第一玄義:正義7
日が傾き、居住棟で食事が渡されるとき、アイテスは必要以上に周囲を気に掛けて椅子へと座った。
ノゼンダはちょうど対角線上から食事を配膳している。つまりは、その列まで彼が到達する前に、アイテスたちのもとに食事が配膳されるはずである。あまりの表情の険しさに、周囲がアイテスを気遣うほどであったが、彼はあくまで何もない風を装って応対していた。しかし、ノゼンダの手から人へと食器が渡されるその様子を眺めるだけで、胸が軋むように痛んだのである。
食事は何事もなく終わった。食器の片づけをするノゼンダに先んじて、アイテスは食器を持ち、配膳台まで運ぶ。その様子を寮母含め大人たちは不思議そうに見ていたが、アイテスは爽やかな笑顔で彼女たちに伝えた。
「手伝います」
輝くばかりの美少年に白い歯を見せられては、絆されるのは必定というもの。彼女達はアイテスに素直に礼を言って、食器の回収作業を任せた。
「じゃあ、ノゼンダ君、先に食べちゃいなさいよ」
「え、良いのですか・・・?」
水差しを持って控えいているノゼンダは戸惑いながら問い返した。寮母はうんうんと頷き、アイテスも少し低い声で「たまには良いと思うよ」と切り返した。
どこか温度のない言葉を受け取ったノゼンダは、少しの間逡巡してから頷き、食堂の末席へと向かって行く。無意識に険しくなる視線で彼を追いかけた後で、アイテスは急いで全員分の食器を片付けようと動き出した。
一人、一人と食堂から出ていくうちに、アイテスは素早く盆ごと食器を回収する。傍から見れば効率の悪い運び方に見えたが、それが却って「慣れない仕事を手伝う愛らしさ」を纏って見え、大人たちには好ましく映った。
ノゼンダは食堂の隅でよく噛まずに食事を続けている。まだ熱を帯びたスープの味わいに少しばかり目を輝かせるが、すぐにその目には儚げな色が戻る。目の前の料理を掬い取る間も、どこか遠くを見るような目をして、前屈みになるたびに顔にかかる前髪をそっとかきあげてスプーンを口へ運ぶ。
その光景が異常な事態であると認識できるのは、アイテスとノゼンダ、そしてグッズだけである。
食堂の片づけが終わると、同時にグッズが水を飲み干して立ち上がった。二人は合流するとすぐに彼らの自室へと向かう。周囲には御子達の無防備な雑談に溢れている。
二人は階段へと同時に踏み込み、隣り合って昇った。
「決行は今日から、目算通りの場所に別れよう」
「その時に大人たちに伝えればいいんだな?」
グッズの確認に、アイテスはかぶりを振る。
「それはノゼンダに遭遇した時で良い。確証の持てないことでお手を煩わせるわけにはいかない」
「わかった」
階段を上りきり、視界が開ける。二人の頭上にあったがやの声が横まで迫ってくると、再び口を引き結んで自室までの階段をさらに上る。やはり道を塞ぐように横一列に同時に足を踏み出し、足早に上っていく。
「それまではどう過ごす?」
「寝静まるまでは今まで通り」
グッズはくすくすと笑った。
「アイテスは真面目だからそういうの苦手だよなー」
「む・・・そんなことないよ」
自然と唇を尖らせた。自分がどれだけ外に気を遣っているのか。その様子を見て、グッズは目を弧にして笑う。それが彼なりのジョークだと察し、アイテスは敵わないな、と表情を崩した。
自室へ戻ると、同室人がベッドの上でごろごろとカードを眺めている。
「おー、遅かったな」
「アイテスが手伝うからだよぉ!」
グッズが円卓の上に顎を乗せる。同室人がいそいそと降りてきて、円卓を囲んだ。
「ごめん、ごめん」
アイテスが苦笑いを返すと、二人はすぐに手製のカードの束を漁りながら、難しい話をし始めた。
それを確かめて、アイテスはベッドを登る。予習・復習にはまるで手がついていないからだ。
二人は、同室人が起きている間は普段通りに各々自由に過ごした。夜の帳はすぐに落ちていたが、月が上りから下りへ差し掛かるまでの長い閑居の間、息の詰まる緊張感は僅かに身を潜めた。
