第一話 約束
本作は最後まで読むことで、意味が繋がります。
京都府の北の端、日本海に面したあたりに、丹野瀬町という町がある。
山と海に挟まれた細長い町だ。南に低い山々が連なり、北に海がある。その間を一本の川が流れ、それに沿うように住宅地が広がっている。駅は町の中央に一つきり。特急は停まらない。
冬になると、海から来た風が山に当たって行き場を失い、町の中をぐるぐると回る。だから十二月の丹野瀬は、気温の数字よりずっと寒い。海沿いなだけあって雪が深く積もることは少ないが、降る日は横から降ってくる。
その日の朝、月見里月渚は駅前のロータリーに立っていた。
黒髪を高い位置でひとつに結んでいる。生成りのニットに、膝下まであるグレーのスカート。その上から紺のコートを着て、首には紅いマフラーを巻いていた。足元は黒のショートブーツ。手袋は、玄関の靴箱の上に置いてきてしまった。
どれも去年から着ているものだ。休日に着る服を、月渚はあまり増やさない。
駅前の通りを、人々が行き交っている。月渚はその流れを目で追った。三度追って、三度とも知らない顔だった。
携帯電話の画面を見る。待ち合わせの時刻を十分ほど過ぎていた。
(寝坊、かな)
月渚はマフラーの端を握った。毛糸に指を埋めて、そのまま少し揉んだ。
冷たい風が、ロータリーの植え込みを鳴らしている。バスが一台入ってきて、人を吐き出し、また出ていった。
「るーなーっ!」
声が飛んできたのは、それから数秒後だった。
振り返ると、少女が人々のあいだを縫うようにして走ってくる。茶色いショートヘアが、走るたびに跳ねていた。
芥子色のパーカーに、デニムのスカート。その上に羽織ったカーキのコートは前が開いたままで、マフラーは片方だけ肩から垂れ下がっている。後頭部の髪が、明らかに寝起きのまま外に出てきた形をしていた。
天之宮陽奈。月渚と同じ高校の二年生で、クラスメイトで、中学からの友人だった。
「ごめんっ、ほんとごめん! うち寝坊した!」
陽奈は月渚の前で急停止し、顔の前で両手を合わせた。息が上がっている。茶色い瞳が、上目遣いに月渚を見た。
「うん、知ってる」
「なんでっ⁉︎」
「だって、陽奈だし」
「ぐぬぬ……それ、一番きついやつ」
陽奈が顔を覆って呻く。月渚の口の端が、少し上がった。
「気にしないで。わたし、待つの嫌いじゃないから」
「そういうとこだよ、月渚の。そういうとこがずるいの」
月渚は首をかしげた。
「なんでもない。いこっ」
陽奈が腕を絡めてくる。コート越しに体温が伝わってきた。走ってきたせいか、その腕は妙に熱かった。
「あっ、そうだ。昨日ね、陽陰のとこ行ってきたの」
歩き出してすぐ、陽奈が言った。
陽陰は陽奈の妹だ。中学二年生になる。生まれつき身体が弱く、物心ついた頃から入退院を繰り返している。
「どうだった?」
「顔色、よかった。ちゃんと目も開けてたし、うちの話にツッコミ入れる元気もあった」
「それはすごいね」
「でしょ。ツッコミの切れ味は健康のバロメーターだから」
陽奈の声が、少しだけ低くなっていた。歩調も落ち着いている。前を向いたまま、視線だけが遠かった。
「よかったね」
月渚がそう言うと、陽奈は「うん」と答えて、また歩調を戻した。
◇
駅前から北へ五分ほど歩くと、四階建てのショッピングモールがある。この町で一番大きな商業施設で、休日には大抵高校生たちがいる。
モールの中は暖房が効きすぎていて、入って数分でマフラーを外すことになった。
「これ、月渚に似合うと思う」
二階の洋服店で、陽奈が淡い色のニットを月渚の肩に当てた。
「わたし、そういう色は」
「いいから。ほら、鏡」
背中を押されて、月渚は鏡の前に立たされた。
