第十四話 背負う
暗渠を出ると、外は昼だった。
冬の光が、目に刺さるほど白かった。
濡れた制服は冷え切っていて、風が当たるたびに身体が震えた。鼻の下を拭うと、乾いた血が指についた。
月渚は土手を上がり、家のほうへ歩き出した。
背中の痛みも、こめかみの重さも、まだ残っている。
途中で一度、月渚は足を止めた。
振り返って、暗渠の入口のほうを見る。
それから前を向いて、また歩き出した。
◇
家に着いて、月渚はまず学校に電話をかけた。
三度の呼び出し音のあと、聞き覚えのある声が出た。
『はい、二年四組の――』
副担任だった。
「……月見里です。すみません、今日、休みます」
『月見里さん』
声が、少し柔らかくなった。
『大丈夫? 昨日も顔色よくなかったけど』
月渚は受話器を持ち直した。
濡れた制服が床に水を落としている。鼻の下には乾いた血がこびりついている。
「……少し、風邪気味で」
『そう。無理しないでね。恋塚先生もいらっしゃらないし、こういうときは早めに休むのが一番だから』
「……はい」
『ちゃんと温かくして、栄養のあるものを食べて。あと、水分ね』
「……はい。ありがとうございます」
月渚は受話器を置いた。
置いた手を、そのまま離さなかった。
◇
制服を脱いだ。
濡れて重たくなったセーラー。シャツ。スカート。全部が水と砂と、少し血の匂いをさせている。
そして、紅いマフラー。
洗濯機に入れる前に、月渚の手が止まった。
毛糸の端が、ほつれていた。
一本だけではない。何本かが編み目から抜け出して、垂れ下がっている。その一部が緩んで、薄くなっていた。
刃が掠ったとき。水路を這い出たとき。柱に叩きつけられたとき。墓地で地面を転がったとき。思い当たる節はいくつもあった。
月渚は、ほつれた端を指でつまんだ。
編み目に戻そうとして、指を動かす。毛糸は元の位置に入らなかった。
もう一度試した。
三度目で、月渚は手を離した。
それから洗濯ネットに詰め、洗濯機の蓋を閉めた。スイッチを押した。
シャワーを浴びた。
湯が背中の痣に当たると痛んだ。腕を上げると肩が鳴った。
髪を洗いながら、月渚は指を折った。
恋塚先生。
名前を知らない、先生が倒した人。
面剥自由。
名前を知らない、彼が殺した二人。
五本目で、指が全部折れた。
二人殺して、五つ持っている。
名前を知っているのは二人だけだ。残りの三人は、どこの誰かもわからない。どんな顔で、何を願って、誰に待たれていたのか、月渚は何ひとつ知らない。
知らないまま持っている。知らないまま、聖炎に捧げる。
月渚は握った拳を、しばらく見ていた。
部屋着に着替え、洗濯物を取り出した。
乾燥機に入れるものは入れ、セーラーとスカートはハンガーにかけた。マフラーは形が崩れるから平らに干す。毛糸は吊るすと伸びるのだと、陽奈が言っていた。
月渚は洗面所の台にタオルを敷き、その上にマフラーを広げた。
濡れたそれは、色が濃く沈んで見えた。
ほつれた端が、水を含んで垂れている。
月渚はそこに手を置いた。
指の腹で、毛糸の表面を撫でる。端から端まで、一度だけ。
願いには、近づいている。五つ持っている。あと少しで届く。
一歩進むたびに手の中のものは増えて、一歩進むたびに、これは傷んでいく。
直す方法は知らない。知っていたとしても、元と同じものにはならない。
――逃げない。
軽くしようとも思わない。誰かに許してもらおうとも思わない。
先生は申し訳なく思うなと言った。あれは先生が言えることであって、わたしが自分を許していいことではない。受け取ってしまえば、自分のしたことは誰かが免じてくれるものになる。
わたしは、間違ったことをしている。
それを間違いだと知ったまま、続ける。
五つの魂の重さも、傷んでいくマフラーも、全部抱えたまま、陽奈のところまで行く。
撫でた手を離して、月渚はもう一度マフラーを見た。
それから洗面所の明かりを消した。
部屋に戻り、月渚は魂の檻を実体化させた。
手のひらに乗る大きさの、鳥籠に似た形をしている。格子は細く、材質はわからない。
その中で、五つの灯りが浮いていた。
どれも似ていた。大きさも、明るさも、揺れ方も。
それらは檻の中を、ゆっくりと巡っていた。
どれが誰のものなのか、月渚には見分けがつかなかった。
やがて、月渚は檻を霊体化させた。
台所へ行き、冷蔵庫を開けた。
月渚は中を見た。
閉めた。
歯を磨いて、布団に入る。
日はまだ高かった。カーテンの隙間から光が漏れている。
月渚は目を閉じた。
◇
鳥のさえずりで、月渚は目を覚ました。
半日以上眠っていたらしい。腕も上がる。背中の痣は色が変わり始めていた。
月渚は布団の上に起き上がり、そのまま座っていた。
それから、携帯電話を手に取った。
着信履歴の一番上にある番号を選ぶ。指がボタンの上で止まった。三秒置いて、押した。
二度の呼び出しで、繋がった。
『君からかけてくるとは』
「……ひとつ、教えてください」
『構わない』
「代行者は、残り何人ですか」
少しの間があった。
『訊かないものだと思っていたよ』
「……教えてください」
『二人だ』
月渚の指が、携帯電話をきつく握った。
『君を含めて、二人』
「……ありがとうございます」
月渚はそう言って、電話を切った。
◇
部屋は、静かだった。
月渚は携帯電話を布団の上に置いた。
手のひらを見る。開いて、握って、また開いた。
月渚は窓のほうを見た。カーテンを少し開ける。冬の朝の光が入ってきた。
月渚は腕を回した。肩が小さく鳴った。
(――明日にしよう)
今日ではない。
身体はまだ完全ではない。こめかみにも、うっすらと重さが残っている。一日休めば、もっと戻る。
七日目まではまだ猶予がある。相手も同じだけ戦ってきたはずだ。
この判断が正しいのかどうかは、もう考えなかった。
正しさというものが、この戦いのどこにも置かれていない。
置かれていないなら、自分で選んだものを持つしかない。
月渚はカーテンを開けきった。
◇
朝食を作った。
米を炊いて、味噌汁を作って、卵を焼いた。少し焼きすぎた。
月渚は焦げた部分を箸で切り分けた。切り分けてから、結局その部分も食べた。
皿と調理器具を洗い、布巾で拭き、棚に戻した。
洗面所に行くと、マフラーは乾いていた。
ほつれた端は、そのままだった。
月渚は部屋に戻り、ベッドに腰かけた。
携帯電話を手に取る。
写真のフォルダを開いた。
一番上にあるのは、六日前、ショッピングモールに向かう道中で撮ったものだった。陽奈が月渚の腕を引き寄せ、画面を見ないまま押したやつだ。
構図は傾いている。月渚は半分しか写っていない。陽奈は口を開けて笑っている。
月渚は画面を指でなぞった。
たった六日前だった。
この六日間で誰が死んだのかも、月渚が何をしてきたのかも、これから何をするのかも、画面の中の陽奈は知らない。
月渚は携帯電話を閉じて置いた。
それから、枕元に手を伸ばした。
猫のぬいぐるみがある。手のひらに乗る大きさで、片方の耳の縫い目が少しほつれている。去年の夏、駅前のゲームセンターで陽奈が一時間近く粘って取ったものだ。同じものが二つ落ちてきて、一つは陽奈の部屋にある。
月渚はそれを膝に置いた。




