第四玄義:敬虔8
朝日と共に懺悔室へと出勤したピウスは、早速新たな用紙に家系図を書き込む。ノゼンダが穢土へ流されたことにより、聖職の最高責任者の後継者の地位が空く。ペンでノゼンダの名に一本の傍線を引く。完成した家系図を持ち上げ、浮ついた心のままに表情を綻ばせる。
しかし熱が冷めると、次の課題についていろいろと重苦しい思索が襲い掛かってくる。
聖職者としてのキャリアは、懺悔室にいる限りは、彼は完全に無関係ではない。しかし、そちらに伝手は無いのであり、せっかくならば近道で出世を目指したいところである。
彼が思索に耽っていると、裏口の扉が開かれる。彼は慌てて家系図を机の中に隠し、書棚にある問答集を取り出して男のもとへと向かった。
男は少々憔悴した様子で、力無く挨拶をする。ピウスは問答集を直接手渡ししながら、「ご体調が優れませんか」と純粋な親切心で問いかけた。すると、男は苦笑いをこぼし、自嘲気味に答えた。
「いや・・・はは。少し、大変なことが起きたようで・・・」
上目遣いにピウスを見上げる瞳は、どことなく恨めしげである。ピウスは目を瞬かせ、思い出したように炊事場へと向かった。
「そうだ、良い茶葉があるんです。元気が出ますよ」
「いやぁ、そんな気分では・・・」
男は問答集をパラパラとめくると、すぐに自らの脇に挟む。ピウスは白湯の用意のために、鍋と水桶を手に取っている。
「本当にどうなされたのですか?何か困りごとであればお力になりますよ」
「えぇ、まぁ・・・。左大臣様が今朝の騒動でひどく動揺しておられて」
「今朝?兵士が騒がしかったことですか?左大臣様が?なぜ?」
用意しようとしていた道具を厨房に置き、ピウスは男に顔を向ける。その憔悴ぶりは肌艶にまで現れており、元々白い肌がひどく青ざめて見えた。
「えぇ。実は、拘留された御子様が、左大臣様のご子息だったそうで」
「それは・・・お気の毒なことでございました」
「えぇ。それで今もひどくご気分が優れない様子なのです。参議にもいらっしゃらないとのことで・・・」
男は深いため息をこぼし、ピウスに作り笑いを向ける。ピウスが目を白黒させていると、彼は去り際に曲がった背中を向けながらこう続けた。
「実のところ、この一件は誰かが糸を引いているように思えるのです。あぁ、しゃべり過ぎました。それでは」
心臓が酷く激しく脈打ち、額から冷汗が浮き出す。汗は頬や鼻先を伝い、ぼとぼとと机の上に零れ落ちる。
ピウスは机に肘をつき、大きな深呼吸をする。頭の天辺から指先の末端まで空気が満たされると、心臓の鼓動がわずかに大人しくなり、乾いた唇に関心が向かい始める。彼は用意した鍋の水を一気に飲み干すと、荒々しく袖口で口を拭い、うわごとの様に「大丈夫だ、大丈夫」と呟いた。
心を整えた矢先、懺悔室の扉を激しく叩く音が荒々しく響き渡る。思わず飛び上がるほど驚いたピウスは、ドアノブがガチャガチャと何度も回されているのを目にする。恐る恐るボタンに手を伸ばす。
途端に勢いよく開け放たれた扉に驚き、慌ててカーテンを閉ざした。
「どうか・・・お導き下さい」
聞きなれたホロの声であった。ただならぬ雰囲気を漂わせる、か細く、消え入りそうな声である。ピウスは灯りをともす片手間に、闇の中へと問いかけた。
「どうしたのですか、このような時間に。まだ講義中でしょう」
同じ言葉を繰り返す相手に対して、何度か同じ言葉を繰り返す。苛立ちながら声を荒げたピウスの問いかけに、ホロはようやく身を竦ませて言葉を絞り出した。
「私の目の前で、友人が穢に触れ、それを友人が断罪しました・・・」
(・・・知ってる)
あくびが出そうなほど退屈な相談に思えた。それでいて極めて不愉快な問いかけでもあった。彼は椅子に座り直し、姿勢を整えて問答集のページを開いた。
ホロは昨日見た一部始終を説明する。自分の想定通りに動く御子達の幼稚な無防備さに呆れながら、親身に告白を聴く風を装って、頷きながら問答集に内容を書き記す。
次に答えるべき言葉を考えつつも、問答集の上にある端正な文字に反して、カーテンに映る相手の影はまるで陽炎のようにおぼろげに動く。そっと手を合わせ、救いを求める彼女の影は平坦で、あまりに薄っぺらい。
「なるほど・・・。全てはあなたの思う通りに進まなかったということですか」
影が震えながら頷く。一瞬失言をしたと身構えたピウスだったが、相手には怒りや憤りを示す余裕すらないようである。ただ、口が滑ってしまわないように、一つ咳払いをして猫なで声で語り掛ける。
「あなた自身に罪は一つとしてありません。穢に触れたこと、その友人がまず罪深く、続いてそれを罰した友人が、軽率であったのだと言えます。そこで・・・あなたへの禊として、ご提案します」
「はい」
祈りを捧げて手を合わせた影が、姿勢を整える。ピウスは言葉を溜めるふりをして、彼女の心を壊す言葉を模索する。そして、彼特有の悪魔的なひらめきによって、自分の権威を傷つけずに鋭利なナイフの刃先を握らせるように彼女を誘導した。
「この事実を、あなたの口で、きちんと、老師へと伝えなさい。そして、その結末を知るのです」
ホロは消え入りそうな声でぼそりと「はい」と答えて、そっと祈り石を握り直す。ピウスはそろそろ頃合いか、と考えて、彼女の所作を似せて自らも祈り石を握りしめた。
