そのさき
都市の防壁の上で、三人の青年が空を見上げている。彼らの視線の先には焚火を焚いた上に小さな布を被せた装置が浮かんでおり、ゆっくりと風に流れていた。
青年のうち、最も背の高いグッズが手で光を遮り、気球の行く末に目を凝らしている。その一つ隣では、容貌の優れたアイテスが不安げに気球を見守っていた。二人の間に挟まるような形で、椅子に座るノゼンダは、どこか悟ったような瞳で気球を睨んでおり、その脳内は既に失敗の確定した実験へ対するフィードバックに移っていた。
「おぉー、一番遠くまで飛んでるなぁ」
「でも、あれ以上高くは行かないね」
「そうですね・・・。今回も失敗です」
ノゼンダがそう言って立ち去ろうとするのを、グッズがぐいぐいと体を押し付けて遮る。アイテスは相変わらず気球の行く末に目を凝らし、時折視線をその真下に動かしていた。
「いいじゃん、一歩前進ってことでぇ」
「言われなくても分かっていることは言いません。そこを退きなさい」
ノゼンダの言葉にますます逞しい体躯を押し付けるグッズは、無邪気にゲラゲラと笑っていた。
彼らには一切視線を戻さず、風の中に漂う気球を真っすぐに見つめるアイテスが、会話に割って入る。
「じゃあ、天才っていうのは言われなくても分かってないことなんだ」
「えぇ、少なくともこいつとか、あなたとかは」
ノゼンダは淡々と答える。思わず二人が吹き出したので、怪訝そうに眉を顰めた。
気球はゆっくりと風に靡いて傾き、森の木にぶつかって萎んでいく。そのまま布が裂け、炎がぼとりと地面に落ちる。
アイテスが慌てて防壁を駆け下り、兵士に声を掛けて炎が燃え広がる前に火を回収しに向かった。二人は呆然とその様子を眺めていたが、慌ててグッズが水桶を抱えて彼の後を追うと、ノゼンダは小さなため息をついてゆっくりとグッズの後ろについて行った。
アイテスが何とか火を消すと、安堵のため息をこぼす。次の瞬間、グッズに灯芯ごと水を浴びせられ、目を瞬かせた。
「う・・・グッズ、ごめん」
「いや、悪い・・・。着替えに戻ろう」
「もう済みました?」
ノゼンダが暢気に戻ってくるのを、アイテスは叱りつける。
「もう、君の実験なんだから、自分で後始末する!」
「何故僕が?アイテスくんがいつもしてくれるではないですか」
「だぁぁかぁぁぁらぁぁぁ!」
二人が言い争っていると、グッズが腹を抱えて笑いだす。怒る理由も失ったアイテスは、ため息とともに立ち上がると、グッズの手を引いて都市へと歩き出した。
「いこ、グッズ」
「一体何が不満だというのですか?」
「きみは話にならない!」
アイテスが吐き捨てると、ノゼンダは不服そうに彼らの後について回る。とはいえ、アイテスは、内心では隣町まで菓子折りを届けに走らなくて済んだことを、心の底から安堵したのだった。
実験の夜、アイテスとグッズは夜風に当たりながら、空を眺めていた。冷たい風が頬を撫でるその日は、星々の瞬きが、澄んだ空気のために一層はっきりと視認できた。
「でも、残念だなぁ。俺が出る前に、青の民にメッセージ届かなくって」
グッズはしみじみと呟きながら、煙草を噛み締めた。アイテスは彼を諫める。
「体に毒だよ」
「分かってるって」
アイテスはため息をこぼす。彼の一対揃った美しい藍眼が、再び視線を空へと向けた時、グッズは名残惜しむようにしみじみと語り始めた。
「ホロのことは頼むぜ」
「任せろ」
短い承諾の後、グッズは不敵な笑みでアイテスにじゃれつき始める。突然のことで抵抗するアイテスだったが、結局はなされるがままに彼の体重をしっかりと受け止めて支えた。
吐息が旋毛にかかるほどの距離で、グッズは先程よりいっそうしみじみと語り掛ける。
「俺さ、ホロのこと、好きだったんだよね」
「えっ。告白しなかったのか?ごめん、僕・・・」
アイテスは目を丸くする。グッズは照れ隠しに彼を羽交い絞めにして、ぐりぐりと旋毛に顎を押し付けた。
