第一玄義:正義4
放課後、暮れなずむ日が中庭に差し込む中で、アイテスは宿題・復習を終えて教書を閉じた。
全く頭に入っていない、というのが分かるのも彼には苛立たしかった。彼は右足を左脚の爪先に乗せ、自分の脛までの高さがある黒いハイソックスと地肌の境界線をぼんやりと見つめる。
嫌な脂汗が浮き出した鼻先を乱暴に拭い、瞳から涙がこぼれそうになるのを必死に堪えていた。
自分の同胞を罪人として裁かなければならない。そう少しでも思考が過れば、彼は情けなさと絶望、激しい自責の念とに苛まれた。
艶やかな腿に浮かび上がる汗が、夕陽の明かりを受けてきらきらと輝いている。ガラス細工のように綺麗なレンズが滲んでいくのを、彼は必死に袖で拭い取った。
「・・・駄目だ・・・」
彼は首を振り、重い腰を上げると、爪先を見つめながら歩き出した。
学士区の居住棟の入り口を素通りし、彼の部屋がある寮とは別の居住棟の中へと入る。その居住棟には、彼の寮で言えば突き当りにあたる部分に、厳かな雰囲気の扉がある。
扉を開けると、子供と女性だけでない、大人の男性たちも疎らに集まる大きなエントランスホールのような場所へと辿り着いた。彼らの居室よりも高い天井に、シャンデリアがぶら下がっている。これに灯を灯して回る修道女たちの脇を、政治の話をする大人の男性たちが横切っていく。
アイテスは共有区の中央にある大きな柱を横切り、周囲を分厚い木材の壁で囲まれた、ごく小さな部屋へと向かう。その小部屋の前には石製の表札が掲げられており、冷たく折り目正しい文字で、『懺悔室』と書かれていた。
焦げ茶色に塗装された木製の壁の重厚感と、石材製の黒い表札、分厚い扉に掛けられた『受付中』の淡白な文字。総じて異質な雰囲気の漂う部屋の前で、アイテスは唾を飲み込んだ。
懺悔室を利用するのは、アイテスにははじめての経験であった。彼の周りには足しげく当地を利用する女性の話を聞いたりもするが、罪の意識や日々の敬虔な行いについて問い合わせるような事情自体が、彼には少なかったのである。
気軽に利用する者もあるが、全く利用しない者も多い。それだけに、アイテスは妙に緊張して、ぎこちなく、懺悔室の扉に手をかけた。
はじめて見る懺悔室を見回す。日中であっても仄暗く、明かりや窓の一つも無い。そのためか、目前に大きな壁とカーテンがかかった格子窓が一つある壁、その前にある小さな丸椅子さえ視認するのが難しい。アイテスは壁にある格子窓の向こうから僅かに差し込む明かりを頼りに、壁伝いに歩いて椅子を探し当てた。
椅子に座ると、カーテン越しに人の影が動いた。
「迷える子羊よ・・・ここにはどのような用事でいらっしゃったのですか」
カチッ、と背後で突然扉が閉じる音がする。アイテスは思わず肩をびくつかせ、目を見開いて振り返った。
暗がりの中では扉の様子は分からないが、錠がかかっているようだった。アイテスが呆然と扉を見つめていると、背後から微笑交じりの声が聞こえてきた。
「大丈夫ですよ、あなたの秘密を守るための措置ですので」
「あ、あぁ・・・そっか。そうですよね」
アイテスは脈打つ心臓を整えて答えた。
「友人のことでご相談が・・・」
「友人、と言いますと・・・?」
カーテン越しの声は穏やかに問いかける。カーテンに影が映るあたり、向こう側には確かに明かりがあるらしい。会話用の格子窓からは、僅かに空気が流れてくる感触がある。一瞬揺れた明かりのためにカーテンに映る人影が一瞬歪んだかと思うと、その影は落胆するように視線を落とした。
アイテスはとめどなく出る冷や汗が自分の腿を濡らすのを、ズボンの上に置いた拳で拭き取りながら答える。
