音が混じり始めた。
月渚は樹の陰から顔を出した。
陽奈は押されていた。
鎌の軌道が浅い。踏み込みが甘い。月渚にもわかるほど、動きが鈍っていた。
女の攻撃は逆に精度を増している。一手ごとに陽奈を追い込み、退路を削っていく。
陽奈は、こちらを見なかった。
一度も、月渚のいるほうへ顔を向けなかった。女の位置が月渚の側へ寄りそうになると、陽奈は自分から反対側に動いて、女の身体をそちらへ引き戻した。
その動きが、一手ごとに陽奈の体勢を悪くしていった。
陽奈の鎌が弾かれた。
体勢が大きく崩れる。
女の刃が、陽奈の胴を薙いだ。
月渚の喉から、息だけが漏れた。
陽奈の身体がゆっくりと傾ぎ、膝から落ち、枯れ芝の上に倒れる。鎌が手を離れ、乾いた音を立てて転がった。
月渚は樹の幹を掴んだ。爪が樹皮に食い込んで、指の腹が裂けた。
足は、動かなかった。
◇
女は倒れた陽奈を一瞥もしなかった。
鎌を下ろし、ゆっくりと首を巡らせる。
月渚は息を止めた。
膝が、震えながら伸びた。立ち上がっていた。
樹の陰を離れ、出口へ向かって走り出す。砂利が鳴る。その音で、女がこちらを向いたのがわかった。
光のような速さで距離が詰まる。
背後に気配を感じても、月渚は走るのをやめなかった。
鎌が振り下ろされる。
――そして。
女が斬り裂いたはずの背中は、霧のように散った。
走っていた月渚の姿が、輪郭からほどけ、薄れ、夜の空気に溶けていく。
本物の月渚は、まだ樹の陰にいた。座り込んだまま、自分と同じ姿をした何かが斬られて消えるのを見ていた。
その視界の端で、倒れた陽奈の指先が、かすかに動いた。
女は数秒、消えたそれを見つめていた。それから息を吐き、踵を返した。
陽奈の元へ歩いて行く。
月渚の口が動いた。声は出なかった。
女は倒れた陽奈を見下ろし、鎌を振り下ろした。
陽奈の身体から、淡い光が立ち昇った。
蛍のような、あるいは湯気のような、頼りなく揺れる光だった。
女が手を差し伸べると、そこに小さな鳥籠に似た檻が現れた。光は引き寄せられるように、その中へ収まっていく。
鎌と檻が女の手から消える。女はコートのポケットから携帯電話を取り出した。
「――終わった。目撃者が一人逃げた。後は任せる」
短い会話だった。女は一度も振り返らずに公園を出ていった。
◇
公園に、砂利を踏む音が戻ってきた。
月渚が歩いていた。一歩ごとに足を止め、また踏み出す。
枯れ芝の上に、黒い染みが広がっていた。
月渚はその前に膝をついた。
「……陽奈」
肩の下に腕を入れて、抱き起こす。
重かった。月渚は一度体勢を崩し、座り直してから、もう一度抱え直した。
「陽奈。ねぇ、陽奈」
陽奈の茶色い髪が月渚の腕にかかっていた。月渚はそれを指で払った。払った指が、そのまま陽奈の頬に触れて、離れなかった。
後頭部の髪が、まだ跳ねていた。
今朝、三度押さえて、三度とも戻ったところだ。
月渚はそこを押さえた。手を離すと、また跳ねた。
もう一度押さえた。同じだった。
「陽奈」
名前を呼んだ。
もう一度呼んだ。
十回目を数えたあたりで、月渚は呼ぶのをやめた。それから陽奈の身体を抱きしめ、その肩口に顔を押し付けた。
肩が震えている。声は出ていなかった。
◇
――遠くなっていく音の中で、陽奈は月渚のことを考えていた。
痛みはもう、あまり感じない。冷たさだけがゆっくりと身体の内側に染みてくる。
思い出が、順番もなく浮かんでは消えた。
中庭のベンチ。寒い寒いと文句を言いながら、結局そこを動かなかったこと。テスト前の図書室で、三回読んでも理解できない自分に、月渚が四回目を説明してくれたこと。喧嘩もした。一度だけ本気で、三日口をきかなかった。四日目に月渚のほうから来て、目を合わせないまま「ごめん」と言ったこと。
昨日、笑ったこと。
絡めた小指の冷たさ。
(約束、守れないや)
また明日、と手を振った。その明日はもう来ない。
視界の端で、黒いコートが動くのが見えた。あの人は、月渚を探している。
(――ダメ)
陽奈は、残っている力を集めた。
立ち上がることはできない。鎌を振るうこともできない。だけど、これだけはまだできる。
思い浮かべる。
あの子の背中。ポニーテールの揺れ方。紅いマフラーの色。走るときの歩幅。何千回と見てきたから、細部まで正確に描ける。
(生きて、月渚)
陽奈の現し出した幻想が、夜の中を走り出した。
◇
「――目撃者は、君だね」
声がした。
月渚は顔を上げた。
男が立っていた。
銀髪を短く整え、肌は雪のように白い。灰色の瞳がこちらを見下ろしている。黒のカソックに銀のペクトラルクロス、足元は黒の革靴。神父の装いだった。年齢が読めない顔をしている。二十代にも、六十代にも見えた。
月渚は答えなかった。
男はしばらく黙って、陽奈を抱きしめる月渚を見ていた。首を少し傾け、月渚の顔から手元へ、手元から顔へと視線を移す。
やがて男の口角が、わずかに上がった。
男が手を差し伸べる。何もなかったそこに、鎌が現れた。
「改竄」
呟いた瞬間、公園の景色が変わった。
枯れ芝に広がっていた黒い染みが、薄れて消える。抉れた地面が元の形に戻る。折れた低木の枝が、折れていなかったことになる。
戦闘の痕跡が、順番に塗り潰されていった。
鎌が、男の手から消えた。
「さて」
男は月渚に向き直った。
「彼女を、こちらに渡してもらおう」
月渚の腕に力が入った。陽奈の身体を引き寄せる。
「……いや」
「困ったな」
男の眉も口元も動いてはいなかった。
「では、条件を出そう。彼女を渡すのと引き換えに、ここで何が行われていたのか、真実を明かそう」
月渚の肩が、わずかに落ちた。
月渚は陽奈の顔を見た。それから男を見た。もう一度、陽奈を見た。
長い時間、そうしていた。
やがて月渚の腕が、ゆっくりと開いた。
男は肩から黒い包みを下ろし、枯れ芝の上に広げた。
畳まれていたそれは、広げると人ひとりが収まる大きさになった。
男は陽奈を抱え上げ、そこに横たえた。頭を先に、それから足を。髪が顔にかかると、指で払った。乱暴なところはひとつもない、手慣れた動きだった。
留め具を上まで閉じ、男は肩紐に腕を通した。
それから、枯れ芝の上に転がっていた鎌を拾い上げ、空いているほうの手に持った。
「ついてきなさい」
月渚は立ち上がった。
一歩目で、膝が折れかけた。膝に手をついて、立ち直してから歩き出した。




