第一玄義:正義5
黒い影のような感情と、夕焼けに照らされる長く伸びた影がアイテスに纏わりつく。彼は重い足を引き摺るように歩きながら、苦しそうに吐息をこぼした。
眉間の皺は一向に解けない。確かめなければならないことが、その手法が途轍もなく難しく感じた。
もし、彼自身であったなら、詰問された近いうちに、部屋から身を乗り出すようなことはしないだろう。つまり、ノゼンダもそれは同じことである。
ならば、一体どこから窓を覗き、外を仰ごうと思うだろうか?誰かに探られないように、足のつかないように外を見る方法・・・アイテスにはついに思い浮かびそうになかった。
それというのも彼が極めて品行方正であるためだったが、仮にアイテスでなかったとしても、ノゼンダの考えそうなことを思いつくことは難しかっただろう。それは、ノゼンダが他者との関わりを深く持たないがために、誰かに深い考えを告げることも無かったからである。だから、誰に聞いてもノゼンダの考えそうなことは分からないのである。
さて食事もそこそこに終え、アイテスは頭に入らない予習を終えた。周りはすっかり寝静まっている。寝苦しく思い、きっちりと閉めていたシャツのボタンまで外し、何度か寝返りを打つ。背中に貼り付いたシャツを進んではだけさせ、息苦しそうな表情でベッドを降りた。
降り注ぐ闇夜の明かりを頼りに、共有棚の前へと歩み寄り、音を立てないように戸棚を開けた。開けた瞬間に漂う独特の黴臭い香りが、彼の鼻を掠めた。
そこには、部屋に備え付けの青の教典が、神聖な佇まいでひっそりと置かれていた。アイテスは分厚い教典を手に取ると、表紙に被った埃をそっと払い落とし、それを開いた。
古い格式ばったフォントで印刷された文字は、彼が与えられた教典よりもずっと重厚感があり、荘厳である。もっとも古式の活版印刷技術で丁寧に印字された文字列の整然とした並びに、心を奪われた彼が1頁、また1頁と、教典を読み進めていく。
文章の中身も極めて重厚である。彼の所持する教典に、『私たち』とあった文章が、『我々』とあり、『あなた達』とあった文章が、『汝ら』とあるように。頁を捲るたびに感じる重さに、指先が名状し難い神聖性を感じ取る。
そうしてアイテスは確信したのである。『この神秘を守らねばならない』と。
しかし、その手法。問題はやはりそれであった。考えあぐねて頭を掻き、また頁を捲る。指先と紙の擦れ合う快感。古い紙特有の斑紋のような日焼け跡のざらりとした音。捲るたびに充満する特有の黴臭いにおい。
そうして、読み耽る間に、頭上から大きな音がした。驚いて顔を持ち上げた彼の視界には、ベッドの柵からはみ出したグッズの、足の裏があった。豆粒のような小さな足指に、僅かに白い指紋の跡がある。だらしなく尻をポリポリと掻く音が、この神聖な時間に不釣り合いに思えた彼は、その、自在に動く柔らかい足指をじっとりとした目つきで眺めていた。
「ふぁぁ・・・アイテスぅ・・・?」
突然、グッズが間の抜けた声で呟く。驚いたアイテスは咄嗟に教典を閉じ、声を掛けようか掛けまいかと悩んでいると、グッズの足裏がベッドの中へと消えていく。そして、入れ替わるように寝ぼけ眼のグッズが顔を覗かせた。
「あ・・・ごめん、起こしちゃって・・・」
アイテスは可能な限り小声で言うと、慌てて教典を棚の中へと仕舞った。グッズは寝癖で跳ね放題の頭を乱雑に掻きながら、普段より少し低い声で「んー・・・」と言葉にならない声をこぼした。
そして、少しの間ぼんやりとアイテスを見おろした後、大きな欠伸をしてベッドから降りてくる。
「寝てていいよ!」とアイテスが笑顔を見せても、グッズはほとんど開いてない目を彼の顔に近づけた。
「・・・悩みごと、俺でいいなら聞くよ・・・?」
本能に抗えずに表情から眠気は拭えていないものの、発した言葉には真摯な傾聴の姿勢がある。円卓越しにある眠そうな顔に、アイテスはしばらく葛藤を続けた後、口を引き結んで告げた。
「ノゼンダ君が穢に触れてしまった」
風が運んだ言葉は、しばらくグッズの耳元で留まったかと思うと、金槌で打つような強烈な刺激を脳へと伝えた。空気のない空間で言葉を伝えようとするかのように、グッズは口元でもごもごと言葉を紡ぎ、その末に小さな嘆息だけを零した。
「見てしまったんだ。彼が窓から身を乗り出している姿を・・・」
グッズは急いで手を裾で拭い、激しく平手で衣服を払う。激しく布を打ち付ける音に、同室人が寝返りを打った。アイテスは慌ててグッズを抑え込む。
「大丈夫、大丈夫!グッズは今日一日触れてないと思うよ・・・!僕は、少し話してしまったけれど・・・」
喉の奥に胃から上がってきた物がつかえるような気持ちの悪さを感じ、彼はぉぇ、と言葉尻でえずいた。そして、二人は夜闇よりも深い沈黙の中に沈み込み、一度円卓を囲んで座ったのだった。
良く磨かれた卓上には黄色い月影が反射している。アイテスは膝の上で手を合わせ、叱られた仔犬のように身を縮こめている。居心地の悪さに耐えかねて、グッズは努めて快活に続けた。
「ノゼンダと関わらないからいーよな」
「そういう訳にはいかない、この場所に穢れを留めるわけにはいかないよ」
アイテスは過去から連綿と築き上げてきた潔白の重さを唇に込めていた。語彙力の弱いグッズには、反論する言葉が見つからない。二人の間に、重く、淀んだ空気が漂い始める。
それが、穢の大きな効能であると、アイテスはノゼンダを呪った。怒りより深い悲しみに拳を震わせ、恐怖と苦しみに顔を歪める。その表情を隠すこともできず、ぼろぼろと大粒の涙を膝に落としながら、彼は断腸の思いで告げた。
「ノゼンダをここには置いておけない。証拠を押さえて、この場所を清める」
グッズにも、反論することは出来なかった。