鏡に映る自分と目が合う。月渚はすぐに目を落とした。落とした先で、陽奈が鏡越しにこちらを見ていた。月渚はもう一度、顔を上げた。
「ねっ、いいでしょ」
「……うん。かわいい、と思う」
「月渚が着るからかわいいの」
月渚の指が、ニットの裾を意味もなく整えた。それから棚の方へ顔を向けた。
その棚に、陽奈がマフラーを一本見つけていた。落ち着いた色合いの、毛足の長いものだ。値札は月渚の位置からは見えない。
「それ、買うの?」
「うーん」
陽奈はそれを広げ、畳み、もう一度広げた。三度目に畳んだとき、棚に戻した。
「やっぱいい。月渚にはうちがあげたのが、一番似合うもん」
月渚の手が、首元に伸びた。そこにマフラーはなく、腕にかけたままの紅い布地に触れただけだった。
「……それ、自分で言う?」
「だって、ホントのことだもん」
「ずるいのは、陽奈だと思う」
二人は顔を見合わせた。先に吹き出したのは陽奈のほうだった。
三階のカフェで、パンケーキを一つだけ頼んで分け合った。
二人で来るときはいつもそうする。二つ頼むと必ずどちらかが残すことを、三年もやっていれば学習する。
フォークを皿に置いた陽奈が手を伸ばしてきた。
「ついてる」
指先が月渚の頬に触れた。
そのまま陽奈は指を口に運び、ぺろりと舐めた。
月渚のフォークが、皿の上で止まった。
「ちょっ、ちょっと、陽奈」
「んー?」
「言ってくれたら、自分で取れたのに」
月渚は空いているほうの手を頬に当てた。指の下の皮膚が熱い。
陽奈が目を丸くして月渚を見ていた。それから、堪えきれなくなったように笑い出した。
「月渚ってさぁホント、かわいいよね」
「……もう食べない」
「嘘、嘘じゃないけど……。じゃなくて、待って、ごめんって」
結局その後もパンケーキは二人で分け合い、最後の一口を譲り合って、じゃんけんで陽奈が勝った。
一階の書店で、月渚は新刊の平台の前に足を止めた。
背表紙の並びを眺めていると、一冊の表紙に目が留まる。手に取って裏返していると、横から陽奈が覗き込んできた。
「それ、面白いの?」
「わからない。まだ読んでないから」
「じゃあなんでとったの?」
「タイトルと、表紙が気になって」
陽奈は「ふうん」と言って、月渚の手元と顔を交互に見た。
「じゃあさ、おすすめ教えてよ。今度読んでみる」
月渚は本を平台に戻した。それから陽奈のほうへ向き直り、真顔で言った。
「陽奈、国語の教科書ですら苦手なのに、小説読めるの?」
「んなっ、失礼な! うちだってカフェで優雅に、おしとやかにコーヒー啜りながら読めるもん!」
「……本当に?」
「よっ、読めるもん。……たぶん」
陽奈が頬を膨らませて睨んでくる。月渚は口元を手で押さえた。押さえきれずに肩が揺れた。
陽奈も数秒後には笑い出して、店員がこちらを見るまで二人で笑い続けた。
◇
モールを出ると、日はもう傾いていた。
冬の丹野瀬は、日が落ちるのが早い。駅へ戻る道の街路樹は葉を落として骨のような形をしていて、その隙間から射す光が二人の影を長く伸ばしていた。
「ねぇ、月渚」
「ん?」
「いつかさ、陽陰も連れて、三人で遊びに行こう」
陽奈は前を向いて歩いていた。月渚の位置からは、その横顔の輪郭しか見えなかった。
「うん」
「約束ね」
陽奈が足を止め、こちらを向いて小指を差し出した。
月渚は自分の小指を見て、それから陽奈の小指を見た。二秒ほどそうしてから、絡めた。
陽奈の指は冷たかった。走ってきたときは、あんなに熱かったのに。
「破ったら針千本ね」
「そんなに飲めない」
「飲ませるから」
陽奈が笑う。夕陽が逆光になって、その顔の輪郭だけが白く光って見えた。




