穢れたのは僕だ
目が覚めると、いつもと変わらない朝がやってきた。青空から降り注ぐ白い明かりが、円卓の上に降り注いでいる。すぐに着替えを済ませ、荷物を纏めてから、階下へと降りる。食堂でせっせと働く給仕係の御子が、慣れない手つきで皿とグラスを並べている。僕は配膳の支度をする女性のところへ向かい、声を掛けた。
「お手伝いしましょうか?」
「ありがとう」
そう言って振り返ったのはホローさんだった。髪をヴェールの中へと完全に隠し、祈り石は深い色のものに変わっている。一瞬言葉を失った僕に、彼女は柔和な笑みで話しかける。
「婚礼の神籤を待たなかったから、聖職者にはなれないんだ。分かってたことだから、気にしないで」
アイテスくんのせいじゃないよ、と。そう答える彼女の笑顔はどこか寂しそうで、胸が締め付けられる思いがした。
それでも、平静を装って、彼女から受け取った水差しから、水を注いでいく。給仕係の御子に追いつくと、何となく気まずい雰囲気になって、水が空になってもいないのに一度ホローさんのところへと戻る。
どちらにせよ居心地が悪いのは変わらないのに、彼女が少しでも口の端で笑っているのを確認してから、御子の後ろへと戻った。
一目散に一番右の席にやって来た御子は、不思議な顔をして僕と給仕係の御子の姿を見ている。遅れて厨房から現れた大人の女性たちが、次々と食事を運んできては、トレンチャーにそれらを盛り付けていく。
今日の献立はタラと青菜を炒めたもので、朝食としてはかなり豪勢な代物だった。ホローさんが大人たちと仲睦まじく話している姿を見て、厚化粧の巫女との会話を少しだけ思い出した。
佇んでいると、「おい」と給仕係の御子に声を掛けられて、我に返る。
「手伝うんだったらちゃんと働けよ」
「あ、ごめん」
「チッ、なんで俺が毎日・・・」
などと愚痴をこぼしながら、僕を押し退けて食事を取りに戻る。僕は彼について回り、何度か肩をぶつけられながら、ようやく渋滞し始めた食堂の卓すべてに食事を運び終えた。
「ありがとう。やっぱりアイテスくんは優しいね」
席に戻ろうとしたときに、ホローさんに声を掛けられる。その微笑みがいつもより大人びて見えて、直視できずに目を逸らした。
「あの、ホローさん。結婚祝い、後で、渡すね」
そう言うと、ホローさんは目を大きく見開いて驚いたかと思うと、潤んだ目を細めて「うん、ありがとう」とだけ答えた。何故だか救われたような気になって、そのまま席に戻る。
「お、アイテス」
「おはよう」
同室人が気さくに声を掛けてくる。彼は僕の顔をまじまじと見つめると、無言でタラを少しだけトレンチャーに移した。
「精力つけろよ」
どう答えていいのか分からず、見慣れた笑顔に向けて作り笑いを返す。
「えっと・・・ありがとう」
彼は満足げに頷くと、それ以上は言及しないで食事をしはじめた。僕も、彼に倣って食事をはじめる。食事中に水が空にならないように気を遣いながら、少し物足りない食事を終えると、同室人に先んじて席を立った。
部屋に戻り、身支度を済ませてから、先日の香炉を手に取る。ずっしりと手に重みを感じる箱を慎重に受付まで運び、受付の窓から顔をのぞかせた。
「ホローさん」
僕の呼びかけに、寮母と並んで事務作業をしていたホローさんが振り返る。彼女は駆け足で僕のもとへとやってくると、僕の手元を見て純粋な笑顔を浮かべた。
「アイテスくん、ありがとう!」