やがて、半月が中天からゆっくりと傾き始める。部屋の明かりが消え、室内に寝息が響きだすと、アイテスとグッズはベッドを降りた。
暗闇の中にある互いの瞳にある僅かな光を頼りに、顔を見合わせて頷く。そして、二人はそっと扉を開けると、部屋を抜け出した。
強張った表情で辺りに気を配るアイテスは、階段を忍び足で下る。グッズはアイテスの踵に何度か爪先をぶつけながら、少し大股で歩いた。
「ちょっと・・・」
何度目かのやり取りの時には、すでに二人はすっかり夜目の利くようになっていた。足元のおぼつかない様子もなくなり、堂々とは言わずとも、子鹿のような忍び足もしなくなった。
玄関口に出る直前、アイテスはグッズを静止する。目を細め、カーテンの隙間から受付を覗き込んだ。
漏れ出した灯りは机上の油皿から漏れ出た微かなものであった。その貧相な明かりで手元を照らしながら、宿直当番の女性は静かに宿直日誌を捲っている。こちらを気にする様子はないと確信したアイテスは、グッズに向かって頷くと、グッズは内鍵を慎重に開け、中腰で外へと繰り出した。
学士区居住棟と学術棟を繋ぐ中庭に辿り着くと、二人は木製のベンチに腰かけて、あたりを見回した。
大きな広葉樹の真下にあるこのベンチはちょうど中庭を見渡すには丁度良く、人の気配に気を配った。
そして、アイテスは少し顔を持ち上げて、居住棟の窓をギロリと睨む。消灯後の居住棟に明かりは一つも無く、また開いた窓もない。さざめく静寂だけがあたりに漂っているだけである。
虫の音もない静寂の中、再び地上をぐるりと見回した二人は、素早く立ち上がり、分かれて移動を始めた。
グッズは資料館へ向かうために学術棟側の建物へ向かい、アイテスは居住棟側から共有部へと繰り出す。
独りになって、冷たい風が妙に体に凍みるのを感じたアイテスが、ぶるりと身を震わせた。急ぎ居住棟の連絡通路まで向かわなければならない。ただ、心臓の鼓動はひどく早く脈打っている。しめやかな空気も、晒された細い脛に絡み付いて心細さを誘う。何より、明かり1つない建物の沈黙は、その外壁が彼らにとって途方もなく高く視界を埋め尽くすのも手伝って、ひどく心を委縮させるのである。
共有部へ続く連絡通路に入った時、また玄関の戸口に手をかけたその時、その緊張感たるや。
彼は戸口に手をかけたまま深呼吸をして、もう一方の手で祈り石をしかと握りながら、扉を開いた。
静寂。大きな柱のような教祖、師のための棟が視界の中で際立っている。木造の懺悔室は闇に包まれ、その先を視認することも困難だ。
共有部の明かりは薄らと灯っている。それが却って緊張感を誘い、彼は慎重に一歩を踏み出した。
何となく袖口に両手を引っ込めて進む。息を殺して、摺り足でもするように低く足を上げて歩いた。
人の気配はわずかに感じられるものの、明かりの数は疎らである。ほぼ巡回の警備が辺りを見回しているだけであろう。アイテスは素早く彼らの前を横切り、共有部を南へ向かって行く荷卸し場の前まで来ると、彼は閉ざされた大きな木造の扉をきっと睨み上げる。高鳴る心臓の鼓動に合わせて、背筋に蝮でも這い上がってくるような冷たい感触が走った。
両開きの大扉に軽く手を掛けると、ぐぐ、とくぐもった音が響く。カンテラの明かりは当然彼の方へと向けられる。彼は急いで扉の中に滑り込み、そして重い扉を背中で閉ざした。
カンテラの明かりと共に、剣がカラカラと鳴る音が近づいてくる。もう潰れてしまいそうな心臓の辺りを鷲掴みにし、息を切らせながら荷卸し場の隅へと滑り込んだ。
彼の体をすっぽりと隠せる大きな樽の裏に身を隠す。緊張で呼吸が荒くなる。息を飲み込み、身を縮めて警備員が来るのを待つ。脚を揃えて、太腿と脛がぴったりとつけたまま、扉が大胆に、しかも軽々と開かれるのを、微かな明かりが地面を張って伸びる姿を見て察した彼は、目を瞑って口を引き結んだ。
かっ、かっ、と、軽やかな靴音が鳴る。
(来るな来るな来るな・・・!)
