第三玄義:善意3
体を揺する手の感触もなく、機械的なベルの音がぐわんぐわんとグッズの頭上で鳴る。心地よい寝覚めと言うにはあまりにも乱暴なそれで、珍しく彼は目を覚ましたのである。
芋虫のようにベルから撥を外し、大きな欠伸を一つする。自慢の機械時計を確認すれば、時刻は既に朝食を過ぎて二回目のベル、つまりは登校時間のベルであった。
この時点ですでに違和感を覚えたグッズが、向かいのベッドを覗き見ると、アイテスはぼんやりとヘッドボードの方を眺めている。瞳がしっとりとした膜に覆われたような、どこかくすんだ色が混ざって見えた。
流石のグッズも、その日のアイテスが少し普段と異なっているということはすぐに分かった。目覚めが普段よりもゆっくりで、どことなくとろんとした目つきをしていたし、顔色も白いというよりは青いというべきで、具合の悪そうな様子でもある。
「病気・・・?」
寝癖も跳ね放題のまま、半分の開かない瞼で見たグッズは、開口一番に彼にそう尋ねた。物憂げな様子で顔を持ち上げたアイテスは、取り繕って口角を持ち上げて、わざとらしく楽しそうに笑う。
「ううん、大丈夫。元気だよ」
グッズもそれ以上のことを深堀りするのは憚られて、通学の準備をはじめる。所作の所々に違和感を覚えつつも、必要な動作を必要なだけこなすアイテスの動きは、体調の不良を感じさせなかった。ただ、心ここにあらず、と言った様子が、ありありと感じ取れるだけである。
こうした時に、グッズは自分がどうするのが良いのかを本能的に理解していた。彼の周りにいる人々が、時折心が沈むことがあることを、彼は知っている。そういう時、彼は普段通りに過ごすのが最も彼らの心を慰めることを知っていたのである。それは、グッズ自身が気にしないことによって、意図せずに人の安らぎの場を提供しているからであったが、難しい分析を、彼はしたことも無かった。
しかしそれだけに、今回ばかりは、それが通用しない深刻な問題であるとまで気づくには、理解が及ばなかったのである。
いつものようにグッズが先行して飛び出していく。少し遅れて加速するアイテスの顔色をちらりと覗き見ると、やはり普段よりも色が白く感じられる。わずかに乾燥した唇から、余裕のなさが感じられる。
中庭に繰り出した時、グッズはそこにホロの姿を見つけて、普段より勢いよくじゃれついた。
グッズは普段より遅れて中庭へとやってくる。
ホロの騒ぎ立てる声を無邪気に喜びながら、追ってくるアイテスから逃れるために即座に学士棟の階段を駆け上っていく。
全て普段通り、ただ、階段を半ばまで上がったところで、彼は少し振り返った。もちろん普段は講義室まで一切足を止めることなどない。アイテスが追いかけてくる様子はないか、そう束の間に思った為であった。
階段を、荒い息遣いが昇ってくる。アイテスのそれである。登校中の御子達がアイテスのために少し道を譲っていた。それを見て安堵したグッズは、一息に階段を駆け上る。爽快な風を全身で受け止め、感情の赴くままに講義室まで駆けて行った。
「おはよう!」
「おお、グッズー、アイテス・・・?」
学友の声が心地よく彼を迎え入れる。普段ならばそこから連なるようにアイテスが、薄ら汗を浮かべて登ってくるのであるが、今日はそれが挨拶三つ分ほど遅れていた。学友が声を絞ったのはその為だろう。遅れてやってきたアイテスが、扉に手を掛け、片手を挙げる。
「はぁ・・・おはよう、みんな・・・。もう、グッズゥー・・・」
アイテスはようやく歩速を緩めて中央の席へと向かう。グッズが鞄を自席に放り出し、巫女などから出るごく些細な注意の声を無視してアイテスの席に向かうと、アイテスは手提げに手をかけたまま、鞄にもたれ掛かるようにして体を丸めた。
「今日も俺の勝ち!」
