第二玄義:追従2
自室へ戻ったホロがまず感じ取ったのは、化粧品特有の鼻につくにおいだった。
ホロの部屋は女性用の設備が揃った部屋で、グッズやアイテスのそれよりもわずかに広かった。クローゼットも人数分あり、共用棚とベッドの間には少しゆとりがある。採光窓は少し高い位置にあり、それに合わせて机がやや扉側へ寄っていた。
「おかえりー」
「・・・うん。ただいま」
同室人は興味なさげに彼女に声を掛けてくる。手鏡とにらめっこをするその姿を残念に思いながら、彼女は流し台へと向かった。
彼女は桶に溜めた水で手を洗い清め、そしてオリーブと灰で作った石鹸で丁寧に洗う。そして、酢を手に塗り込み、さらに桶に満たした清水でそれを濯いだ。
少し赤らんだ手を丁寧に拭い、手鏡と睨み合いを続ける同室人の後ろを横切って、共用棚から教典を取り出した。
「好きだねぇー」
同室人の声が煩わしく響いた。ホロは取り出した古い教典を棚の上に置き、上手く感情を抑えながら笑顔を作った。
「うん。青の民にひきあげてもらいたいから」
「まだいいんじゃなーい?」
「早い方がいいよ・・・」
彼女は小声でそういい返したが、同室人は「ふぅん」と興味なさげな相槌を打つだけだった。
ホロは教典を開くと、説教の該当箇所を唱和した。長い説教よりもさらに長く、また表現も一層回りくどくあったが、それ故に得難い御利益があるように感じられた。
説教の声が響きだすのと同時に、同室人は少し距離を置き、向きを変える。二人は顔も見合わせないまま、夕食までの気まずい時間を過ごした。
ホロが教典を閉じるのを待ちわびたように、ベルが鳴り響く。気が付けば同室人の姿は既になく、恐らく夜遊びに出かけたのだと、ホロには察しがついた。
緊張の糸が解れて、思わずため息を漏らす。自然と漏れた所作に強い罪悪感を抱いたホロは、クミンの実を炒ったものを一粒口に含み、苦しそうに噛み締めた。しっかりと喉へと流し込み、ふっ、と声を漏らすと、彼女は食堂へ向かって階段を下りて行った。
上の階では修道服の女性たちが、ホロよりも多く前髪を垂らしているのを見たが、階を降るごとに男性の数が増えていく。既に食堂に到着している者はほとんどが男性であった。
その中でも、一際強い輝きを放つアイテスが、配膳を待ちながら聖務に励んでいる。細くしなやかな少年の手が、一枚一枚丁寧に書物を捲るその様は、本当に、はっと息をのむほどに艶めかしい。
ホロはかなり奥まったところにある女性席へと座ると、彼女に続いて続々と女性席が埋まっていく。我先にと席を取るのが、アイテスにほど近い、男性席の真横である。厚化粧した同室人がその場所を争って談笑する少年の席を押し込んで近づいてくる姿は、彼女にはひどく残念に思われた。
恥ずかしげもなくアイテスの斜め隣の席に座った同室人は、アイテスの真隣にいるグッズなどをひどく睨みつけながら、アイテスが時折見せる、輝くばかりの微笑みにうっとりとする。それを傍から眺めるにつれ、ホロはとても恥ずかしく思われて、とても直視していられない。
「今日もあの子アイテスくんの近くにいるねー」
「けばけばしい、ヴェールから出る巻き髪とか派手過ぎじゃない?」
そう近くの巫女らが言うのも、ひどく残念に思われる。ホロは食堂での待ち時間が、特に食事が始まる直前の賑わいが、一等苦手であった。
食事が始まると、少しばかり女性たちの関心が食事に移る。そうすると、ホロは先程より安堵できるのである。
その日の献立を見て、アイテスの目が一瞬きらりと輝いたのを見ると、女性たちも競って好みのものを探る。青の民の白い肉、即ち小麦に塩と水を入れ、こねて焼いてだけの平たいパンと、鯖の塩焼き、彩り豊かな緑の野菜、果物にオレンジ、スープと水である。彼の好みについて、香りのよいパンが良いのか、それとも色鮮やかな野菜が良いのか、女性たちが色々の議論をしているところもあった。ホロの周りの席は落ち着いた女性が多いので、食事の味わいに関する会話が多いのであったが。
とはいえ、時折色好みめいた会話も耳にするものである。ホロがちょうどパンをちぎって口に運ぼうとしたときに、彼女が声を掛けられたのは、
「色好みの薬ってあるの?」
というものであった。ホロには覚えがあったが、敢えて知らないふりをして首を振る。そうすると、声を掛けた者も肩を落として、「そっかぁ」などと答えたのである。
「何か気になる人でもいらっしゃるのですか?」
つとめて丁寧な物腰でホロが問いかけたところ、女性は「そうじゃなくて・・・」と眉を顰めて斜め後ろの席を睨む。
「アイテスくんと誰かがくっついちゃえば、さっさとことが収まると思わない?」
とのこと。すかさず別の女性が答えて言うには、
「そういう訳にもいかないでしょう。嫉妬でこじれにこじれますよ」
「そうかぁ・・・。喧しいのよぉ・・・!」
と、苛立ちながら言う女性に同情しつつも、ホロは食事に関心がある風に装った。
