第二玄義:追従6
何かが起ころうとしている。ホロは全てに関して確信した。帰路につき、混乱する頭を少しでも整理しようと言葉を咀嚼するうちに、ホロは喉元に引っかかる言葉に何度も思い当たり、足を止めた。
「・・・恋煩い?」
吹き抜ける風を全身に受け、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
恋煩い。貞節から最も遠い言葉である。彼女はしばらく硬直し、みるみる青ざめていく。
冷静さよりは混乱が遥かに勝った。何故、よりによって自分に恋煩いなどと、馬鹿げた感情を向けるのか。ノゼンダという男を、学友という視点ですら認識したことが無かった彼女にとって、その唐突な好意は外観とは全く無関係な嫌悪感を覚えた。彼は恐る恐る耳飾りに触れる。取り外して胸元に押し当てようとした時、思わず短い悲鳴を上げた。
澄んだ空色の祈り石が、夕焼けに染まって赤く発光している。悍ましくも穢れた赤色に、澄んだ青色が染まろうとしていた。彼女は咄嗟に耳飾りを庇うように握りしめながら、廊下を駆け抜けた。
自分自身が他者によって穢されようとしている・・・。その恐ろしさと言ったら、筆舌に尽くし難い。彼女は必死に、殆ど逃げるように階段を駆け上り、怯え切った体を制御できないほどの慌てようで、角を曲がった。
居住棟の急な階段を一気に駆けのぼり、自室の扉を乱暴に開ける。そして、逃げ込んだ室内で扉にもたれ掛かりながら、息を上げてへたりこんだ。
握りしめた手を開く。仄暗い影の中にある祈り石は、ただくすんだ空色をしていた。
彼女はそれをぎゅっと握り直し、呼吸を整える。男性用の部屋より一回り大きい採光窓から差し込む茜色の光は、彼女に室内へ入ることを躊躇わせた。
やがて夕日が山際を染め上げ、少しずつ空の色が群青へ染まっていくと、影が部屋を徐々に侵食し始める。ホロがようやく玄関から立ち上がり、よろよろとベッドに向かっていく。
「男の子と女の子・・・好きだと、どうするのかな・・・?」
ホロはその前については歪んだ認知を持っていたが、その先については何の知識もなかった。彼女が大切に守ってきた貞節も、その先を知ることを拒み続けていたのである。彼女は黴臭い共用棚を開き、古い教典をすぐに開いた。教典にある説話のうち、「愛について」の帖を片っ端から開く。食事の時間を告げるベルの音が響いても、彼女は呼び出しを受けるまで気づくことができなかった。
愛についての帖を開いて理解したことは、彼女には全く理解できなかった。教典の中にあることとは思えないほど、「理解」するための語彙が不足していたのだ。いかがわしい言葉が無かった分だけ、余計に婉曲的であったことも手伝って、ますます想像を絶する世界のように思えた。
ただ、断片的な情報だけでも、自分やノゼンダが『相手を選んでよい』立場にはないということは、想像に難くないものであった。
彼女はひとり食卓に着くと、運ばれてきた料理をただ口へと運ぶ。何とも味気ない食事のように思えた。すぐに食事を終えると、すぐに自室へと戻る。同室人も食事から戻ってきていたが、ホロにはそれに構う暇もなかった。投げやりな挨拶を互いに交わす。
同室人が化粧品を広げてメイクをする円卓から教典を取り上げ、先ほどの続きを読み漁る。
「ほんとよくやるわぁー」
同室人の言葉は本当に彼女の耳に届かなかった。はじめて無視を決め込まれたと判断した同室人は、あからさまに不機嫌になって小さな舌打ちをする。とはいえ口論になるほど互いに重なる部分もないため、彼女は黙って自分の作業に戻ったのである。
一方で、ホロは混乱しながら教典の熟読を続けた。彼女には、多くの人が想像できるようなものが良く理解できなかった。教典を読んで、「目が滑る」という感覚を初めて味わう焦燥感は計り知れない。彼女は頁をいくつも捲っては、想像の外にある世界に戸惑い、困惑しながら言葉の意味だけを読み解いた。
同室人が顔色の青くなったホロを怪訝そうに見つめている。下地だけを整え、顔の半分だけをメイクした、中途半端な顔面は、まるで別人の顔を縫い合わせたようだ。
「どうしたの?」
「え」
「どうしたのって聞いてんじゃん。ダイジョブそ?」