「だから競ってないって・・・。それより!ホローさん困ってたよ!」
「へへ、大丈夫、大丈夫」
アイテスの口からため息のように「もう」と声がこぼれる。それが普段と変わりない様子であったので、やはりグッズは安堵して彼のつむじに顎を乗せてもたれ掛かった。周囲はアイテスの様子を気遣って、小声でグッズを諫める。ただ、それは普段通りの光景にも思われたので、周囲の人々は誰も何も思わなかった。
ベルが鳴り響くと、学友たちは慌ててそれぞれの席に戻っていく。こうした時にも、グッズが席に戻る速度はやはり速い。窓際でぼんやりと雲の流れを見ているノゼンダの次には、既に席についているのである。
彼らの足音が収まると、講師がやってきて教壇へゆっくりと登っていく。御子達や巫女達の方に彼が向き直った瞬間に、一同が起立し、祈りの口上を述べた。
『一日が平安でありますように』
グッズはそれとなくそう祈ったが、そこに深い思慮は含まれていなかった。
椅子に座る音が収まると、講義が始まる。心地よい子守歌が聞こえて、彼の瞼が重くなる。時折重なり、そしてしっかりと塞がれる。
ただ、視界の隅にあるアイテスの横顔が、ひどく浮かない様子であることを、眠りにつく前の数秒の間に、彼は感じ取っていた。ただ、欲望を抑えることも無く、彼は静かに眼裏の黒に染まる景色に、身を預けたのである。
普段であればそれでよかったし、やはりそれは正しかった。グッズはすっかり心地よく眠りこけてしまい、アイテスと関わることなく昼食の時間を迎えたのである。
甲高いベルの音に目を覚ましたグッズは、大きく伸びをして体を解す。猫のように拳を机上に揃え、思い切り椅子を引いて体を伸ばすと、清々しい気持ちでアイテスの様子を見た。
彼には普段通りに見えるが、少し疲れた様子である。髪の毛も普段の流れに任せた艶はなく、つむじの流れが無機質に黄色く肌の上をなぞっているだけだ。
彼の周りでは解放感に満ちた様子で仲のいい人々と集まる御子や巫女達が、食事を広げている。彼もまた、アイテスと談笑しながら食事を摂ろうと、鞄を揺らしながらアイテスのもとへと向かった。
しかし、彼がアイテスの席へ向かうのを待たず、アイテスは素早く立ち上がる。どこか苛立った様子で、顔にも暗い影が落ちている。彼はアイテスがどこかへ行ってしまう前に、席から声を掛けた。
「アイテス、飯食おう、メシ!」
アイテスからの返事はない。それどころか、彼は気づいていない様子で、すぐにでもどこかへ立ち去ってしまいそうであった。
乾いた御髪が揺れる。グッズの脳裏を、嫌な直観が走った。
無視されている。もしかしたら、昨夜カードゲームのことで盛り上がったのが良くなかったのではないか。グッズはそう思いついて、拗ねたアイテスをあやそうと、彼に纏わりついた。
「おーいアイテスー、起きてますかー。俺なんかしちゃったー?」
一瞬のうちに、暗い顔に赤い怒りの色が染み出す。普段のアイテスが見せない顔色であった。一瞬の間をおいて、アイテスは暗い瞳でグッズを睨みつける。
「なに?ちょっと急いでるから。ごめん、後にしてよ」
声音は普段より低く感じた。嫌な沈黙を挟むのが恐ろしく思えて、グッズはごねるようにアイテスに背中から纏わりついた。
「なんでだよ、一緒に飯食おうぜ。昨日のことはごめんよ」
「うるさいなぁ、ちょっと忙しいんだって!」
グッズは俄かに静まり返る周囲にさえ気が付かなかった。浴びせられた言葉は床から突き出した釘のように鋭く、足元を伝って彼の心臓を揺るがす。鼻先まで影で怒りを隠した、鋭い視線が、揺れる心臓を貫く。釘に打ち付けられたように、足が竦んだ。
「・・・ごめん」
ほんのか細い声しか出すことができなかった。声音には謝罪よりも恐怖の色が強く乗っている。それが伝わったのか、アイテスは我に返り、気まずそうに視線を落として同じ言葉を返した。
