空隙
空の澄んだ色、穢れなき白の壁、萌え盛る木々の緑。そして、鼻腔をくすぐることのない、透明な匂い。穢れは取り払われ、僕の住む世界には平和が齎された。
ただ、「何かが変わってしまった」という感覚、ぽっかりと心に空いた感覚だけが、僕の中には残されてしまった。
あれほど誠実に聖務をこなしていたホローさんは、一足先に成人を果たした。今しばらくしたら、共有区で新家成婚の儀 が行われるという。講義への参加はそのために免除され、ベールからはみ出していたホローさんの髪は彼女の希望通りにベールの中に収められた。
「あのホロちゃんが足抜けなんて意外だよねー」
「あー、あいつねぇ・・・。うまくいったんだ。あんな感じで・・・」
厚化粧の巫女達がだらしない姿勢でそんなことを話している。講義室は何ら変わりなく、誰も三人分の喪失を一顧だにしない。僕だけが、僕だけが取り残されたように、心の中に重い空隙を抱いているのだ。
「アイテス、大丈夫か?」
「あ、うん・・・。ごめん。どうしてもね・・・」
「もう、気にすんなよ。お前のせいじゃないって」
グッズの一件以来、僕の周りにいる御子達はそう言って慰めてくれて、他愛ない話で会話を盛り上げてくれる。
「アイテス、またカードやろうぜ」
「いいけど、復習終わった後ね」
僕は力のない微笑で返すと、彼は大袈裟にガッツポーズをして騒いで見せる。僕の口角も自然と少し持ち上がったが、刹那に脳裏を過る無言の重圧に表情が曇る。
「いよぉし、今度こそ勝つからなー!」
そういって席に戻っていく彼を、手を振って送り出す。僕がグッズから相続したカードにまつわる話も、こうして時折話題に上がる。それは寂しさを覆い隠すような楽しさもあるが、その分だけ、鼻の奥がつんとした。
彼が立ち去ると、顔に貼り付けた笑顔は自然と零れ落ち、机の上に視線が落ちる。細かな染みが気になって仕方がない。
ベルが鳴る。講義が始まって、静かな説教が始まる。聖典の解説と解釈を問う長い講義には、御子や巫女達の意思が入り込む隙は無い。講師からの質疑に対する応答も、宗教的に正当な回答でなければ、講師に諭されて正しい回答に導かれていく。その言葉の一つ一つが、どこか外の世界での出来事のようで、僕は教書を捲りながらただ言葉だけをなぞっていた。
「アイテスくん、君はこの件についてどう思う?」
腰が重い。立ち上がってからの周囲から齎される期待の眼差しが痛い。ただ、沈痛な思いをどこかに吐き出したいのに。どこにも、それを言語化するものがない。ただ、準えるべき言葉を準えることしかできない。
「僕は、婚礼の神籤について、不完全な平等性しか得られないように思います」
「それは、何故ですか?」
「婚礼の神籤には例外があります。新家成婚の儀です。これを用いて、実質的な家格の独占が可能に思えるためです。行政区における新家成婚の儀による例外の創設は、実質的に教義上のあるべき運用を損なう権威保持規定の創設です」
講師は柔和に頷きながら、「もっともな疑問です。アイテス、君はきわめて聡明な御子です」と回答に賛同した。そのうえで、彼の表情は真剣なものへと変わる。眼差しには深い知恵と思慮深さを映しながら、僕を中心とした御子と巫女達に訴えかけた。
「それを避けるためにも、我々は学士区と行政区を明確に区分しています。清浄な意思を持つ御子や巫女などの純粋な信仰心と愛を守り、公平な新家成婚の儀を行うことを目指しているのです」
新家成婚の儀の成立のためには、互いを知る必要がある。そして、家格や思惑を知るためには、御子は自分の家族関係を知らなければならない。それが難しいように、父母と完全に隔絶された状態で養育を受ける。そして、父母の血縁による愛情を否定する。これらが施設における『学士区』の実質的な隔離の理由である、と教鞭をとる講師は訴える。
今になって思えば、理不尽だ、と思う。
なぜ、僕達は知らされていないのだろうか?自分の親の顔や、互いの家格の違いについて。もしかしたら僕はずっと高い地位の親を持っているかもしれないし、もっと下の地位にあるかもしれない。それすら、知ることができないまま、大人たちからの推薦を受け入れるというのは。
とても、そう。理不尽だと思う。
僕はおずおずと席につく。講師は微笑みを湛えて、満足げに頷いた。模範的なアイテスへ対する、周囲の羨望の眼差しや、小さな話し声が聞こえる。
「賢い」「さすが」「やっぱり違う」「ウザい」「イイコちゃん」
ノイズを取り除かないで講義を聴くことが、これほど苦痛なことだったとは。僕は講師の導きに従って教書を捲り続ける。耳を通り抜ける美しい言葉たちが、靄のかかったような頭にますます煩わしい思考を運んでくる。
甲高いベルが鳴る。僕は祈り石を掴み、講師に続いて祝詞を唱えた。不思議なことに、身に沁みついた習慣は、思考の混濁とは相反して、とても流暢に唇からこぼれていく。それが今だけは憎らしいと思えた。
一人の食事が無いということが、不思議と煩わしく思える。自分に周りにいる御子達は、はしゃぎながら食事を摂っている。献立は様々で、贅沢に過ごしたい御子はワンプレートに様々な料理を乗せて運んでくる。忌々しい茶色い肉も中にはある。処理済みとはいえ、わざわざそれを口に運びたいと望むことは理解できない。