「なんか、俺、ホロに助けられてばっかりだったから。ホロを助けられる想像ができなくってさ。この人と決めた人のことは、守ってやりたい、って、男なら思うだろ。だから、違うなって」
「それだけ恰幅が良くなったら、今は助けられるんじゃないのか?」
「どうかな。迷惑かけるだけかも」
しめやかな空気の中に、グッズが言葉を吐き出す。天へ向かって昇っていく吐息の色は、白かった。
「だから、アイテスにだったら、ホロを任せられるって思った」
「お前・・・」
アイテスがグッズの顔を見上げる。グッズははるか遠い場所に視線を向けて、清々しい笑顔を浮かべていた。
「なんかあったらぶん殴りに戻るからな?覚悟しとけ?」
そう笑いかけた親友に向けて、アイテスは真剣な眼差しで頷いた。
外で互いの心を確かめ合う二人の様子を、屋敷の中からホロが見おろしている。彼女は清浄な修道服を脱ぎ捨て、動きやすい町娘の装いで、二人を静かに見守っていた。
「グッズくん、明日には旅立ってしまうのでしょう。話さなくていいのですか」
彼女の後ろから、ノゼンダがはちみつとカステラを手に話しかける。彼はホロに視線を向ける様子もなく、カステラの上にはちみつを慎重に垂らしている。
「いざ離れるってなると、寂しくなっちゃうから」
「そんなものですか」
「そんなものです」
ある日、グッズは町の祝祭で披露した歌声を買われて、外国の宮廷歌劇団へと誘われた。一月ほど逡巡した末、アイテスとホロの結婚の話を聞き、彼は旅立つ決意を固めたのだった。
ノゼンダは祝祭の日もこの夜も関係なく、甘味を片手に設計図を描いていたのだが、ホロは少なからず動揺していたのを知っていたのである。それゆえ、情緒に大した関心を抱かない彼も、その日ばかりはホロの気持ちを察することができた。
ホロは二人が再び夜空を見上げ始めたのを見届けると、背伸びをして、ノゼンダの方へと振り返る。手を後ろに回し、一度だけ、窓の外に一瞥をくれたかと思うと、無感情にはちみつの上で泳ぐカステラをつまむノゼンダへ語り掛けた。
「本当は、グッズでもいいかな、って思ったんだよね」
「何が?」
ノゼンダは怪訝そうに眉を顰める。とろりとしたはちみつが皿の上に落ちるのを、舌を伸ばして遮った。
「結婚して、ついて行ってもって話」
「あぁ」
ノゼンダは無関心に相槌を打つ。その様子が、今のホロには程よく、心地よかった。自然と告白が弾む。
「でも、グッズがいなくなると、アイテスくん、どうなっちゃうと思う?」
「私はアイテスくんより、あれの方がどうなることやらと思いますが」
ノゼンダは目を瞑り、しっとりとしたカステラを舌の上で転がす。さながら品定めでもするように、ゆっくりと、その味わいを堪能している。
「アイテスくんってね、繊細なんだよ。自分の心を責任感で必死に支えて、自分の居場所を役割で固めて守っている。だから、グッズがいなくなると、きっと心も萎えてしまうと思うんだ」
私がそうだから、と付け加えなかったのは、ノゼンダがふとした時にアイテスにそう伝えないための、彼女なりの配慮だった。ノゼンダは興味なさげにふん、ふん、と鼻を鳴らして返事を返している。その様子が面白くて、ホロは少し笑いながら続けた。
「だから、『守ってあげたい』って思った。多分、グッズは大丈夫だと思うから」
彼女はゆっくりと伸びをする。ノゼンダは視線だけをホロに寄越し、はちみつで潤った指を舐めた。
「そういうものですか」
「そういうものです」
ホロが再び窓の外を見つめる。二人が広場から屋敷へと戻ってくるのが、視界の端に映った。
彼女の隣に割り込んだノゼンダは、夜空に向かって目を凝らす。空には、赤と白に明滅する星が、滑るように空を横切っていた。
「また、明滅する物ですか」
「あの流れ星、私も落ちる時に見たよ」
「あれは星ではありません。だとしたら『近すぎます』から」
「近すぎるって?」
「聞きますか?」
階段を二人の男が上がってくる、ガサツな足音が響いてくる。ホロは扉の方を一瞥すると、穏やかな微笑みを浮かべて、「やめとく」と答えた。
おしまい。