僕は無言で香炉を渡し、彼女から色々とお礼の言葉を受けるのを、上の空で相槌を打った。3分ほど立ち話をしてから、彼女から「いってらっしゃい」という風に話を切られて、そのまま講義室へと向かう。
青と緑が眩い陽気の中を、荷物を背負ってゆっくりと歩く。風が吹いて葉擦れの音だけがする中、気配を感じて振り返った。
見ず知らずの御子達が、肩を並べて同じ方向へ歩いている。弾けるような笑顔とか、軽口を言い合って小さな諍いを起こす姿など、色々な表情が、とても輝いて見えた。
頬を少し触る。首筋がすこし濡れて気持ち悪いと思った。
時間が流れて、講義が終わって、自室へと戻る。予習と復習をして、食事をして、消灯の時間まで同室人のカード遊びを手伝う。
表情だけは笑顔が作れても、心の中にぽっかりと空いた何かは、どうしようもなく埋められそうになかった。
消灯のベルが鳴ると、円卓にばら撒かれたカードを元の束に戻して、ベッドの上で横になる。そうして、しばらく天井を見つめているうちに、自然と、視界が歪み始めて、頬が濡れた。
群青色の空から、月明かりが円卓の上へと差し込んでいる。聖典を入れた棚の上を漂う埃が、光を受けて、てらてらと輝いている。
世界中の穢れたこと、穢れていないこと全て、様々な輝きに満たされている。
あぁ、そうか。穢れたのは、僕だ。
あの日、ノゼンダが穢れを受けたその日から、僕の心には猜疑心が生まれた。
あの時、ノゼンダを追い詰めたその日から、僕の心には排他的な悪意が生まれた。
あの瞬間、グッズが犯したその罪を前にして、僕の心に迷いが生まれた。
ホローさんからの糾弾から逃げたそのずっと以前から、僕の心は確かに穢れていた。
穢に触れてはならない。それは、白の民の絶対的規律だ。触穢によって白の民に穢を運んではならない。
穢れた僕に、この場所は相応しくない。
そう気づいてからは体が軽かった。
グッズと、ノゼンダの追跡を試みた最初の夜のように、辺りに気を遣って脱出をする。暗闇の中にあっても、冴え渡る目を凝らせば、容易に視界が開けた。周回する警備兵の明かりを追うようにして、荷卸し場まで向かう。跳ね橋を下ろし、ガタガタと音が立つ中、夜空が遥かに明るい表情を覗かせる。降り注ぐ星月夜の瞬きが、跳ね橋の形に切り取られた姿は、あの恐ろしい穢土の前であっても美しかった。
心が汚染しつくされた僕には、世界中の穢は、あまりに美しくて、思わず、見惚れた。
そして、ゆっくりと、一歩を踏み出す。
音を聞きつけた警備兵たちが駆け付けた時、僕は跳ね橋の中央まで歩み出ていた。
「止まれ、アイテスくん!」
ノゼンダを穢土送りにしたあの時に、お世話になった警備兵の声だった。ゆっくりと振り返る。取り繕うように笑顔を向けた。
「馬鹿な真似はよしなさい。それ以上先に行っては、戻れなくなるよ」
彼は心の底から僕を案じているのだと分かった。それがどれほど有難く、また、情けないことだと思ったか。
「僕は」
ボロボロと、光の雫が溢れてくる。それが足元へ向かって、とめどなく零れ落ちる。
「僕の心は、すっかり、穢れてしまいました」
ありがとう。ありがとう。さようなら。ごめんなさい。
「やめろ、やめなさい!そんなことは、いけない!穢れてなど・・・!」
僕の足は、迷いなく、その一歩を、踏み出した。
一陣の風が吹く。頬を撫でる雫が跳ね橋に向かって落ちた。
背中から、誰かの嘆く声がする。
柔らかく無骨な土の感触。頬を撫でる風の激しい慟哭。彩り鮮やかな葉擦れの囀り。
あぁ、なんて美しいんだろう。僕の、心に比べて。
世界は、穢土は、なんて、美しいんだろう。




