第三玄義:善意4
心に残ったしこりが、グッズの表情に染みのように影を落とす。休憩時間を挟んだ後の講義の間、グッズはただの少しも眠気を感じなかった。皮肉なことに、心の騒めきが向学の姿勢を作り上げたのである。もっとも、それは彼が講義を聞いているという証明には全くならなかったのであるが。
耳に届く言葉が全て流れていく。その代わり、深く心に染みついた幾つもの情景が、グッズの心を苛んでいた。
アイテスの怒号、影のさした瞳、憐憫の眼差し。
ホロの御髪の香り、濡れた胸元、吐息の音。
それらが代わる代わるに心に浮かんでは消え、意味の分からない不安の感情が彼に襲い掛かる。吐き出すあてもないままページを捲ると、再び、以前手を止めた挿絵に視線が動いた。
吸い込まれそうな不思議な挿絵である。男女の姿を描いた、黄金の板。彼の視線はそのまま釘付けになった。
椅子の上が窮屈に感じられて身動ぎする。足を内股にして、むずむずと動きながら、不思議な感覚に怯え続けた。講義がすぐに終わってしまえ、そう願ったのは生まれてはじめてであった。
しかし、時間は残酷なほど融通が利かない。彼が時計を気にすれば気にするほど、1分1秒がより長く、より緩慢に刻まれるようになる。堪えられず腿を窄め、膝の上に手を置いたまま、目を閉ざして時間が過ぎるのを待つ。そうすると、機械時計の秒針が一刻一刻を刻むその音が、一層大きく耳に届いた。
そうして、なんとか時間をやり過ごした彼は、一日の講義が終わると、すぐに席を立った。いつでも元気を持て余していた彼だから、すぐに席を立つことには誰も気にするそぶりは見せないが、その素早さたるや。ほとんどベルの音が響くのと同時に、席を立ったのである。
彼は教書もその場に広げたままに、鞄だけを肩に掛けて駆けだしていく。アイテスが曇った表情で顔を上げる。風の中でカーテンが揺れる様だけが、彼の視界に映った。ゆっくりと首を動かして視線をグッズの席に向ける。既に席にはその姿がなく、アイテスは眉尻を下ろしつつ立ち上がった。
この時アイテスは様々な懸念の中で一等グッズとの関係を憂いたのであるが、グッズはもはやアイテスとの関係について考える余裕はなかった。『心と体の異変』に気づいた彼は、下校中の人々を押し退けて廊下を渡り、階段を駆け下りる。
まだ西日が射すには早い時間帯、空は青々とした快晴で、窓から差し込む明かりも清々しい。その中を、一気に駆け下りて降っていった影は、そのまま中庭を通過し、資料室へと至る。資料室は御子や巫女ら受講生のために開かれた設備であり、教育上必要な展示品を揃えた施設である。グッズは学術棟内の図書館と並んで、もちろん興味などない施設であったため、この時が初訪問であった。
まず、彼の前には関所のような二つの窓口に囲まれた狭い門が立ち塞がる。といっても、一般開放されている設備であるから、この窓口は単なる訪問者の集計用の設備である。
息を荒立てながら受付を覗き込むと、薄暗い受付内から図書を片手に持つ巫女が彼を覗き返す。彼女は退屈そうな、じっとりとした目つきでグッズを見つめ、受付表とペンを彼の前に差し出した。
ペンを手にしたグッズがミミズの這ったような文字で名前を書き込むと、巫女の方は少し馬鹿にしたような微笑を浮かべながら、グッズに入館するようにジェスチャーを送る。
彼女の侮辱的な態度にもかかわらず、彼は自分の心臓の鼓動が高鳴っているのを感じて当惑しながら、促されるままに資料館へと入った。
館内には数名の学友たちがおり、赤いロープで隔たれた展示品の数々を回覧している。はじめには白の民の歴史を示す蝋人形が並んだエリアがあり、そこを見れば文字の不得手な者でも、原初の信仰の形を理解することができた。