「人間の欲を無くす薬などあれば、青の星へも近づこうものを」
「本当にそう!!」
一層強い口調で答える女性に、ホロは苦笑いを返す。残酷なことだが、女性たちがアイテスにどれほど思いを募らせようと、当の本人には全く思いが伝わることはない。それは、僅かばかりでも同類と思われるところを感じ取った、ホロ自身がそう思うことであった。
鯖を口いっぱいに含んで無邪気な笑顔で咀嚼するアイテスの後ろで、多くの思惑が入り乱れていた。アイテスを囲む眼差しから少し距離を置いたホロの一行が食事を終えて立ち上がると、食堂の前方で控えていたノゼンダがそれに気づき、遠回りしてホロ達の席へと向かって行く。女性たちは綺麗にそろえたお盆を置いたまま、食堂を後にした。
彼女達が食堂を出ると、数は少ないが、既に食事を終えた人々が一階の休憩所に屯している。眼鏡をかけた御子達が、卓上一杯にカードを広げて遊んでいる。
「先約がいらっしゃいますね」
「仕方ないよ、上をあたろう」
ホロの何気ない呟きに、女性が呟く。彼女達は二階、三階、と、階段を昇っていったが、休憩室は全て御子達が独占していた。
「まぁ、致し方ありませんね・・・」
「もぉ、なんで男子の席が前なのよぉー・・・」
女性たちは更に梯子を昇り、屋上の扉を開けた。
小さな扉を開くと、彼女の頭上には真っ先に星空があった。全員が屋上へとよじ登った後、服の裾を払う。
最後に出てきた者が扉を閉ざすと、一同は敷物を広げ、手持ちの果実や菓子を広げて、その場に座り込んだ。
「最近の風紀の乱れはどうにも気になります」
「ホロちゃんはもうちょっと他人行儀な言葉を控えてもいいと思うけどねー」
「でも、アイテスくんのことは仕方ないと思うよ。だって・・・」
「かわいい「かっこいい」もんね」
言葉が混ざっても、友人間の気持ちは同じらしく、女性たちは楽しそうにからからと笑う。ホロは干しいちじくのひとかけらを口に運ぶ。必要以上に甘ったるいそれが、食後の忙しい口内には丁度良かった。
「まぁ、でも・・・。男の子たちにも浮かれてる子がいるのに、女の子は浮かれちゃダメっていうのも違う気がするかなぁ」
菓子を齧りながら、しみじみと呟く友人に、ホロは少し口調を強めて反論する。
「それは違います。本来はどちらも風紀を乱すようなことはするべきでないのです」
「そうだけどさぁ・・・。たまにはおしゃれしたい気持ちは分かるじゃない?」
「わかりません」
きっぱりと答えるホロに、友人たちは困ったような表情を向ける。ホロは干しいちじくを再び一口口に含むと、友人たちに申し訳なさそうに「・・・すいません」と答えた。
夜風が敷物の隅を浮かび上げる。肌寒さを感じて身を縮こませるホロに、友人たちは口々に言った。
「ホロはお堅過ぎなの!グッズやアイテスくんにするみたいにもっと肩の力抜けばいいのに!」
「たまには欲張っても罰は当たりませんよ。髪隠すのもまだなんですから」
「風紀の乱れは心の乱れっていうのはー、分かるんだけどねぇ」
「それはそう。すいません・・・」
友人たちは示し合わせたように菓子類に手を伸ばす。梨やオレンジも一気に胃の中に消え、舌鼓を打っては相槌を打ち合う。そして、頑なに干しいちじくを口に運ぶホロに対して、それぞれが持ち寄った菓子を次々に勧めていく。
いっぺんに手元に甘味が渡されたホロは、困惑しながらも心遣いに感謝し、一つ一つを大事に口へと運んだ。
「・・・美味しい」
不意に表情を緩ませるホロを見て、友人たちは安堵したらしく、敷物から身を起こして天へ向けて大いに伸びをする。
「うーん、よい夜!」
「・・・月が、綺麗ですね」
「ぶふふ、それ知ってます」
ホロもつられて空を見上げる。足元にはぽっかりと空いた学士棟の中庭があり、木々が遥かに下に望める。満天の星空の中、一等に輝く月が色とりどりの光を率いて空を渡っていく。
月を追って、自然と一同の顔が穢土の方へと向かった。輝く月の真下には、広大な田園風景が広がり、遥かな山際の方へ向けて、職人や商人の家々の影が連なっている。遥かな彼方にある山々の連なりも、どこか風情を感じさせる。
「慈悲の巡礼みたい」
「本当に、明かりの色もいっぱいあって」
「男子に感謝だねー」
互いに語り合っていると、ホロは何気なく穢土のある方に視線が向いた。その時、建物の窓から、何か人の手のようなものが、穢土の方に伸びているのを目にした。そのような不思議な光景を、彼女は見たことが無かった。首を傾げ、その様子を凝視していると、その手のようなものはすぐに引っ込んでしまう。ホロは少しばかり不気味にも感じたものの、友人たちに声を掛けられて、すぐに関心を失った。
「今日は羽目を外して夜更かししますかぁ!」
と、陽気な友人が声を張り上げたので、この時ばかりはホロも友人たちと共に賛同した。一同は張り切って敷物の上に座り直すと、半分ほど残った菓子を食べながら、月が傾くまでの瞬く夜空を眺めていた。




