第四玄義:敬虔7
行政区を一周する渡り廊下が激しく軋む音が、明け方の施設に響き渡る。ピウスは騒々しさの中で目を覚まし、何かが起こったことを直感した。彼は急いで身支度を整えると、同室人が寝息を立てている中で、飯盒を取りに行く素振りを見せながら、ドアノブに手を掛けた。
「待て」
ベッドの上階から低い声がする。驚き振り返ると、彼の父は起き上がってピウスを睨んでいた。目も開き切っておらず、まだ髭も整えていない父の表情は、どこか間抜けに見える。
「だって、飯を取りにいかないと」
「ルーティーンの飯盒獲得のために、そんな足音を立てるか」
「だって私くらいの年ですから、腹も減るでしょう?」
床板を激しく足で蹴りつけるその音は、普段、施設の行政官がするべき作法であれば、即ち片足を引き摺る所作であれば、絶対に響くことのない音である。ピウスの言い訳はあまりに白々しい。
髪をかきあげ、寝癖を倒した父親がベッドから降りてくる。ピウスは微笑みこそ崩さなかったが、それは緊張感から口角が硬直して、身動きができないようにも見えた。父親は我が子の喉をそっと持ち上げ、目を細めて威嚇する。
「何かを企んだな。言ってみなさい」
「・・・あなたと私の未来を思ってのことです」
二人は睨み合いを続ける。父の険しい表情に、ピウスは薄ら汗をかきながらも、あくまで真剣な眼差しで答えた。二人は互いの真意を探ろうと、瞳の奥を見つめ合う。
やがて足音が止むと、父は我が子の顎にかけた手でピウスの首をドアに押し付け、激しく揺さぶった。
「お前が一体何を企んでいるのか。父には情報が多くない。悪しき企みであれば、お前をすぐにでも勘当してやることもできる」
「左右両大臣の御子達を、一挙に政争から排除する企みです。これは今しかできない好機なのです」
父はピウスの襟首を掴み上げ、激しく揺さぶる。後頭部を扉に擦りつけられたピウスは、髪をくしゃくしゃに乱され、静電気で毛髪が立ち上がる。激しい脳の振蕩に眩暈がして扉の前でへたり込むと、父親を睨み上げたピウスが未だ幼さの残る声を荒げた。
「あんたが私を末端に推薦したんだろ!成り上がって来いって!」
「道理に適わぬ政を命じた覚えなどない!」
「同じ白の民なのに、私の人生を支配できるほど、あんたは偉いのかよ!」
「お前に宮仕えをさせるには潔白さが足りぬと言っているのだ!」
「あー、白、白、白!何でも白だな!ここはぁ・・・!」
ピウスは父親の脛を激しく蹴飛ばした。寝間着の裾が靴跡で汚れると、報復とばかりにビンタが飛んでくる。
ようやく騒ぎに気が付いた同室人たちが、両人を何とか引き剥がす。互いに長らく喧嘩などしたこともなく、流血沙汰の傷には至らなかったことを確かめ、同室人たちは安堵の溜息を洩らした。
その態度が気に食わなかったために、ピウスは衝動的に扉を蹴る。部屋中に響く鈍い音に。父親は彼に「おい!」と怒号を浴びせた。
幸い、両者がともに体力のない文官だったため、荒い呼吸音だけが残る。ピウスはその場で手を腰に当て、呼吸を整える。一方で、父親は同室人の肩を借り、静かに立ち上がって衣服の汚れを叩き落とす。物々しい沈黙が室内を包み込んだ。
警備兵や近衛兵の新人が一気に出動したために、炊事室へ向かおうと廊下へ繰り出す顔ぶれがすっかり変わってしまった。動揺しながら何事かと囁き合う声が扉越しに響いたとき、ピウスは平静を装って身を翻し、沈黙を保ったままドアノブに手を伸ばした。
「待て、お前から話を聞くまでは、食事などする気はない」
背中に受けた言葉を、しかし、ピウスは受け取ることなくドアノブを回した。
騒めき炊事室へと向かう一団の中で沈黙を守りながら、彼は流れに任せて目的地へと向かった。
炊事室から漏れ出す大量の蒸気は、彼には以前よりどす黒いように思われた。彼は自然と手にかかった祈り石を握り、静かに瞳を閉じる。炊事釜を掴んで小走りで部屋へ戻っていく先輩達を見送りながら、ついに彼の順番がやってくる。
すると、彼は炊事釜を受け取り、落ち着いた様子で部屋へと戻っていく。帰路の途中、遅れてやってきた軍官装束の男達とすれ違う。
「おい、今朝の騒ぎって・・・」
「穢に触れたって子の奴は昨晩に解決したんだろ・・・?」
「学士区どうなってんだよ・・・。物騒だな・・・」
ひそひそと話し合う同僚がピウスの姿に気づくと、彼らはどこか怯えた風に会釈をして、彼の前から立ち去っていく。彼は短い会釈だけを返して、すれ違う同僚たちに表情も変えない。背後でひそひそと話し声が聞こえた時、彼は釜の取っ手を強く握り、唇を噛み締めた。
ただ、それに答える人はいない。彼が自室へと戻ると、腕を組み、正装に身を包んだ父と同室人が円卓を囲んでいた。彼は玄関先で一度立ち止まり、正面に居座る父の視線を避けるように顔を伏せた。後ろ手でドアノブを閉じ、ゆっくりと釜を円卓の中心に運んだ。乱雑に乗せられた炊事釜がどん、と荒々しく置かれたかと思うと、ピウスは不貞腐れたように乱暴に胡坐をかいた。
「食事の前に、何をしたのかを話せ」
「少し、長くなりますからね」
彼はそう返すと、事の経緯を丁寧に話し始めた。触法行為はなかったものの、彼の悍ましい計画に同室人は震え上がった。両書記長が手に持つ干し鰯や醤が食卓に上る様子はなく、ピウスの父は彼の息子のあまりに壮大な計略に目をひん剥いて怒っている。
当の本人があまりに無関心なのも、彼の不興を買った。一通りの説明を終えたピウスは、父から視線を逸らし、どこか馬鹿にした風にベッドに向かって笑いかける。
「どうしても品行方正を重んじるならば、私は父のように出世できそうにありませんよ」
「・・・わかった。今度の除目で花を持たせるとしよう」
父はただ項垂れ、絞り出すように声を出した。静かで沸々と湧き出す怒りは、ピウスの心には響きそうにない。彼は挑発的な微笑みを父に向ける。
「それが婚姻祝いですか」
「そういうことだ。食べるぞ」
世の中は不思議とうまく行くものだな、と、ピウスは勝ち誇った。食卓には、長らく食べ損なっていた貴重なたんぱく源が添えられ、朝食としてはきわめて豪華な献立となった。ピウスは学士の頃に慣れ親しんだ甘やかな脂身をその身に収めて喜びながら、ご機嫌な様子で朝食を終えた。




