第三玄義:善意2
グッズにとって講義の時間は子守歌を聞く時間である。何を聞いてもピンとこないし、退屈で眠気を誘うからである。とはいえ友人が近くにいるし、真面目に聞きはしなくとも隙間時間に話を出来るのだから、講義に行かないという理由もない。友人に比べて元気に過ごすことができるのは、恐らく子守歌に負けた回数だけ元気だからであろう。
その日の講義も同じような講義時間を過ごしていたが、一つだけあまり眠らない時間もあった。
手持ち無沙汰に教書を捲りながら眠気を紛らわしていた、午後一番の講義のことである。
心地よい昼下がりの日差しの中、眠気覚ましに教書の端をつまんで頁をパラパラと流し見していたところ、ある一枚の図に手が止まったのである。
自分達によく似た姿の男女が描かれた、黄金の板を映した資料絵である。極めて簡素な素描で描かれており、脇にある文字を読めばそれが信仰の箱に描かれた絵画であることが示されている。資料として描かれてはいるが、それ自体が重要なのではなく、その原料に関する事細かな考察が書かれている。つまりは、教書に書かれている文章はこの物質の成分分析に関することであって、その絵やその物が『何であるのか』はグッズには読み解けなかった。
ただ、無性に心惹かれるものがある。不思議な感覚であったが、グッズはそれを目にして頭がぽかぽかとして、腿から上の辺りがむずむずとしてくる。彼にはそれはそれほど不快ではなかったが、ただ、感じたことのない変化であったので、困惑した。そうしてこの絵画を眺めている間に講義が終わり、第四科が始まる。
第四科になって初めて、講堂に集まった御子達や巫女達はそれぞれ分かれていく。グッズが教書を鞄に放り込んだとき、彼の同室人であり、親友でもあるアイテスが嬉しそうに彼に声を掛けた。
「第三科は起きてたね。偉い、偉い」
「へへぇ、聞いてなかったけどなぁ・・・」
「まぁ、進歩、だよね」
アイテスは苦笑いをこぼす。グッズの近くにやって来たアイテスは、既に第四科の支度を整えている。ちょうどグッズの視界の高さに、脇に挟んだ工具などを入れた箱がある。グッズはにかっ、と歯を見せて笑うと、彼も鞄の中を漁って、縦笛を引っ張り出した。
「じゃ、またあとで」
「うん、寝ないでね」
そう言うと、アイテスは工具箱を大切に抱えて工作室へと向かう。グッズは持ち応えの良い、ちょうど武器になりそうな長さの笛をぶんぶんと振りながら、上機嫌で次の講義へと向かった。
退屈な講義の中では、第四科がどれほど充実したものであるかは、言うまでもないことである。音楽では、音階の基礎、音曲の歴史、数学的見地からの楽曲の価値など、様々な座学はあるのだが、他の講義にはない実践がある。グッズは特に講義を聞きもしないが、この実践で自由に笛を吹いたり、聖歌を歌ったりすることで十分に気分を紛らわすことができた。
何より、音楽室の敷絨毯はとても触り心地が良く、寝心地がいい。うとうとと舟を漕ぐだけで、彼は幸福な感触に酔いしれることもできた。
「・・・ズ、グッズ!起きて、ほら!」
「んんぅー・・・」
その日も、講義の前半を睡眠時間にあてたグッズが、肩を揺すられて目を覚ます。もはや彼の居眠りに対して、講師も触れない中、肩に置かれた冷えた指先を感じ取り、全く開かない目を何とか一割ほど開く。指先の感触がする方へ顔を向けると、今朝いたずらをしたばかりのホロが呆れた様子で彼の顔を覗き込んでいた。
「んんー・・・おはよう」
「おはようじゃなくって・・・。ほら、演奏の時間だから・・・。みんなの迷惑になるから!」
グッズは冷えた指先に腕を引っ張り上げられるのに任せて、ふらふらと立ち上がる。他の御子や巫女達は、楽器を構えたままその様子を眺めている。誰もが見慣れた光景に、特別な感情を抱くことも無い。
「んんぅー。今日の曲はなんだっけ・・・?」
