第十九話 魂の聖炎
祭壇の裏に、扉があった。
その先は、大聖堂だった。
外から見たとき、この建物にこれだけの空間があるようには見えなかった。天井は高く、左右に石の柱が並び、その奥行きは目では追いきれない。窓は一つもない。
中央に、炎があった。
台座も、燭台もない。ただ空中に浮いている。
人の背丈ほどの高さで、蒼白く、音もなく揺れていた。近づいても、頬に何も感じなかった。
「魂の聖炎だ」
万が言った。
「八つ捧げなさい」
月渚は魂の檻を実体化させた。
九つの灯りが、檻の中を巡っている。
月渚はその中を、目で追った。
どれも似ていた。大きさも、明るさも、揺れ方も。並べて見比べたところで、どれが誰のものなのかはわからない。
それでも、一つだけ。
見覚えがある、としか言えないものが、そこにあった。
月渚は檻を傾け、その灯りを下のほうへ寄せた。手で押さえるわけにもいかないので、傾けたまま格子を開けた。
◇
一つ目の灯りが、聖炎へ向かって流れていった。
触れると、溶けるように消えた。
月渚は目を閉じなかった。
二つ目。三つ目。四つ目。
どれが誰なのかは、わからない。
五つ目。六つ目。
浮かんでくるものはあった。
腕時計に目を落とした、あの数秒。刃に映った自分を見つめていた横顔。髪飾りに触れた指。
顔を知っているのは、その三人だけだ。残りの五人は、名前も、顔も、待っている人も知らない。
どの灯りが三人で、どの灯りが五人なのか、最後までわからなかった。
七つ目。八つ目。
最後の灯りが聖炎に溶けて、消えた。
わたしが、奪った。
顔を知っている三人も、知らない五人も、同じだけ。
月渚は、そのことを胸に刻んだ。
檻の中に、灯りが一つ残った。
月渚は檻を両手で持ち、目を閉じた。
(――陽奈を、生き返らせてください)
声には出さなかった。
(もう一度、陽奈と生きたい)
魂の聖炎が、光を増した。
蒼白い光が大聖堂の奥まで届いて、石の柱を一つずつ照らしていく。
月渚は目を開いた。
檻の中の灯りが、消えていた。
「君の願いは叶った」
万の声がした。
月渚は振り返った。
「彼女は大聖堂を出て、廊下をずっと進んだ先の部屋にいる」
月渚の膝が、わずかに沈んだ。
「君の勝利が決まった時点で、そちらへ移しておいた。……どうした。行かないのかね」
月渚は走り出した。
廊下は長かった。
石の床が、走るたびに足の裏を打った。右の脇腹が痛んだ。膝に力が入らなかった。
三歩目で足がもつれた。壁に手をついて、立て直して、また走った。
途中でまた、転びかけた。
窓の外に月が出ていた。廊下にその光が細く落ちて、走る月渚の影を伸ばしていた。
突き当たりに、扉があった。
月渚は取っ手を掴み、身体ごと押し込んだ。
部屋は暗かった。
窓から月の光が入っていて、それだけだった。
ベッドが一台ある。
その上に、陽奈がいた。
月渚は入口で止まった。
陽奈は仰向けに寝かされていた。掛け布団が胸までかけてある。茶色い髪が枕の上に広がっていた。
制服だった。
あの夜、公園で着ていたものだ。布団から出ている肩のあたりに、裂け目はなかった。染みもない。誰かが繕って、洗ったのだとわかった。
動かない。
月渚の呼吸が浅くなった。
布団が、上がった。
下がった。
また上がった。
陽奈はゆっくりと身体を起こし、髪を掻き上げて、部屋を見渡した。
それから、入口のほうを見た。
「……月渚?」
◇
月渚は駆け寄った。
ベッドの縁にぶつかって、そのまま陽奈の胸に飛び込んだ。
陽奈の腕が、反射で月渚を受け止めた。
温かかった。
耳を押し当てたところで、心臓が鳴っていた。速くはない。規則正しく、生きている人間の速さで鳴っていた。
「陽奈……」
月渚の声が割れた。
「陽奈。よかった……本当に、よかった」
「えっ。えっ、ちょっと、月渚?」
陽奈の手が、宙で止まっていた。
「なに、どうしたの? っていうか、ここどこ? うち、なんで――」
月渚は陽奈を抱きしめた。
強くはなかった。壊さないように、それでも離さないように、腕を回しただけだった。
陽奈の言葉が止まった。