「ごめん」
咄嗟に何かに気を取られたアイテスは、逃げるように教室を後にする。それが明確な拒絶のように思われて、グッズはぼろぼろと涙が零れ落ちるのを抑えることができなかった。
ぶるぶると唇が震え、視界が滲みだす。落涙が足元に落ちると、冷たい雫となって靴に浸み込んでくる。
やってしまった。怖かった。端的な感情の羅列が積み重なり、グッズは不安に心を苛まれてみるみる涙を地面に零した。
周囲が騒然となる中、真っ先に彼に駆け寄ってきたのはホロであった。ヴェールが顔にかかるのも構わず、グッズに寄り添って声を掛ける。
「・・・ど、どうしたの?グッズ」
宥めるような優しい声が聞こえた時、彼は安堵のあまり一層涙が溢れるのを抑えられなかった。ホロはグッズをそっと抱き締める。温い肌の温度と共に、ヴェールの裏側にある髪の香りがそっと匂ってくる。癖のない、泡立てた石鹸のような、清潔極まりない匂いである。それがほんのりと香ってくるたびに、グッズは心の底からの不安を次々に、瞳から零していく。
「アイテス、怒ってどっか行っちゃった・・・。どうしよう、俺・・・」
ホロが彼の背中をそっと撫でる。温い感触が背中から首筋から感じ取られる。こぼれた声が纏まりを失い、ごちゃごちゃとした頭が再び音として溢れ出した。それは甲高い鳥の断末魔のように辺りに響き渡り、教室中を異様な雰囲気が漂い出す。
「あなたは時々アイテスくんにも迷惑をかけるでしょ。だから、これを機会にちゃんと謝りなさい。きちんと、ね。そうすれば大丈夫だから、許してくれるからね」
ホロが彼をあやすたびに、心の中に安堵と別の感情が芽生え始める。その正体が分からないままに困惑するグッズは、ズボンの裾をぎゅっ、と強く握りしめ、先ほどとは異なる不安から声を上げて泣いた。それに気づく者などなく、ホロもまたそれに気づく素振りはない。俄かに拳に溜まる汗がズボンを湿らせ、素肌に貼り付いて気持ちが悪く感じられる。グッズは溢れる不安をその場に吐き出すために、声を上げて泣き続けた。
やがて、周囲からの声が我に返った彼の耳に届くようになる。嘲笑や、好奇の声が聞こえてくる。それがひどく彼の耳に残り、居心地が悪くなって一層不安が増大した。よく見れば、ホロの胸元まで自分の涙が濡らしているのである。そこに居られないほど居心地が悪くなり、泣き声を抑える。すると、嗚咽交じりの声に役割を終えたと判断したホロが、そっとグッズから手を離した。
『もったいない』
一匙でもそう思った心に困惑しながら、理性でズボンを伸ばすように裾を握りしめ、涙を飲み込む。
そうしている間に、講義室の扉が少し乱暴に開かれた。グッズを含めた一同の視線が扉の方へと向かう。深刻そうに俯いたアイテスが、そっと顔を持ち上げた。
グッズは居てもたってもいられずに、アイテスのもとへと駆け寄る。ほとんど縋るように彼に近づいた。
しかし、謝罪の言葉が喉元に出かかったところで、彼はその言葉を引っ込める。意外そうな顔をするアイテスの目が、暗い影の中から講義室の明かりの前に現れていたからだ。グッズは懊悩しながらも、努めて気丈に振舞って笑顔を作る。
「お、お帰り!なぁ、飯食べちゃった?」
心臓が激しく脈打つ。アイテスの表情がわずかに曇ったように見えると、グッズは再び泣き出しそうになる。それよりも先に、アイテスの表情は憐みの表情に変わった。
「お待たせ。・・・ごめん、食べよっか・・・」
アイテスの表情が心に突き刺さる。沈んだ声が、無理に絞り出されたことを克明に物語っていた。グッズは泣き出しそうになるのを抑えて、再び笑顔で取り繕う。向き合う二人の「会話」に本心と呼べるものはなかった。
ただ、グッズは、その日の冷めた昼食が、普段のそれにも増して物足りないものに感じられた。




