第十三話 針千本
二人は同時に動いた。
刃が噛み合う。月渚は受け流し、後退し、柱の陰へ滑り込んだ。
同時に、分身を一体、離れた柱の向こうへ走らせる。
足音を立てさせた。反響が広がっていく。
月渚は柱に背を貼り付け、口を手で覆った。
自由の足音が止まった。
それから、ためらいなく歩き出した。
まっすぐ。
こちらへ。
「臭うっつってんだろ」
自由の声は、面白がっていた。
「なァ。テメェ、汗かいてんだよ。汗と、柔軟剤と、あとなんだ、甘いもんの匂いがすんなァ。……その首の布切れか?」
月渚の左手が、マフラーに伸びた。伸びて、途中で止まった。
◇
月渚は走った。柱のあいだを縫って、奥へ。迫ってくる足音が、反響して四方から聞こえる。
視界の端に、水路が見えた。
月渚は飛び込んだ。
冷たい。冬の水だった。浅いが、身を伏せれば全身が浸かる。
月渚は歯を食いしばった。顎が震えている。両手で口を押さえた。
制服が水を吸って重くなっていく。髪から水が垂れる。
土と、鉄と、澱んだ水の匂いが、身体を覆っていく。
足音が近づいてきた。
止まった。
月渚は目を閉じた。
自由が動く気配。舌打ちしたような音。方向を変えて、遠ざかっていく。
月渚はゆっくりと水路から這い出した。
身体が震えている。指がかじかんで、柄を握る感覚が鈍い。
マフラーが水を吸って、首に重く貼り付いていた。
柱の陰に回り込み、次の手を考える。
そのときだった。
ぽた、と音がした。
月渚の髪から落ちた水滴が、乾いた床を叩いた音だった。
反響が広がっていく。
月渚の手が、髪を掴んだ。
足音が戻ってくる。
「なるほどなァ」
声は、もう近い。
「水路で匂い消したか。賢いじゃねぇか」
水滴が、また落ちた。
「でもよォ」
自由が柱を回り込んだ。
「そんだけ濡れてたら、音がすんだろうがァ」
◇
斬撃を受けた。
濡れた手が滑り、柄がずれる。衝撃を殺しきれず、月渚の身体が吹き飛んだ。
床を転がり、砂と水を撒き散らしながら止まる。
立ち上がる。腕が軋む。
月渚は濡れた前髪を掻き上げた。
掻き上げた手を、そのまま鎌の柄に持っていく。
月渚は鎌を構え、正面から踏み込んだ。
自由が迎え撃つ。
刃が交わる直前、月渚は自分の姿を消した。
正確には、消えたように見せた。
柱の陰に身を投げると同時に、別の柱の陰から分身を現し出す。分身が踏み込み、一撃を入れて、掻き消える。
自由の刃が、何もない空間を薙いだ。
背後から、次の分身。
一撃。消す。
右から。一撃。消す。
左から。一撃。消す。
出しては消し、消しては出す。
現れる位置は毎回違う。消える瞬間に次を現し出すから、目には瞬間移動しているように映る。
「――ッ」
自由が振り返る。そこにはもう誰もいない。
振り返った先から、また刃が来る。
月渚は柱の陰を移動しながら、意識を割き続けた。
自由の身体に、小さな傷が増えていく。
月渚の足が、一度もつれた。
柱に手をついて立て直す。
一回、出す。消す。また出す。そのたびに、こめかみの奥を押される。
視界の端が、滲んでいる。
唇に、生温かいものが伝わった。舌で舐めると鉄の味がした。
月渚は手の甲で口元を拭った。手の甲が赤くなった。
月渚はその手を見た。それから前を向いて、次の分身を出した。
十回。
十五回。
二十回を超えたあたりで、分身の輪郭が歪み始めた。
そして、自由が動きを変えた。
目で追うのを、やめたのだ。
鎌を下げ、その場に立ち止まる。
目を、閉じた。
月渚の動きが止まった。
自由の顔から、笑みが消えていた。
呼吸すら、していないように見えた。
分身には、殺意がない。月渚が動かしているだけの人形だ。刃を振るう意思を持っているのは、この空間でただ一人。
月渚は鎌を下ろした。