ホロが同室人の声に気づき見つめ合うと、元々気の強そうな同室人はどことなく迷惑そうな表情をしていた。困惑するホロがもう一度聞き返すと、同室人は呆れて言葉を続ける。
「教典読んでる時のあんた、そんな表情しないじゃん。なに?どこ読んでる?」
そう言って同室人が教典を覗き込む。厚化粧をする前の、自然で整った顔立ちの同室人の顔が近づいてきた時、ホロは思わず身を退いた。しかし、内心では彼女が最も美しい表情をしているように思えた。
古語で記された教典を覗き込み、怪訝そうに眉を顰める同室人。ホロは逡巡した。自分のように教典を熟読したことのない人が、この難問に答えられるはずはない。しかし、もし、可能性があるならば、一縷の望みに縋ってみるのもいいかもしれない。それはほとんど反射的な希望であった。
「あの、さ・・・」
「ん?」
阿修羅のような顔がホロを覗き込む。顔貌から表情に至るまで、まさにそのような顔だ。
「愛って、何・・・?」
一瞬場が静まり返る。次に同室人が発したのは「は?」という想定内の回答だった。
ホロは取り繕って引き攣った笑顔を見せる。
「ご、ごめんごめん!今のは忘れて!」
「ふぅーん・・・」
同室人はニヤつきながらホロの顔に迫った。
「あんたが好きなの?相手が好きなの?」
「多分相手・・・?私が声を掛けたら、動揺して逃げてっちゃった」
同室人が面白そうに顔を歪めていく。ホロはその表情が不気味に思えて、ますます距離を取った。しかし、あろうことか相手はホロのベッドの上に座り込んで顔を近づけてくる。
「で?あんたは好きなの?」
「嫌いじゃないけど・・・そういう感情はない?かな・・・」
ホロは恐る恐る答えた。相手の関心事項が理解できない。未知の感情に頭をかき乱された。ただ、ホロの意図は相手には伝わったらしい。同室人は顎の下を撫でる不思議な癖を晒しながら、ふぅん、と吐息を漏らす。しばらく考えを巡らせた後、同室人はホロにアドバイスを伝えた。
「なら、ちゃんと断っときなよ。変に関係がぎくしゃくする前にさ」
「ぎくしゃくするの・・・?関係・・・」
「当たり前じゃん!だってあんた、相手があんたの好意を勘違いしたら、裏切られたーとかで根に持つよ?そのタイプは特に・・・」
ホロはノゼンダの顔を思い浮かべた。少し頬が紅潮したように見える、極めて白い肌。控え目で普段無口な少年で、髪は長めで顔を隠しているようだ。無害で純朴な存在に思えるので、拗れたら困るという同室人の考えは理解できないが、どちらかといえば年下のような愛らしさがある。傷が深くなる前に断るのは英断に思えた。
別人の顔を縫い付けたような顔は、しかしどちらも正しく左右対称の顔をしている。口角は持ち上がり、友好的で、それでいて邪な思いは無いように見える。ホロははじめて同室人の表情を見た気がした。
「・・・うん、断る。ありがとう」
「あんたもそういう感情あるんだーって安心したわ」
同室人はベッドから立ち上がり、伸びをしながら手鏡の前に戻る。占領した円卓の前に再び座り込むと、彼女は化粧を再開した。
「まぁ、そうだよな。絶対一回は強制されるんだから、余分に嫌なやつとかに体預けたくないよなぁー」
ホロは目を瞬かせる。確かに、学士区の御子や巫女らは、成人の儀を終えると決められた形で契りを結ぶことになっている。相手方は自分で選ぶことができないので、そういう考えもあるのか、と納得したのである。
その後、望むならば行政区の男性と別の関係も選べるが、接触することが難しくなるので、その一度切りというのがホロにとっての常識であった。
それが、巫女が聖職につくために当然のことであったからだ。
「それ、怖くない?」
「変な奴だったら嫌だわな」
「そう、そう。そうだよね」
「へぇー。妙に気が合うじゃん、今日」
「そうだね」
互いの表情を直視したのいつぶりだろうか、そう思ったのは、ホロだけではなかったはずだ。
気持ちを整えてしまえば、不思議と心が軽やかになる。ホロは何となく嬉しくなり、膝に閉じた教典を置いて、同室人と他愛のない世話話を続けた。
化粧を終えて同室人が出かけたのは、恐らく十分ほど後のことである。彼女を見送った後、ホロは再び教典を開き、肌感覚で「愛について」の帖を読み解いたのであった。