ほとんど隠し切れないほどの心音を、膝を胸に押し当てて強引に押し留める。やがて明かりがすっ、と彼の足元を照らすと、頭の上からすっかり気の抜けた声がした。
「なんだ、アイテスじゃないか。なんでこんなところに」
目を細く開けると、警備員の顔がアイテスの視界一杯に飛び込んでくる。首を傾げ、訝し気に眉を持ち上げる、武官の警備員である。
学術棟でも何度か巡回で見たことはあるが、相手が自分の名を知っていたことに、アイテスはまず震え上がった。警備員は無遠慮に、怯えるアイテスの足元から、ゆっくりと照明を当てて顔をまじまじと見つめてくる。
明かりはちょうど絹のような滑らかな脛を舐めるように上半身へと這い上がり、左に軽く流していた髪形を少し崩したアイテスの表情を照らし出す。
「冒険か?そういうところもあるんだな。意外、意外」
警備員はそう言って優しく言葉をかけると、アイテスの髪をくしゃくしゃと撫で回した。警戒心を解き、縮めていた体を離したアイテスに、彼は再び問いかけた。
「何か事情があるのか知らないが、あんまり感心しないぞ・・・」
「すいません」
アイテスはその場に正座をして塞ぎ込んだ。警備員は気を許しているらしく、その場で簡単な調書を書きながら、あくまで優しい声で続けた。
「で、こんなところに用事か?」
「・・・」
言い逃れできないと悟ったアイテスは、顔が火照りそうな情けなさを抱きながら、これまでの経緯を順序正しく答えた。警備員はそこまでやりやすい仕事が果たしてあったろうかと思うほど、スムーズに調書を取る。彼は事情を丁寧に伝えるアイテスに、却って感心を抱くばかりである。
一通り話を終えると、警備員は「ハイお疲れ」と、アイテスに手を差し伸べる。躊躇いながらアイテスが手を取ると、警備員が彼を立ち上がらせて尻や背中の埃を払った。
「いくら優秀とは言え子供だし、思いつめるのは良くないぞ。今日のところは帰っておけ、な?」
そう言って警備員は灯りを荷卸し場へ向ける。仄かな光では全体を見回すことは極めて難しいが、浮かび上がった灯りの周囲には、アイテスと、警備員の影があるだけであった。
アイテスが頭を下げて謝罪を述べると、警備員はアイテスの背中を優しく押して「帰って、寝な!」とそう見送るだけであった。
とぼとぼときた道を帰る、アイテスの背中は丸い。その後ろ姿をきちんと見届けた後、警備員は一度荷卸し場全体を隈なく灯りで照らし始めた。
樽の裏にある子供が縮こまった跡から始まり、木箱の中、計量用の大きな秤と、選別用の大きな机の下などを照らす。作業途中なのか、机の上に散乱したペンなどを除けば、その場に人がいた痕跡は見られない。彼はその場に暫く佇んで、机の上にあるペンを元の位置に戻す。そして、本数を数え、再びその場から辺りを照らした後、ようやく共有区の中へと戻っていった。




