第36話 ㋳ 矢嶋さん
陽子に渡されたカルテを見ると何やら手書きのメモが挟まっていた。
勾玉に幾つか穴が開いたような面妖な模様が描かれており、矢印でここが見えないとかここは見えるなどという注意書きが書いてあった。
カルテの表表紙を見た。
矢嶋正一、88歳。
けっこう高齢ね・・・。
主訴は見えないところが両目にあるというものだった。
「矢嶋正一さーん。」
陽子の声と共に入って来た矢嶋さんは年齢のわりに背の高いスラっとしたおじいさんだった。
ちょっと神経質な顔立ちで、眉間にしわが寄っていた。
「見えないところがあるのですか?」
ひとみに尋ねられ矢嶋さんが頷いた。
「はい。見えないところを書いた紙をお渡ししたと思うんですが、あんな感じで見えないんです。」
診察の結果、矢嶋さんは中期を過ぎた緑内障だった。
緑内障とは視神経が障害され、徐々に見えないところが広がっていく病気だ。
診断には視野検査という検査を行う。
半球のドームのようなものに頭を入れると、ドームのあちこちが光るのだ。
光が光ったと思ったらスイッチを押し、見えないところがないか調べる検査だ。
驚くべきことにクリニックで行った視野は、矢嶋さんが持参した穴の開いた勾玉と完全に一致したのだ。
うわあ、なんてハイレベルな自作視野・・・。
緑内障は見えない部分が広がっていく病気だが、初期はほぼ自覚症状がない。
中期以降はここが見えない気がすると訴える人はいるが、たいてい”真ん中あたり”とか”右の方”とか曖昧な訴えだ。
治療は眼の固さである眼圧を下げるための点眼薬をさすというものだ。
矢嶋さんもその日から点眼が開始になった。
眼圧検査と視野検査を定期的に行い進行していないか診ていくのが、緑内障の一般診療だ。
矢嶋さんにもそう伝え定期検診を勧めた。
「視野検査は結構です。自分でわかりますから。」
まあ、確かにあのクオリティならそれもありかも・・・
一瞬そう思いかけたが、視野検査は欠けているところの検出以外にもデーター解析機能などもある。
なんとか説得してクリニックで定期検査を受けてもらうことになった。
その後、矢嶋さんの視野は点眼をしていても徐々に進行し中心部にもかかるようになっていった。
矢嶋さんはいつも外来に来る度、目が見えにくくてしんどいと訴えていた。
そしてある日、大きなため息とともに次のようにぼやいた。
「はああ。もっと早く死ぬつもりだったから眼ももつはずだったのになあ。長生きし過ぎちゃったからこんなことになって、参ったよ・・・」
「・・・」
実感の籠りまくった人生の先輩の言葉にひとみは何も言うことが出来なかったのであった。