「もぉ!話聞いてないからでしょう!?教えてあげないから、演奏聞いて追いかけなさい!」
ホロは怒り心頭の様子で頬を膨らませる。グッズは何となく足元がむずむずするのを感じて貧乏ゆすりをする。そんな素振りなど知る由もなく、ホロはすぐに持ち場へと戻って笛を構えた。
グッズは彼女が笛を構える一部始終をしばらくぼんやりと眺める。それに気が付いたホロが、呆れた様子で「寝ぼけてないで、ほら!」と楽器を構えるように促した。
不思議なことに、グッズの中に残念な気持ちが芽生え、しかし、その原因が分からないまま笛を構える。彼は半分ほど開いた瞼で指揮者に向き直り、指揮を一目見て聖歌の一節が演奏されることを察した。
音楽室に見事な伴奏が流れる。日々祭祀の日へ向けて行われる第四課の練習で、多くの巫女達や数少ない御子達がこなしてきた成果は実を結んでいる。やはり年も10を数えるほどになると、成果は顕著に現れるものである。オルガンの伴奏に区切りをつけるように打ち合わされるシンバルの音を合図に、長さも様々な吹奏楽器が次々に音色を奏で始める。
その中で、一際美しい笛の音が、音楽室の隅から響き渡った。
グッズの音色である。無垢で穢れ一つない、揺らぎのない高音の伸び、情緒豊かな低音の連続も、欠けることなく美しい音色が響く。そうかと思えば、僅かなブレスの瞬間に訪れる静寂さえ、さながらその無音に音符が乗っているかのような風情がある。
多くの巫女達がグッズの演奏を羨ましく思ったのは言うまでもない。こと奏楽において、彼は極めて優れた才能の持ち主であった。
そうであるにもかかわらず、寝起きのグッズの目はまだ冴え切っていない。半分閉じた瞼で指揮棒を追いかけ、笛の音がそれを追いかけるように続く。本調子であればどれほどのものであろうか。長年演奏を続けてきた御子達も、舌を巻くよりほかにはない。
演奏が終わり、第四課終了が近づくと、講師はグッズ以外の者たちにあれこれとアドバイスをして回る。
ようやく目が冴えてきたグッズは、笛の穴をいたずらに構いながら、音階の通りに鼻歌を歌っている。
アドバイスもグッズの番がやってくる。講師は何とも言えない表情を浮かべながら、言葉を詰まらせ、やがて絞り出すように「あまり居眠りをしないように」とだけ述べた。
これと同時に、第四課の終了を告げるチャイムが鳴る。御子達や巫女達が祈りの口上を唱え、一日の安寧に感謝を捧げたあと、彼女たちは一斉に、雪崩れるように音楽室から外へと繰り出して行く。
騒がしくなる音楽室の扉の前に、無理矢理小さな体を捻じ込みながら退室したグッズは、廊下へ繰り出すなり、帰り支度を済ませるために駆け足で講義室へと戻っていく。
何度か人とぶつかりそうになりながらも、彼は廊下を走り切り、講義室の扉を勢い良く開けた。
既に何人かが講義室へと戻っており、帰り支度をしていた。彼もそれに混ざって鞄に物を捻じ込んでいく。
放課後の浮足立った御子達の様子はとても賑やかで、彼らの鞄からは自作のカードの束などが覗いている。グッズは鞄を一番に背負うと、御子達の中に駆け寄って言う。
「なぁなぁ、暇?カードで遊ぼう!」
「おー、グッズ。ぐっすりだったか?」
一人が意地悪な笑顔でそう言うと、グッズは親指を立てて「おかげで元気!」と返す。それを笑いながら、御子達は支度を済ませて、学士棟の中にある空き講義室へと向かった。
空き講義室の中には、講義に使用する多くの道具などが、整然と並べられている。本来御子や巫女達が鞄を入れるための戸棚には、四分儀や地図、ホルマリン漬けのガラス瓶、実習用の聖水、巫女用の化粧箱、御子用のスクロールなどが保管されている。グッズがいの一番に空き教室の扉を開け放つと、これらの古い教材が黴や埃の臭いを充満させていた。
