触穢
深夜の穢土には広大な農園が広がっていて、畑と畑の間にある畦道に点々と家屋が並んでいるだけだった。
施設の周りをぐるりと囲む外壁は、白に泥土を塗布したように汚れていて、黄ばみや小さなひびも散見される。
内装の静謐な美しさを思えば、それは意外なことであったが、この施設の管理者が穢土へ繰り出すことができない以上、管理が杜撰になるのは仕方なかったのだろう。何とか長年施設の形を維持しているのは、穢土の職人などに費用を払って、外壁を整備して貰っているのかもしれない。
いずれにせよ、僕は触穢によって、もう施設に戻ることはできない。ただ、それだけが厳然たる真実として残っている。
しばらく夜の畦道を彷徨っていると、ほとんど洞穴のような家屋の中から、一人の緑の民が目を擦りながら現れる。その人は、全身を覆い隠す襤褸布のような服を身に纏っていて、僕には貧困にあえいでいるように見えた。
その人と目が合う。彼は僕を見るなりぱくぱくと口を開けて指を指し、慄きながら家へと駆け戻っていく。
そのまま立ち去ろうとした瞬間、二本の腕が僕の体をがっしりと掴んだ。
動揺して、必死に身を捩って抵抗する。誘拐犯をきっと睨みつけると、先ほどの緑の民が僕の右目を見て突然手を離した。
どさり、土の上に尻もちをついた僕を、その人は再び指差して家に向けて叫んだ。
「なんでか無事だぁ!」
意味も分からずその人を見上げていると、その人は僕に手を差し出して起き上がるように促す。その手を取り、服についた泥を払いながら身を起こした。すると、その人が僕の顔をまじまじと見つめて、物珍しそうに瞳に顔を近づけている。
「なんちゅう綺麗な御子やろか・・・。うちで養ったろかいな・・・」
「え、えっと・・・ははは・・・」
至近距離まで近づかれて、鼻の曲がるような臭いに思わず身を逸らす。恐らく怯えの表情が漏れていたのだろう、彼は少しだけ距離を置いて、妻らしい人に向けて大声を出した。
「この御子に薬はいらんでよ、家上げたってもええか?」
「そだな、入れたれ。脚も寒かろう」
その場で動揺しているのは僕だけで、あれよあれよと話が進んでいく。本当に、彼らは何のためらいもなく、僕の手を引き、洞穴のような家へと招き入れた。
内装もまたきわめて貧相で、食堂にあるような立派な釜はなく、火鉢と炉が一体となったような調理器具兼暖房器具を小さな建物の中心に置いて、剥き出しの地面の上に座り込んだ。
僕は炉の近くに置かれた木の幹を切ったものを敷き、その上に腰を下ろす。その様子を、家の主人は不思議そうに見つめていた。
僕が幹を引っ張り出した場所から、木を幾つか炉の中に放った主人は、三角形に広げた紐で材木と枝を繋ぎ合わせたような形状の道具を取り出すと、穴の開いた材木の中に薄汚れた綿のようなものを入れ、紐のついた材木を上下に動かし始めた。
すると、穴の開いた材木から煙が立ち始め、綿に火種が移る。こよりのようなものを取り出した主人は、それに激しい吐息を吹き付け、炉の下にある幹にこれを投じた。みるみる大きくなっていく火を見て、思わず足を逸らす。それを見て、夫婦は和やかに笑う。
「だーいじょうぶ。燃えやせんて」
「前に来た子よりちょっと臆病なんかね」
「きっと偉い人の御子さんよ」
などと、夫婦で勝手に話を進めながら、夫人は立ち上がり、家の中に備え置かれた野草を取り出して、炉の上に黒ずんだ鍋を置いた。明らかに衛生的ではない野草を、桶に入った水で煮だしはじめる。
「あの、えっと、お腹は空いてないので、すいません・・・」
というか、食欲がわかない。こんな質の悪い燻蒸めいたものを、「食べ物」として認識できなかった。