下ろしたところで同じだった。次に斬りかかれば、そこに殺気が立つ。
月渚の呼吸が浅くなった。一度、大きく吸って、止めた。
鼻から垂れたものが顎に落ちた。
月渚は右手を開いて見た。指の先が小刻みに動いている。握って、開いた。
月渚は目を閉じた。
――破ったら針千本ね。
目を開いた。
分身を、一体だけ現し出した。
自分の真正面。腕一本ぶんも離れていない位置に。
そして、月渚は走った。
分身も、まったく同じ速度で走った。
同じ歩幅。同じ腕の振り。同じ角度で構えた鎌。同じ呼吸の乱れ。
月渚が自分の身体を動かすのと寸分違わず、分身は動いた。
自由の目が、開いた。
殺気は、正確に捉えていた。まっすぐ向かってくる、一直線の殺意。
そしてその線の上に、月渚の姿があった。
自由は迷わなかった。
狂化の鎌が、真横から振り抜かれる。
完璧な一撃だった。踏み込みも、角度も、速度も、この男が出せる最大値だった。
刃は、月渚の胴を裂いた。
――裂いたはずだった。
その身体が、霧のようにほどけた。
自由の目が見開かれる。
振り抜いた腕が、戻らない。
霧の向こうから、月渚が出てきた。
同じ速度で。同じ歩幅で。その一歩後ろを、ずっと走ってきた本物が。
幻想の鎌が、自由の胴を肩から裂いた。
◇
自由の膝が、折れた。
狂化の鎌が手から滑り、床を跳ねて、転がった。
月渚は数歩下がって、鎌を支えに身体を保った。
息が荒い。片手で柱を掴んで、ようやく立っていた。
自由は片手を床について、月渚を見上げた。
「……アァ」
その顔に、痛みはなかった。
「殺気は、当たってたんだけどなァ」
自由は笑った。
「最後の最後で、目で見ちまった」
傷口から、血が流れ続けている。それを見下ろして、自由は首をかしげた。
「おかしいだろ。俺は、目に映るもんなんか信じてねぇのによォ」
月渚は答えなかった。
「俺は死なねェよ」
自由が言った。
「俺は永遠に、人の最期を観る」
落ちた鎌に、手を伸ばす。
届かない。それでも指が動く。床を掻き、血の跡を引いて、少しずつ刃へ近づいていく。
月渚は鎌を構えなかった。柱を掴んだまま、それを見ていた。
自由の指先が、刃に触れた。
刀身が、暗がりの中でわずかな光を返した。
そこに、自由の姿が映っていた。
自由は、それをじっと見た。
血の流れた頬。見開かれた目。その奥にあるもの。
「――アァ」
息が漏れた。
「綺麗だな」
指から力が抜けた。
刃を撫でるように滑り落ちて、手は床についた。
それきり、動かなかった。
◇
自由の身体から、淡い光が立ち昇った。
月渚は檻を実体化させ、それを収めた。灯りが三つになった。
少し離れたところに、檻が一つ転がっていた。月渚は鎌を霊体化させ、それを拾い上げる。中には光が二つある。
月渚は格子に指をかけ、扉を開いた。
二つの光が出て、月渚の檻へ流れ込んだ。
空になった檻が崩れて消えた。
月渚は檻を、両手で包んだ。
包んだまま、膝をついた。
月渚は、自由の傍らににじり寄った。
口を開けた。閉じた。そして、開いた。
「……あなたの願いも、価値観も、わたしは肯定することができない」
声が、反響して返ってくる。
「それでも、わたしがあなたの全部を奪ったことを忘れない」
月渚は手を合わせ、目を閉じた。
携帯電話が鳴ったのは、それからしばらくしてのことだった。
『二度目だね』
万の声だった。
『面剥自由か。興味深い男だったが、あれの事後処理には手を焼いていてね』
「……事後処理をお願いします」
『承った』
通話が切れる前に、万が付け足した。
『あぁ、それと。昨夜、一人減った。面剥の手によってね』
月渚の指が、止まった。
『君が休んでいたあいだの話だ』
電話が切れた。
月渚は画面を見下ろしていた。
それから携帯電話をポケットに入れ、檻を霊体化させた。




