それから
その日、ホロは四度目の腹痛の末に、赤子の声を聞いた。
「奥様、元気な御子ですよ!」
「御子・・・」
苦悶の表情は晴れない。泣きじゃくる赤子を抱き、浮かない表情で皺の寄った頬を拭う。目の端から零れ落ちる涙を拭えずに赤子を産婆に返すと、彼女は激しい呼吸の合間に深いため息をこぼした。
遅れてゆっくりとやって来たピウスが、侍女に話を聞きながら近づいてくる。彼の顔には喜びの感情はなく、ただ、貼り付けたような微笑みがあった。
「また、御子ですか」
「ごめんなさい」
ホロが言うと、彼は大きなため息をつく。我が子に一瞥もくれずに、ホロの傍に座り込むと、やはり妻と視線を交えることも無く、壁を眺めていた。
「今度こそ巫女を生めと、あれほど申し上げたではありませんか。義父上も自覚が足りないと、呆れておられましたよ」
「ごめんなさい」
「謝罪は不要です。言葉に価値はない。巫女を生むことに価値があるのです」
ホロはほとんど泣きそうになりながら、何度も謝罪の言葉を繰り返した。ピウスはそれを受け入れず、ただ滔々と、巫女でなければならない理由を語り掛ける。
「いいですか。巫女であれば、宮王に側室として入れる権利が、もうすぐ手に入るというのです。私はこの五年で十七段も出世し位階は四つまで上がりました。次の除目で父上を左大臣、義父上も右大臣に上がる。そうなれば、私が筆頭書記長、准大蔵卿※12となるように奏上して下さいます。あとはあなたが巫女を生めば、次の宮王に側室として迎え入れられて、晴れて義父上は宮大臣となるのです。あなただけが変わらず、巫女も生まず、もたもたしているのですよ。老いてしまえば御子も巫女も産めなくなるでしょう。すぐにでも夜伽を済まして、いい加減に役割を全うして下さい」
ピウスはそう言うと、力無く垂らしたホロの手を掴む。それを、侍従と産婆が諫める。
「おやめください、まだ体力も回復していないのに夜伽など・・・」
「汚い手で触るな!血で穢が移るではないか!」
ピウスは二人の手を払いのけ、苛立った様子で服を払う。
「やめて、あなた!」
ホロが彼の手に寄りかかると、ピウスは能面のような無表情を近づける。思わず彼女が震え上がるのを、歪んだ笑顔で迎え入れた。
「そのような自覚のないあなたにも、もう一度チャンスを差し上げると申し上げているのです。愛の為せる業にほかなりません。さ、はやく行きましょう」
ホロは泣きながら彼に手を引かれ、『嬌声の聖域』へと向かって行った。
何もかもが済んだとき、学士区の控室にある鏡に映った彼女は、げっそりと痩せこけていた。ひどいくまがあり、頬は削り取ったようにえらが張っている。乱れた髪がヴェールから出ているのを必死に隠し、彼女は机に突っ伏して泣いた。
あの日。新家成婚の儀が執り行われたその日。見つめ合う幸せな二人の顔が、本当は作り物だったのではないか。その時の表情を全く思い出せなくなっていた彼女は、聖職者になった自分のかつての旧友のことを思い出して、情けなくて涙が溢れてきた。
婚礼の神籤で結んで、貞節を守った聖職者となっていればよかった。後悔先に立たず、もはや彼女は後戻りができない。彼女は痩せこけた顔を持ち上げて、強引に顔を引き伸ばす。
控室から戻ると、厚化粧の同室人が深夜の受付で外出する御子に手を振っている。彼女は帳簿も差し出さずに、御子達の後ろ姿に声を掛けた。
「あんまはしゃぐなよー」
彼女の隣に座り、頭をもたげる。しばらくそのまま動けずにいると、彼女がホロの隣に椅子を寄せてきた。
「ちょっと、大丈夫?」
「うん、ちょっと、ごめん・・・。任せちゃって。私、駄目だよね・・・」
「クズなのは旦那の方っしょ」
彼女は背もたれに全体重を預けて、だらしなく手を投げ出す。思わず頭に血がのぼったホロは、自分でも驚くような大声で怒鳴った。
「あの人の悪口は言わないで!」
「あ、ごめん・・・」
厚化粧の彼女はそれだけ言って黙った。ホロは居心地が悪くなり、涙声で謝罪の言葉を吐き捨てると、寮の階段を駆け上っていった。