そこから、各エリアの区切りにある関係図書を纏めた書庫ゾーンを潜り、展示は穢土に群生する動植物の剥製のエリアへと続く。剥製のエリアに至ると、グッズは少し感情の揺らぎが収まっていくのを感じた。中庭で見慣れた虫たち、羊や兎など、白の民の行政棟や共有部でも飼育されている家畜の類のほか、見たことも無い生物の剥製が並んでいる。グッズは口を半開きにしたままそれらを眺め、白いプレートに記された説明や名前はほとんど読まずに、展示エリアを回覧していく。
続いて、展示は技術のエリアへ。ここでは建設用の工具や工芸品用の道具、文化活動用の筆記用具、絵筆、そして楽器などが、概ね用途を纏めた形で、多様に展示されている。それらは触れられるように幾つも並べられた長机の上に置かれ、実際に手に触れる観覧者もあった。グッズはあまり関心を示すことなく、目線だけで順路通りに展示物を追いかける。物の1分も経たないうちに、薄暗い関連書籍の展示空間へと至り、この長大かつ纏まりのない図書の山を素通りして、次の展示エリアへと入る。
一気に周囲を闇が支配した時、グッズはこの上ない不安に駆られ、通路を小走りに歩く。球場の天井があるこの展示エリアには、中央に非常に大きな球形の装置が設置され、それが赤いロープ(といっても、闇の中で色彩の識別は困難であるが)で囲まれている。グッズが天井や壁面を見上げた時、彼は目を見張った。
集った光が、天井の球場を回転している。ゆっくりと動く中央の装置に従って動くそれら無数の光は、星座や惑星の形を時折示しながら、同心円状に巡っている。円の中心には一際照る星、つまりは我々で言う所の太陽と形容すべきものがあり、その周りを彼らの「地」が回っている。そして、その遥かなる外、どことも見えぬ彼方に、不動なる青の星が一際強く輝いている。
それは白の民が誇る奇跡であった。遍く信仰はこの、一際照る星を中央に置いた地と星の秩序から外れ、不動の位置を示している。この青の星こそが我々で言う所の天上であり、照る星をそこに置き、列なす惑星の中に彼らの地を置いた青の民の安住の地である。グッズでさえ、腰に結わえた祈り石を胸に持っていき、遥かなる地を伏し拝むよりなかった。
神秘の展示を超えると、次には巨大なアストラリウムが展示されている。古い精巧な天文時計であり、照る星を中心とした天体の軌道を緻密に再現する。天体の微妙な傾斜などまでを含めて、彼らの天文へ対する叡智はきわめて正確であり、白の民が長らく『青の星』を探し求めていたことを暗示していた。
グッズもまた、天文時計が現すこの『地』が自分達の踏む土から見た同じ景色とは思えずに目を見張った。しかし、確かにそれらしく規則的に動く姿を目前にして、彼は驚きと共に小さな感動を抱いてこの展示物を観覧する。しばらく天体が動くさまを眺めていたが、一周までに一時間かかる精巧な展示を全て眺めるわけにもいかず、地のレプリカが四分の一ほど動いたところで、展示室を出た。
そして、広い展示室が最後に現れる。そこには、「信仰の箱」の原寸レプリカが安置されていた。未知の物質、未知の構造を持つ信仰の箱を、穢土の様々な類似した物質で設えたこの展示物は、信仰の奇跡を纏って観覧者を見つめている。
グッズがそれに近づき、目を見開いた。呆けて眺めるその視線の先には、黄金色に輝く不壊の絵画、グッズの心を強烈に捕らえたその絵画がある。驚くべきことに、グッズは再びあの感情、ホロに抱かれた際に感じたそれと類似したもの、そして教書の挿絵を眺めた際に感じたあの強烈な感情のうねりを再び抱く。心臓が高鳴り、体が火照り、下半身が強張って頬が紅潮した。長くその場に留まっては狂ってしまいそうだと感じたが、それでも体は貼り付けられたように動けず、彼は内股で何とかその場を後にする。参考文献が並ぶ静かな空間の中で、長い深呼吸をして心を宥めると、グッズはこの感情に対する答えを見いだせないまま、逃げるようにその場を立ち去った。