やがて、陽奈の手が月渚の背中に回った。
月渚は、話した。
六日前の夜、陽奈が死んだこと。
公園で、樹の陰から見ていたこと。何もできなかったこと。
久遠万のこと。代行者のこと。死神の鎌のこと。魂の聖炎のこと。聖炎聖戦のこと。
自分が戦うと決めたこと。
恋塚真一を殺したこと。
面剥自由を殺したこと。
栗花落紫苑を殺したこと。
三人を、自分の手で殺したこと。
そして八つの命と願いを、聖炎に捧げたこと。
そのうち五つは、顔も名前も知らないこと。
罪を背負ったこと。責任を背負ったこと。全てを忘れないと決めたこと。
嗚咽が混じって、何度も途切れた。同じところを二度言った。言葉が出なくなって、しばらく黙った。それからまた続けた。
陽奈は、黙って聞いていた。
一度も遮らなかった。
◇
陽奈は、月渚を見ていた。
頬に切り傷がある。腕にも。制服の脇腹が裂けて、そのあたりが黒く濡れている。
そして、首元。
紅いマフラーが、あった。
毛糸の端がほつれて、何本も垂れ下がっていた。編み目が緩んで、そこだけ薄くなっている。
涙が落ちた。
拭わなかった。
◇
「月渚」
陽奈が言った。
「うちも、背負う」
ありがとう、とは言わなかった。
月渚は首を振った。
「それは、ダメ」
「どうして」
「これは、わたしが一人で背負わないといけないものだから」
「それは違う」
陽奈の声は、大きくなかった。
「違うよ、月渚」
陽奈は月渚の背中に回した腕に、力を込めた。
「うちはもう、月渚を一人になんかさせない」
月渚の口が開いた。
「陽奈……」
それ以上は、何も出てこなかった。
◇
胸に、痛みが走った。
話さないこともできた。
何も知らない陽奈がそこにいた。中庭のベンチで卵焼きを一つ勝手に食べて、笑っている陽奈が、そのまま戻ってきた。
話せばこうなることも、わかっていた。陽奈は、目の前で誰かが重いものを持っていたら、当たり前のように一緒に持とうとする。
わかっていて、話した。
止められない。止める資格もない。
それが、今日、最後に奪ったものだった。
月渚はもう一度、陽奈を強く抱きしめた。
陽奈も、月渚を抱きしめた。
二人は泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けて、気付くと眠っていた。
涙の跡を、月明かりが照らしていた。
◇
先に目を覚ましたのは、月渚だった。
窓から朝日が射し込んでいた。冬の光で、白くて、薄い。
隣で陽奈が眠っていた。
月渚は手を伸ばして、その頭に触れた。
髪を撫でる。指の腹で、額から後ろへ。もう一度。もう一度。
温かかった。
陽奈が目を開けた。
「……ん」
身体を起こし、瞬きを二度して、月渚を見た。
「月渚。おはよう」
「おはよう。陽奈」
陽奈の後頭部の髪が、跳ねていた。
ノックの音がした。
扉が開いて、万が入ってきた。
「いい朝だ」
万は窓のほうへ視線をやり、光に目を細めた。
「君たち、昨夜はよく眠れたかね?」
「……はい」
月渚は、それだけ答えた。
◇
教会の前に、二人は並んで立っていた。
丘の上から、町を見下ろせた。朝の光の中で、屋根が並んでいる。その向こうに海があって、水平線のあたりが白く光っていた。
万が扉の前に立っていた。
月渚は、一礼した。
陽奈も、少し遅れて頭を下げた。
万は何も言わなかった。
二人は歩き出した。
並んで坂を下った。セーラーが二つ、同じ歩幅で動いている。
坂を下りきると、通学路に出た。
月曜の朝だった。
同じ制服の生徒が、何人も歩いていた。自転車が二台、続けて追い越していく。信号の手前で数人がかたまって、何かを話して笑っていた。鞄を肩にかけ直す音がした。
みんな、同じ方向へ進んでいく。
二人は、その流れに逆らって歩いた。
学校とは反対側へ。鞄も持たず、教科書も持たず、制服だけを着て。
すれ違う生徒が、何人か振り返った。それだけだった。誰も声をかけてこなかった。
途中で、陽奈が手を伸ばしてきた。
月渚はその手を取った。
指を絡めて、握った。陽奈も握り返した。
二人は、そのまま歩いていった。




