第二玄義:追従8
朝日が昇るまでホロの鳥肌が収まることはなかった。穢土を直接目にしたこと、穢土にノゼンダが踏み出さんとしたこと、何より、アイテスの冷め切った瞳。全てが穢れのせいに違いないが、それでも、彼女には恐ろしくてならなかった。
青の民へ祈る気にもなれず、まして講義など受ける気にもならず、彼女はただ、どうすれば良かったのかを知るために、懺悔室へと向かった。
仄暗い闇を纏う懺悔室の内部が途端に恐ろしく思えるようになった。扉を開くと、無防備に開かれていたカーテンが慌てて閉ざされる。蝋燭の明かりもない闇の中、手探りで椅子に座った彼女は、耳飾りを外し、両手でこれを握りしめて目を閉じる。
「どうか・・・お導き下さい」
「どうしたのですか、このような時間に。まだ講義中でしょう」
聴罪師の問いかけに答えることができず、小声で言葉を繰り返す。ホロのただならぬ雰囲気に、聴罪師もすぐに支度を整える。大きな祈り石を手に収め、カーテンから影がよく見えるように蝋燭の明かりを灯した。
「私の目の前で、友人が穢に触れ、それを友人が断罪しました・・・」
驚きか、動揺か。聴罪師も俄かに体を動かす。カーテン越しにホロと向かい合い、腰を据えて話を聞き始めた。
ホロは昨日見た一部始終を説明する。真剣に話を聞く聴罪師の影は、いつもよりなお姿勢を正しているように見えた。
話を続けるにつれ、揺らぐ蝋燭の光が影を歪ませ、彼女の視界の中にあるものを不確かなものに演出する。それを見るにつれ、昨夜の恐怖と焦燥が一層彩りを鮮やかに想起させる。
話を終える頃には、耳飾りを握る手にべったりと汗が滲んでいる。両手を開けば祈り石の輝きが汗で一層強くなり、蝋燭の微かな明かりをその空色に映していた。
「なるほど・・・。全てはあなたの思う通りに進まなかったということですか」
ホロは涙を滲ませながら頷いた。その時は、どうすれば良かったのか、それすら考える余裕がなかったのである。今にして思えば、アイテスを諫めてでもノゼンダを諭して導くべきではなかったか。彼女の中をぐるぐると後悔の念が巡る。
「あなた自身に罪は一つとしてありません。穢に触れたこと、その友人がまず罪深く、続いてそれを罰した友人が、軽率であったのだと言えます。そこで・・・あなたへの禊として、ご提案します」
「はい」
ホロは再び祈り石を握りしめる。切なる祈りを込めた温い手の平は、べっとりと貼りついて自然と重なり合った。
「この事実を、あなたの口で、きちんと、老師へと伝えなさい。そして、その結末を知るのです」
聴罪師が祈り石を握りしめ、祈りの仕草を取る。ホロもそれに合わせて、祈りを捧げ、青の民へ向けてメダイを唱えた。
懺悔室のカーテンが開かれる。すると、向かいの採光窓から差し込む光が、ホロの顔に差し込んできた。
目を開き、その光を受け止めた時、彼女は信仰の神秘を改めて感じ取る。この仄暗い、足元を見るのも覚束ない懺悔室の中で、一筋の光が、彼女の涙を照らし出したのである。
ホロは聴罪師に礼を言い、立ち上がると、決意を新たにして懺悔室を後にする。その耳に、改めてつけた耳飾りは、いつにも増して一層、世のきらめきを映していた。
懺悔室から師塔までの距離は近い。同じ共有区にあるため当然のことだが、それでも、ホロの足取りは決して軽やかではなかった。
誰もいない老師の塔の御前は、静けさに満たされている。一人席について祈りを捧げるホロに向けて、スピーカーの音がけたたましく呼びかけてきた。
「ホロ、どうしたのですか。あなたはまだ学ぶべきことがあるはず。どのような理由でここを訊ねていらっしゃったのですか」
「恐れながら老師様。私は、友人が穢に触れたこと、それを断罪した友人のことを、報告しなければならないと思い、この場所に参りました。教典よりも、わが身に沁みる言葉を授かることになるだろう、と、そう判断してのことであります」
ホロははきはきと答えたが、心臓の鼓動は収まる様子が無かった。激しく脈打つ心拍のため、汗が染み出し、ヴェールを濡らす。首筋には大粒の汗が溜まって、ひどく喉も乾いた。
それでも、務めを果たさなければならないと思ったのは、ただ、ホロの篤信家ゆえである。
スピーカーから発される音が反響しながら耳へと届く。
「確かに。君の友人とは、ノゼンダとアイテスのことだろう。アイテスは善い行いをした。愚かなことをしたノゼンダは、この場所に穢を運んでしまった罪を受けている」
「それは、どのような罪ですか」
ホロは唾を飲み込む。湿った髪の毛がほどけて眉にかかる。
「穢に触れた右目をくり抜いて、穢土へと送り出す。間もなく来ることだろう」
ホロは動揺して、思わず顔を持ち上げる。老師の塔はいつにも増して高圧的で、誰も触れることを許さないようだ。
それとほとんど同時に、行政区側の扉が乱暴に開かれる。扉の中から近衛兵に両脇を抱えられ、腕を縛り上げられたノゼンダが、唇を震わせて共有部へと連れられて行く。
たった一夜、たった一夜のことである。ノゼンダは唇まで乾燥し、片目を綺麗に潰されて、赤い涙を流していた。乱れた髪が顔にかかるその姿は、ほとんど怪物のよう。
ホロは恐ろしさのあまり声も出せなかった。揺らぐ瞳が捕らえたのは、共有部の荷卸場の扉が開かれ、開け放たれた跳ね橋の内側から、勢いをつけて放り出されるノゼンダの姿であった。
完全に穢土へと放り出されたノゼンダは、茶色い地面を舐め、這い上がりながら、恨めし気に施設の中を睨む。跳ね橋がガタガタと喧しい音を立て、ノゼンダの帰還を拒むと、彼は起こした身を田園の方へと向けて、ふらふらと立ち上がった。
「はっ・・・はっ・・・、うぅ・・・」
つわりのような不快感がホロの喉元を通り抜ける。老師は静かにスピーカーの電源の切り、ホロを一人放置して会話を断ち切った。
ボロボロと涙が零れ落ちる。どこにも救いなどなかった。
ホロは必死に立ち上がり、逃げるように老師の塔から離れると、学士区へ続く渡り廊下を渡った。
必死に棟内を駆け抜け、中庭へと這い出す。そして、木の下で呆然と立ち尽くすアイテスを見つけると、彼女はその胸倉を掴んだ。
「あなたは!何も思わなかったの・・・!?」
アイテスはただ無表情で、その頬で涙を受け止めている。
「あなたが、あんなことをしたから!ノゼンダ君にも更生の余地はあったはずなのに!?」
「僕は・・・間違ってない。僕は・・・間違って・・・」
アイテスは放心状態でぼそぼそと呟く。ホロは彼を突き飛ばすと、居住棟の階段を駆け上がり、自室でベッドを濡らした。
アイテスは中庭を髪を乱しながら駆け抜けていくホロを見送った後、ただ静かに、脛を撫でる冷たい風を受けて放心していた。




