第二話 近道
翌日の朝も、月渚は待ち合わせ場所に立っていた。
通学路の途中にある電柱の脇。中学のときから変わらない場所だ。今日の陽奈は五分ほどの遅刻で済んだ。
「おはよ、月渚」
「おはよう、陽奈。寝癖ついてる」
「えっ、どこ?」
「後ろ」
歩きながら陽奈が髪を押さえる。手を離すとまた跳ねる。三度繰り返して、陽奈は諦めた。
昼休みは中庭のベンチで弁当を食べた。
丹野瀬高校の中庭は校舎に三方を囲まれていて、冬はそこを風が通り抜ける。だから寒い時期に人はほとんど来ない。二人はそこが気に入っていた。陽奈は寒い寒いと言いながら、教室に戻ろうとは一度も言わなかった。
いつも一緒にいた。それが当たり前だった。
◇
放課後、月渚は学級日誌を抱えて職員室へ向かった。
ノックをして中に入る。担任の恋塚真一の席は窓際にある。
近づいて、月渚は足を緩めた。机の上が、もう片付いていた。書類の束は積まれておらず、ペン立ては整い、鞄の口は開いたまま、あとは閉じるだけという形になっている。この時間の職員室で、帰り支度を終えている教師は珍しい。
恋塚真一は三十代の後半で、数学を教えている。黒髪を短く整え、季節を問わず黒のスーツを着ている。生真面目で、無駄がなく、必要なこと以外は口にしない。生徒たちからは煙たがられることもあるが、任されたことを最後までこなす人だということは、クラスの誰もが知っていた。
その真一が、椅子に浅く腰かけたまま、手のひらに乗せた何かを見ていた。
白銀のロケットペンダントだった。首から下げたそれを開いて、中を覗き込んでいる。
月渚の位置からは、収められた写真が見えた。長い黒髪の女性が写っている。
「……綺麗な人」
月渚の口から声が出た。出てから、月渚は口を軽く押さえた。
真一が顔を上げた。ロケットを閉じ、シャツの中にしまう。その手つきは速くも遅くもなかった。
「あの……その……恋塚先生の奥様ですか?」
「そうだ」
それだけだった。
月渚は日誌を差し出した。真一は受け取り、開いて目を通す。ページをめくる指は丁寧で、事務的だった。
真一は日誌を閉じ、鞄の口を閉めた。
「気を付けて帰りなさい」
「はい。失礼します」
一礼して職員室を出る。
廊下で、月渚は一度振り返った。ガラス越しに、真一が立ち上がってコートに袖を通しているのが見えた。動きに迷いはなかった。
◇
教室に戻ると、陽奈が鞄を肩にかけて待っていた。
「るーなー。遅いよー」
「ごめん。あと、これから図書委員の仕事があるから」
「じゃあ、手伝う」
「いいよ。すぐに終わるから、陽奈は先に帰ってて」
陽奈は口を尖らせた。三秒ほどそうしていたが、それ以上は言わなかった。
「暗くなる前に帰りなよ」
「大丈夫」
「ホントに? 月渚、集中すると時間わかんなくなっちゃうでしょ」
「……気を付ける」
「よろしい」
陽奈は頷いて、鞄を背負い直した。
「じゃっ、また明日ね」
「うん、また明日」
手を振る陽奈に、月渚も手を振り返した。
扉が閉まる。廊下から遠ざかっていく足音がして、それも聞こえなくなった。
◇
図書委員の仕事そのものは、三十分ほどで片付いた。
貸出記録を整理し、返却された本を棚に戻す。それだけだ。
本を戻し終えたとき、月渚は棚の乱れに気付いた。分類の順序が入れ替わっている。誰かが適当に押し込んだのだろう。
一冊抜いて、正しい位置に差し直す。その隣も違っていた。その隣も。
顔を上げたとき、窓の外は完全に暗くなっていた。
「……嘘」
携帯電話を見る。陽奈と別れてから、二時間以上経っていた。
月渚は荷物をまとめ、鍵を職員室に返し、校舎を出た。
冬の夜は、暗さの質が違う。空気そのものが黒く濃くなったようで、街灯の光が届く範囲だけが頼りない島のように浮かんでいる。月渚は足早に歩いた。
通学路に人影はなかった。
いつもの道なら、家まで二十分ほど。公園を抜ければ十分ほどで帰れる。
丹野瀬町の東側には、二年前まで使われていた児童公園がある。少し先に新しい公園ができてから、誰も寄りつかなくなった。遊具は錆び、街灯は半分が切れている。
月渚はもう一度、携帯電話を見た。それからポケットにしまい、公園の入口に足を踏み入れた。
◇
最初に聞こえたのは、金属音のようなものだった。
甲高く、短く、打ち合わされるような音。それが二度、三度と続く。
月渚の足が遅くなった。
工事の音ではない。もっと乾いていて、もっと近い。
月渚は入口のほうを見た。それから前を向き、歩く速度を上げた。音のするほうへは顔を向けず、砂利を踏む自分の足音だけを聞こうとした。
公園の中央に差しかかったとき、視界の端で何かが動いた。
月渚の首が、そちらに向いた。
枯れた芝生の広場に、二つの人影があった。
片方は背の高い女だった。黒髪を腰まで伸ばし、黒のロングコートを着ている。足元は黒いミドルブーツ。その手に、巨大な鎌があった。人の背丈ほどもある柄と、湾曲した刃が、乏しい光を吸い込んで黒く濡れたように見える。
そして、もう一方は。
「――何をしているの? 陽奈……」
声は、考えるより先に出ていた。
陽奈が振り返った。
目が見開かれている。口がわずかに開いて、何も出てこない。眉の端が下がり、顔全体がゆっくりと崩れていった。
「月渚……?」
陽奈の手にも、鎌があった。
女が動いた。
十数メートルはあったはずの距離が、瞬きの間に消えた。
月渚の目の前に、女の顔があった。憎しみも怒りもない目が、月渚を見ている。
鎌が振り上げられた。
月渚の膝が固まった。足の裏が地面に縫い付けられたように動かない。指先だけが震えていた。
刃が落ちてくる。
そのあいだに、茶色い影が割り込んだ。
衝撃音。火花。陽奈が両手で鎌を掲げ、一撃を受け止めていた。腕が軋み、足が地面を削る。
「月渚、逃げてッ!」
背中越しの叫び声だった。
月渚は走った。
足がもつれ、一度転びかけて、それでも走った。公園の外れの大きな樹の裏まで来て、膝から崩れるように身を隠した。
幹に身体を押し付ける。膝を抱えて、そこに顔を埋めた。
歯が鳴っていた。噛みしめても止まらない。
(何……今の、何……?)
金属音が続いている。
月渚は顔を上げた。樹の陰から出ようとして、手が幹を掴んだ。掴んだまま動かなかった。
もう一度、出ようとする。今度は足が出なかった。
月渚は膝を叩いた。二度、三度。それから両手で顔を覆った。