彼女の真摯な祈りの口上に合わせる片手間で、ピウスは寄進箱の中から硬貨を取り出して、明かりの周りに並べ始める。肘でそっとカーテンをうち開けると、硬貨に燭台の明かりが反射していることを半目で確認すると、彼はカーテンの裾を肘で格子窓へと押し付け、固定した。
ホロの反応はピウスの思惑通りであった。闇の中できらきらと輝く幾つかの光に気が付くと、ホロははらはらと涙を流し、そして、心を改めて立ち上がる。寄進箱を格子窓から差し出すより素早く、彼女が立ち上がったかと思うと、勢いよく扉の方へと駆けて行った。
ピウスは声を掛けようとして、すんでのところで思い留まる。咄嗟のことであったので、鍵のボタンは開けたまま、また、寄進箱のまわりには硬貨が散らばったまま。ピウスはそっと立ち上がると、肘で押さえていたカーテンが自然と閉ざされる。そして、彼はそのまま硬貨を寄進箱へと戻しつつ、扉が完全に閉ざされる音を聞いて、片づけをしたその手でボタンを押し直した。
その後、普段と変わらない時間が流れる。早朝の告白からは数時間、何事もない平和な時間が流れていく。ピウスは懺悔室を掃除したり、羊皮紙の削り跡を纏めて机の上で丸めて暇をつぶしながら、この閑居を過ごしていた。
昼食でもとろうか、と格子窓の前に鞄から取り出した冷えた白米を詰めただけの桐の弁当箱を開けたまさにその時、今朝のように乱暴に扉が開かれ、からからと金属製のベルが鳴ると、ピウスは苛立ちながら弁当箱を脇に置いた。
弁当箱が格子窓から視認できない場所まで動かされるのと同時に、女性の影がカーテンに向かって激しく駆けつけてくる。影は椅子に座ることもせずに膝を折り、格子窓に縋り付くように手を伸ばした。荒々しく触れられる格子窓を開くと、カーテンの向こう側から白くしなやかな女性の手が伸びてくる。
「私のせい、私のせいなんです・・・!グッズが、グッズが穢土送りに・・・!」
涙ながらに訴える声はとても正気とは思えなかった。激しい慟哭のあまり懺悔室のルールさえ守れず、カーテンからピウスに縋り付くかのように手を伸ばす。
カーテンの間、暗闇の中から伸びてくる白い手は、ピウスに言いようのない恐怖を植え付けた。
「お、落ち着いて、落ち着いて下さい・・・」
「落ち着いていられません!グッズが・・・グッズがぁぁぁ・・・グ、グズッ・・・」
その時、ピウスは動揺の中にありながら悪魔的なひらめきを得た。彼はカーテン越しに伸びてくる手に恐る恐る近づき、心を決めて一息にその腕を掴み返した。
強引にカーテンの中に彼女を引き込むと、ピウスは涙で真っ赤になった瞳を目一杯に自分の体を近づける。そして、彼女の肩に手を回し、瞳に涙を浮かべながら彼女を強く抱きしめた。
「あなたのせいじゃない・・・!!あなたは素晴らしい人だと、私は毎日この場所で聞いていた!」
若い柔肌に荒々しい吐息が触れ合う。抱き寄せた手をそっと彼女の手に回し、自らの額を彼女の清廉な額に重ねた。
人は極限状態での経験を強く記憶する。ピウスもひどい目に遭った経験ほど、よく覚えていた。それが今なら役に立つ。論理的な理屈など知らぬ、何らかの神的な力を状況が纏う。
暫く瞳を揺らし、じっとピウスを見つめていたホロは、みるみる顔を歪ませ、鼻水と共に涙を肌に伝わせる。
彼女は思い切り彼に抱きつき、大声を上げて泣いた。ピウスは即座に涙を引っ込め、真顔で泣きじゃくるホロのベールをそっと撫で上げた。
格子窓に引っかかるように引き寄せられた体は、懺悔室の側から見たらどれほど滑稽だろう。冷笑的な想像に心の疼きを慰めながら、ピウスは静かに彼女に胸を預けた。
泣き疲れたホロを格子窓から懺悔室の方へと優しく押し戻すと、彼は手元のボタンを操作して内鍵を閉める。
落ち着いたホロが静かに涙をぬぐう姿に、ピウスは僅かながらいじらしさも感じたのだが、一匙もそれが愛情に昇華する様子はなかった。ただ、「この程度で」出世の道が開かれるなら安いもののように思えた。彼は優しくホロの頭を掻き撫で、彼女に語り掛けた。
「ホロ様が気に病むことはないのです。私は誰より、あなたの献身について見守ってきたのですから。ですから・・・もし心が治まらないなら、どうぞ私に身を預けて下さい」
依存の甘言。そんな安っぽいものが、驚くほど効果てきめんであることに、ピウスはホロの体温に触れながら感じ取った。その温もりを手応えというならば、彼は確かに今手応えを感じている。
「グッズ、グッズは・・・私がいないとだめだったの・・・」
「うん、うん」
「ダメだったのに、私、最近怠けちゃったから・・・だからグッズは・・・」
「それは違う、君のせいじゃない。君は素晴らしい人だ」
何度も何度も、この問答を繰り返す。退屈なピウスはホロの背中を摩ってやる速度を時折変えながら、彼女を宥め続けた。やがて一刻ほど泣き続けた後、ピウスはホロに手を差し出す。
「大丈夫だ。君を私が癒す。・・・できれば、君の心に触れた数少ない伴侶として」
そう言って再び彼女を強く抱きしめると、彼の背中にそっと柔肌が触れる。その後しばらく互いの温もりを確かめ合うと、彼女は、彼に永遠の『従属』を誓ったのである。