野草特有の生臭いにおいが仄かに香ってくると、顰め面を抑えることができなくなった。
僕の様子の変化に気づいて、二人は談笑をやめる。
「ん、やっぱ育ちのいい子なんだわ」
「こんなもんしかなくてごめんなぁ」
「いいえ、ごめんなさい!ご心配をおかけしまして・・・」
そう返したものの、気持ちが食欲を湧き立てるわけでもなく、僕の食指はその「食べ物」には伸びない。周囲の異様な生臭いにおいも相まって、ますます食事をする気は起きなかった。
「しかしなんでかこんなに一時に固まんのかねぇ、穢土送り」
「穢土送りなんて、十数年に一度あるかどうかだからねぇ」
そんな風に暢気に話す二人に、思わず頭を殴られたような衝撃を受けた。咄嗟に身を乗り出した。
僕の突然の挙動に、視線が一気に集まってくる。後に引くこともできず、僕は彼らにこれまでの顛末を打ち明けた。
僕の罪と罰について、話し続けるほどに心が打ちのめされて、半ばまで話し始めてぼろぼろと涙が溢れてくる。彼らが真剣に僕の話を聞く眼差しも、どこか険しいものに思えて、息を吐き出すのも苦しく思えてくる。
一気に話し終えた時、静寂の中に鍋の煮立つ音と、くべられた木々の弾ける音、僕の慟哭とが際立って響いた。
黒い袖が墨染色に薄くなるほどしとどに濡れた袖口に、なおも目を押さえつけて咽び泣く。それをとどめようと足掻こうとも、心の底から溢れる思いは止めようもなかった。
絶句していた二人がぽつりと口を開く。
「それはまた・・・大層なことで」
「辛かったなぁ・・・頑張ったなぁ・・・」
どうしても彼らの言葉が信じられなくて、僕は絞り出すように問いかける。
「責めないんですか」
すると、彼らは互いの意図を探り合うように互いの顔を見合わせる。
「だってなぁ、それは自分が悪いのと違う・・・なぁ?」
「そう、そう。君が罪悪感を抱くのは・・・ねぇ?」
含みのある物言いに、つい頭に血がのぼった。怒鳴りこそしなかったが、抑え込んだ言葉が顔を真っ赤に変色させる。八つ当たりしたい気持ちばかりがますます昂ってきた。
二人は僕が頑なに口をつけない「食べ物」をよそい合って食事をはじめる。日が昇り始め、山際が不吉な茜色に染まっている。それを取り囲むように漂う紫雲が優美に揺蕩い、穢れた色を包み隠そうとする。
「もし、君の心がそれを許さないんなら、君が直接行って謝ってくればええよ」
主人に同意して、夫人がうんうんと頷く。僕も、その通りだと思った。
「んん、それが、ええ」
そう言うと、夫人は僕のために早口で場所を伝え、主人は立ち上がって畑仕事の準備を始める。言った言葉を三度ほど確認し(聞きづらいので、二度も間違いを訂正された)、夫人に頭を下げた。
「ありがとうございます。行って、きちんと責任を全うしてきます」
「まぁ、まぁ、気負わずに行っておいで。お友達はそう恨んどらんよ」
長いこと留まってしまった罪悪感もあるが、それ以上に彼らへの感謝の念から、自分の手持ちの荷物を探る。何も良いものがなかったので、取り急ぎ自分のハンカチを夫人に譲ると、夫人は目をひん剥かせて驚く。
「こんな、高いもん、貰えんよ!」
「いいえ、気持ちですから。大したものじゃないですから!」
謙遜して断ろうとしたので、僕は頑なにそれを断った。何度もハンカチを押し付け合って、結局夫人はそれを有難そうに受け取った。僕からしたら不思議でならないのだが、彼女はそれを何度も拝んで天に晒したりして眺めていた。
僕は夫人に改めて感謝を述べ、都市への長い道を歩み出す。都市から荷卸し場へ向かう荷車を、額に脂汗を滲ませながら進む人々は、僕を物珍しそうに見つめて通り過ぎていく。奇異の目など構うことなく、僕は勇み足で都市へ続く長い泥の道を進んだ。