逃げた先は屋上だった。誰もいない静けさの中、空の星や月が眩く見えている。それらがひどく目に沁みてしまい、彼女はまたしても目を細めて泣いた。
自分には正しい道を一つも選べなかった。彼女は懐から小さな香炉を取り出し、乳香を焚きしめる。
古い記憶の中にある、穏やかな友人の姿が蘇ってきた。
もはやどこにいるかも分からない、幼馴染の姿も。
そして、謎めいたシャイな少年のことも。
最期に、この場所で菓子を摘まんだ夜の記憶が蘇ってきた。
あの時のことを思い、天を仰ぐと、群青色の空に白や青の星が散りばめられている。その中を、赤と白に光る星の列が、すばやい速度で駆け抜けていく。
彼女はそれを流れ星だと思い、必死に追いかけて耳飾りを握る。
そして、心に念じた。
どうか。
どうか。
私を解放してください、と。
激しい眩暈がしたかと思うと、突然、彼女の視界から赤と白に明滅する星が、幻のように消え去る。視界がぐるりと回り、全身を風が包み込む。
世界の全てが群青色に染まり、散りばめられた星月が遠ざかっていく。やがて視界にくすんだ白い壁が入り込んで、よくやく、自分が落下しているのだと気づいた。
静かに眼を瞑る。柔らかい物に背中を包まれた。
土と草のにおいがした。目を開けると、三人の青年が自分を覗き込んでいる。彼らの顔には覚えがあった。思わず視界が歪む。
「よかった、ノゼンダの言う通りになるなんて」
両目が揃った、きわめて端正な風貌の痩せ型の青年が心配そうに見つめてくる。彼に答えるように、今度は少し下膨れの顔をした、隻眼で眼鏡の青年が言った。
「当然です。ホロさんとその人とでは、生きている世界も価値観も違う。ホロさんが壊れるのは時間の問題でしたよ」
二人とは対照的に、背の高い、人好きのする活発そうな青年が、ホロの顔を覗き込んで笑いかける。
「無事でよかった、ホロ!」
「グッズ・・・!」
その顔を認めた途端、彼女の心は完全に機能を再開して、彼に抱きついた。温かく、硬い胸板の中に体を預けると、グッズの温い手がそっと彼女を慰める。彼女は成婚の儀からはじめて人の温もりに触れたかのように感じて、溶けていく心の為すがままに、言葉を吐き出した。
「バカ、グズッ・・・!グス、どんだけ、心配したと、思ってんの!」
「悪い、悪い」
「ホローさん、無事でよかったよ」
「どこが無事ですか。栄養状態が極めて悪い。すぐにでも保護しなければ」
ホロは三人に支えられながら、都市の城壁へ向かって歩み出す。気が付けば、彼らの傍らには中年の守衛が二人いて、そのうちの一人がアイテスを小突いてちょっかいを出していた。
足並みをそろえた六人が、都市の門をくぐる。その先では、救急用具を肩に掛けたマークが佇んでいた。
「お疲れさん」
「ありがとうございました、マーク先生」
アイテスは、いの一番にマークに礼を言う。その言葉に、マークは大きな欠伸で返したのだった。
「僕の知恵がないと救えなかったのに?」
ノゼンダが唇を尖らせると、付け加えるように「ノゼンダも」と声が返ってくる。彼は仏頂面を保ったまま、「はい、はい」と、無意味な言葉だけを受け入れた。
ホロは真っ先に、マークに渡された滋養強壮剤を飲まされると、そのまま安心したように微睡の中に落ちていく。グッズが彼女を抱きかかえながら、四人は守衛に礼を言って家路についた。
マークがとろんとした目で、大きな欠伸をする。アイテスが小さく謝罪をすると、彼はすこし背伸びをしてアイテスの頭を撫でた。
「君だけは、いい子に育ったねぇ」
「出来のいい子は僕ですが」
「なぁ、先生!俺は俺は!?」
「全員いい子だよ。二人はちょっとねじが飛んでるけど」
四人の足並みがそろって狭い路地へと入っていく。澄んだ夜空に、和やかな笑い声が響いた。
※12准大蔵卿・・・「准大蔵司」とも。大蔵卿が既にいる場合に、特に優れたものとして臨時に追加される大蔵卿のこと。権威としては大蔵卿と同格に、特に優れたものとして臨時に追加される大蔵卿のこと。権威としては大蔵卿と同格で、両者の承諾がなければ大蔵卿の執務が執行できない。




