第二玄義:追従5
全ての講義を終え、ホロは聴罪師のもとへと向かおうと講義室を出た。日中の騒動で心配事が折り重なり、昨日羽目を外したことや、連日麦粥や兎肉など、教典にある料理を食べていなかったことなどを思い起こし、因果が巡ってきたのだろうかなどと懊悩しながら歩く。
日は高く、学士区は何のトラブルもなく穏やかである。アイテスとグッズの関係も、昼間と比べるべくもない、心の安らぐ景色とよく馴染んで見えた。彼女はその景色と同じように、変わりなく中庭へと繰り出す。空には尊い色だけが変わりなく浮かんでいる。
その中庭で、ぽつんと佇んでいるノゼンダの姿は、彼女には珍しく思えた。
不審な素振りは無さそうだが、青空をじっと見上げて、何か思わせぶりな、真剣な眼差しをしている。日中の出来事があったので、彼女は過剰に不安に思い、思わずノゼンダの背中へと近づいていく。
「あの、ねぇ、ノゼンダくん」
一瞬びくりと肩を竦ませると、ノゼンダは恐る恐るホロの方を振り向く。どことなく恨めし気な表情を浮かべたノゼンダに動揺しながら、ホロは恐る恐る尋ねた。
「何か、思いつめている?もしそうならば、聴罪師にお話を聞いてもらってはどう・・・?」
そう伺い立てて覗き込む姿に、少年はひどく緊張した様子でパクパクと口を開いたかと思うと、すぐさまその場を逃げ出してしまう。後追いすることもできず、彼女が呼んだ名前は虚しく空を撫でた。
ノゼンダが逃げ出してしまうと、中庭には静かな風だけが通り過ぎる。草木の騒めきを追いかけるように、御子達が学術棟の方から談笑しながら降りてくる。そこには普段と変わらない穏やかな昼下がりが取り残されたようであった。ホロは気を取り直し、自分の日課をこなすために道を急ぐ。
中庭から学士区の居住棟へと移動し、渡り廊下から共有部へと至る。通り過ぎる行政区で政務をこなす大人たちの顎が、いくつか彼女の肩の隣を通り過ぎていく。やがて懺悔室へと至ると、彼女は耳に着けた祈り石をそっと握って一日の出来事を思い起こし、祈りを胸に秘めながら入室した。
真暗な室内の中で唯一の、窓越しに見える僅かな明かりへと歩み寄る。カーテンがさっと閉ざされ、光明がくすんだ中で、ホロは膝を折り、両手を合わせて一日の出来事を伝えた。
「どうかお聞きください。私は今朝から、品行方正に正しく、白の民として過ごすことができたのでしょうか」
「どうぞ、お話しください」
聴罪師の気だるげな声が聞こえる。ホロはくすんだ明かりを見上げて、語り続ける。
「今朝は、昨晩の夜更かしの影響で少し遅く起きることになりました。朝の祈りは三度、心を込めて行いましたが、普段よりずっと早口で暗唱しました」
「敬虔なのは良いことです。しかし、夜更かしは良くない」
「・・・はい。朝食は青ぶどう、トレンチャーと野菜でした。日中、泣いてしまった同じ年頃の少年を宥め、学業に励みました。なお、教典の講義は『慈悲の巡礼』でありました。昼食は、鯵とパン、そして野菜でした」
「青の民の良き教えを遂行なさっているのですね。今日の献立は普段と少し違うようですが、これはどのような経緯で?」
「はい。夜遅くに寝て朝ゆっくりと起きましたので、昼食の支度の際に、兎肉の穢れを祓う下処理が遂行できないと判断したためです。故に、青魚を代わりに摂取しました」
「喜ばしいことかと存じます。今日もご立派な、教義通りの一日であったと思います」
そう答えられて、僅かに心の迷いが生じたホロは、すぐに祈りの仕草はとらずに、躊躇いながら言葉を続けた。
「あの・・・。今朝、私の友人がひどく疲れていて、それに、昼に慰めた子というのも幼馴染だったのです。私の周りで、何か良からぬことが起こっているような、そのような思いがするのです」
普段とは趣の違う相談に、聴罪師の影は姿勢を直してホロに向き直る。影が動き、椅子を引く音がしたかと思うと、祈り石をそっとカーテンの裏側で下ろした。
「確かに、特別な予兆があるだろうことは想像に難くありません。詳しくお話し下さい」
ホロは、事の次第を細かく説明した。自分の見聞きした殆ど一部始終を、話すことも無くなるほど詳細に語る。カーテン越しの影は手元で何かを動かしながら、普段よりも丁寧な相槌を打つ。
全てを話し終えたホロは深いため息をこぼす。肩の力が抜け、僅かに心が楽になったように感じた。
そして、影が静かに机に手を置くと、ホロにしっかりと向かい合って語り掛けた。
「それは、あなた以外の何かが、忌まわしい異変の引き金になってしまったように思います」
「どういうことですか?」
「穢が、持ち込まれたのではないかと・・・」
ホロは動揺のあまり言葉を繰り返す。彼女の脳裏には、些細な変化に過ぎない日中のノゼンダの姿さえ想起させられた。
「あの、ノゼンダという子が、ぼんやりと空を眺めていて、私が声を掛けるともごもごと口ごもって逃げてしまったのですが・・・。それは、異変なのでしょうか」
深刻な声音で問いかけるホロに対し、聴罪師はふっ、と小さく笑い声をこぼした。
「異変ではあるでしょう。恋煩いというものかもしれません」
「異変!?どうすればいいのですか・・・?」
ホロは戸惑いのあまり身を乗り出した。立ち上がった勢いで丸椅子が床へと転がる。その音さえも、彼女には聞き取れなかった。
「あなたは敬虔な暮らしを維持することこそが、全てを解決する近道です。これからも励むようにして下さい」
「わかり、ました・・・」
ホロは動揺しながらも承諾する。影がそっと祈り石を掲げると、ホロも耳飾りを外して胸元で強く握りしめる。
祈り石が僅かな光を映したかと思えば、すぐにそれを女性の細い両手が吸い込んでしまう。
二人が唱和した祈りの言葉は、今日は静かでより真摯な言葉になった。