「えぇ。友人、です・・・。友人が罪を犯したのではないかと疑っているのです。部屋の窓の外に身を乗り出して、つまりは『穢』に触れたのではないかと・・・」
人影が俄かに動く。横向きに座っていたらしい姿勢を少しずらし、組んだ足を解いて真っすぐに向き直る。そして、揺れる明かりの僅かな歪みに応じるように、そっと光源を格子窓の隅へと追いやった。
俄かに明かりが暗くなる。暗闇に沈んだ中に、横長に歪んだ人影が浮かび上がっている。
「なるほど。あなたは友人を疑い、また、それを確かめようとして懊悩しているのですね」
「えぇ、ただ・・・。もし通報してしまったら、彼は最早以前のように友人ではいられなくなるでしょう。しかし、友人がそうしたという確たる証拠は、僕の視覚しかないというのは・・・」
アイテスは言葉尻を濁した。仄暗い、荘厳な内装は彼の心をますます沈ませる。ただ、カーテンの向こう側にある灯りだけが、数少ない救いのように錯覚される。
人影が彼の腕に身に着けた祈り石を手に握り、両手でこすり合わせながら天を仰いだ。
「よろしい。確かに告解は聞き入れました。聞くところによると、あなたの罪は友人を疑ったこと、その事実を即座に通報しなかったこと。そして、あなた自身を偽ったことです」
「僕自身を、ですか?」
前者二つは彼自身心当たりがあった。それらしい言葉であると納得もしたのであるが、一つは心当たりがなかった。アイテスは顔を持ち上げて、カーテン越しの人影と向かい合った。
顎から汗が滴り落ちる。カーテン越しの影は祈り石を静かに下ろし、アイテスをあやすような口調で答えた。
「そう。あなたが本当に疑ったのは、あなた自身の瞳ではございませんか。青の民は全て、透き通った心を持っている存在。自らを偽ることはございません。それは、あなたが白の民であるが故の迷い。それを拭うことも、あなたに課された試練なのでしょう」
「あの、それは、どうやって・・・!」
「本当であれば、通報をするのが一番よろしい。師があなたのご友人を正しい手順で調べてくれますからね。ですが、もし、あなたが、あなたの別の罪を拭いたいと思うのであれば、友人への疑心と自身への偽りを拭うために、ご友人への疑いに対する確信を抱くべきでありましょう」
「つまり・・・?」
アイテスは自然と前のめりになった。相手の回答を固唾を呑んで見守っている。額から滲んだ汗が、頬を伝い、腿へと滴り落ちる。じっとりと濡れた拳を、強く握り直した。
それに対して、人影はしっとりと諭すように語り掛ける。
「つまり、明確な形で、また確かめてみるのがよろしいのではないかと」
「どうやって・・・」
アイテスが小さく呟く。即座に応答が返ってくる。
「あなた自身が納得いく形で、あなたの五感で確かめるのです」
アイテスは視線を落とす。顎に溜まった汗が首筋へと流れていく。開いた瞳孔が腿の上にある球粒のような汗を見つめた。彼は拳を握った手で、それを強く擦り拭う。瞼を下ろすと、自然に眉間にしわが寄った。
「考えて、みます・・・」
アイテスは苦しそうにそう声を絞り出した。相手の応答を待たずして、項垂れながら立ち上がり、物思いに心を預けてふらふらと立ち去っていく。
アイテスが扉に手を掛けると、錠が開いておらず、彼は何度か扉を強く引いた。そして、思い出したように踵を返すと、ガラスの向こう側にある灯りに向かって、首元の祈り石を掴み祈りの口上を述べた。
ガチャ、錠が開く音がする。そして、人影は「できれば」と声を掛け、格子ガラスを持ち上げて寄進箱を差し出した。アイテスは一枚の安価なコインをその中に投じ、先ほどよりは多少姿勢を直した状態で、その場所から立ち去ったのであった。