グッズの勢いが一瞬だけ落ちたが、それも束の間のことで、他の御子達が到着する前に窓を開け放って換気をする。遅れて到着した御子達が黴臭さに鼻をつまむと、グッズはけらけらと楽しそうに笑いながら、古い講義室の机を四つ重ねて、雑巾をかける。一頻り汚れを落としたとみると、彼は椅子に勢いよく座り、御子達を誘ってばん、ばん、と机を叩いた。
「おぉい、早くやろうぜー!」
開け放たれた窓から風が流れ、カーテンが膨らむ。においが少し緩和され、御子達はグッズと共に席についた。
彼らはまず、乱暴に鞄の中を開けると、厚紙で作ったカードの束を取り出した。それぞれが相対する相手と示し合わせ、慣れた様子でコインを用意する。螺鈿製のボタンを入れた袋などを脇に置き、コイントスを合図に競技に勤しみ始めた。
「グッズ、アイテスとかは興味ないのか?」
御子がカードをシャッフルしながらグッズに話しかける。グッズは一日で一番難しい顔をして答えた。
「うーん、誘ったんだけど、断られちゃって」
さらに、別の御子が呟く。
「あいつそういう所付き合い悪いよなー」
「でも、カードを作る案をくれたりするんだぜ。こういう時はすぐに使える手数が多い方が最善手を取りやすいよーって」
グッズがすかさずフォローをすると、質問をした御子がしみじみと呟いた。
「堅実な山札を作るんだろうなぁ・・・」
彼らは時々相手を変えながら、何度も競技を繰り返す。グッズは大物を出せれば勝ち、そうでなければ負けるという大味な戦いを展開した。彼らが満足して競技を終える頃には、既に西日が射しているのであった。
「うわぁ、門限がやばい!」
「帰ろ、帰ろ!」
彼らは乱暴に机を元の位置まで引きずると、急いで窓を閉め、我先にと講義室から飛び出していく。散らかしたカードやボタンをしまうのに遅れたグッズは、彼らに少し遅れて飛び出したのだが、それでも、彼らにすぐに追いついた。
「お先!」
「うぉぉい、速ぇ!」
学術棟の規則など一顧だにせず、彼らは駆け足で学術棟を出て、居住棟へと戻る。グッズは受付に名前と時刻を書き込む。
「ただいまぁ!」
「こおら、ちゃんと元に戻しなさい!」
扉を入ってすぐにある階段を駆け上り、階段から非常に近い位置にある扉を威勢よく開け放つ。
「たっだいまぁー!」
彼は中央にある円卓に鞄を放り投げ、靴を蹴り飛ばすように脱ぐ。二段ベッドの上から、じっとりとした目つきのアイテスが床を見おろしてくる。
「もぉ、少し静かにしてよ・・・」
そう言いながらも、彼はグッズが部屋に戻って来るなり、梯子を下りてくる。グッズはニコニコと満面の笑みを浮かべながら、彼がおりてくるのを待った。
アイテスがおりてくると、先ずはグッズの鞄を開け、中身の破損のないことを確かめる。そして、鞄を持ち上げて机の傷を確認した。
「門限には間に合ったね」
「完璧!」
グッズの自慢気な返答に、アイテスは呆れた様子で鼻を鳴らす。続いて、グッズの鞄を彼に返しながら続けた。
「机と鞄の中身が壊れるから投げないでね」
「考えとく!!」
「・・・それは昨日聞いたよ」
グッズは鞄を受け取り、アイテスが伸ばしてくる手を無防備に受け入れる。この親友が自分の世話をしてくれることを喜んだ。ところが、アイテスはグッズの襟を整えながら、彼の耳元で囁く。
「次やったら寮長呼ぶからね・・・」
この冷たい言葉こそ、グッズが何より恐れた言葉であった。全身から血の気が引き、体の末端に至るまで寒気が走り抜ける。
「はぁい・・・」
アイテスは返事に満足してグッズの頭を掻き撫でながら、宿題をするようにと促す。
グッズは心の底からの反意を表情と口頭とで返したが、今にも角が生えそうなアイテスの様子を見て、観念する。
彼は渋々ヘッドボードから必要な教所を取って戻ると、円卓の前に座り込む。グッズは彼がずるをしないようにと、腕を組み、仁王立ちで円卓の上に開かれた教書を監視している。
グッズにとって一日で最も長い時間が始まろうとしていた。