僕の手には、鯖を挟んだサンドイッチがある。鮮度の良いシャキシャキとしたレタスと、食欲をそそる緑の果実が入ったもので、特に元気を欲している時に食べることがある。
鯖の艶やかな皮と白い身が徳の高さを感じさせる。馨しい香りも、特有の強い脂みも、全てが一口で味わうことができる。本当に素晴らしい料理だと思う。
だから、最近の昼食はずっとそれを食べている。それでも、何か物足りない気持ちがするのは、きっと食事のせいではない。
僕に話を振ってくれても、僕は苦笑いしか返すことができなかった。あまり会話に思考が向かわないので、食事ばかりが速く進む。お腹の中に納まった贅沢も、少しも満足感を与えてくれない。
「アイテス食うのはや!」
「そうかな?」
「黙々と食ってるもんな」
「そうでもないよ」
僕は皿と皿に挟まれながら教書を取り出し、滑る文字を眺めていると、不意に視界の端に友人たちの手が入ってきた。手元には鰯や鯵などをより分けた皿が乗せられている。
「アイテス、元気出せよ」
そう言って差し出された皿を、僕は静かに手を添えて押し戻した。
「ありがとう。ごめん・・・」
しばらく差し出しては返すというやり取りが続く。僕は頑なに差し出される皿を返し続け、歪む視界の中にある濡れた教書を眺めた。
教書の上に雫が零れ落ちる。受け止めようとするように、差し出された皿を何度も押し返し、袖口で涙を拭った。
「ご、めん・・・。ちょっと、ぼく、いま」
顔を持ち上げて、微笑みかける。
「・・・いや、悪かった」
相手は辛そうに眉を顰め、皿に乗せられた料理を自分の口へ運んだ。
気が付けば、何も読み進められないまま、高いベルの音が鳴った。
それを繰り返すうちに、僕は今、何について虚しさを感じているのか分からなくなっていった。
ただ漠然と、「虚しい」気分が続いている。漠然とした、さながら遥かに続く穢土の荒野に放り出されているような、そこから施設を探すかのような、息苦しい気分。それが、思考にかかった靄を一層深く重いものに変えていく。
部屋に戻ると、丁寧に整頓された戸棚がある。円卓の上の隅に置かれたカードケースに、一つ一つ丁寧に仕切られた山札が置かれている。少し脂っぽい臭いのする下段のベッドは丁寧に手入れされて、わずかに香水のにおいもする。身長に対して手狭に感じられたのか、はだけさせたままの布団の上には、何度も寝返りをしたであろう跡が見える。
僕は下段のシーツを整え、布団を綺麗な形に整える。そして、顔を持ち上げて、主人のいない上段の様子を見た。
丁寧に整頓「されてしまった」ままのベッドを眺めていると、自然と心の中がざわざわとし始めて、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。靴下を濡らす雫は川のように溢れ出し、僕はたまらず自分のベッドの中へ潜り込んだ。
布団の中に丸まって、相続した黒曜石を手に抱きしめる。ごつごつとした手触りと冷感は、ちょうど僕の心を蝕んでいる感覚のようであり、必死に手でなぞり続けた。少しずつ温度を持ち始めた石の表面を、心臓に合わせるように胸に押し付ける。とめどなく溢れ出す涙がシーツをすっかり濡らしてしまい、心地よさからは程遠い感触が顔面を包み込んだ。
やがて、視界が忌々しい茜色に、そして優しい暗色に移ろっていく。
布団を払いのけ、闇の中で身を起こすと、下段のベッドで休む同室人の輪郭が視認できた。それは蛆虫のように盛り上がって時折蠢き、体毛が生え始めた脚に蹴飛ばされる。彼は外気に晒された脚をだらしなく掻いたかと思うと、放り出したばかりの布団の上に無防備な足を重ねて、それで挟み込むようにして布団を抱き寄せた。
どうしても眠ることができず、円卓前まで降りていく。聖典を取り出そうと試みたその時、指先が小刻みに震えていることに気が付いた。焦って視線を逸らすと、僕を見おろすように明るい月が瞬いている。
静まり返ったカーテンが波打つさまに恐れをなし、僕は円卓に躓いて卓上に倒れ込んだ。
凄まじい音が立ち、背中に激痛が走る。足元に丁寧に整理されたカードが散乱して、脛に打撲の痛みがじんじんとしみてきた。
大きな音に気が付いた同室人が焦って起き上がり、灯芯に明かりをつける。同時に、浮かび上がった僕が円卓の上で号泣している様を目撃しただろう。彼は急いで僕の名前を呼びながら円卓から体を持ち上げる。
おいおいと涙を流すことしかできない僕に、彼は必死に声を掛け続けた。ようやく、絞り出した僕の声は、本当に小さな声で、嗚咽交じりで、情けないものだった。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
目に沁みるほど眩い月が僕を品定めしている。円卓の上で震える子供の体は、あまりに小さくて、それを抱く手はとても温く、力強い。
どうして。
どうして僕は、こんなに小さいのか。
どうして、僕は、こんなに。
※10 新家成婚の儀・・・婚礼の神籤に依らず結婚が成立した際に行われる結婚式。また、俗称として『足抜け』。新たな『家格』の成立を老師塔で認定され、新郎新婦は新家の創始者となる。




